四十二年目の呪い
『とある国のその未来で……』
今、この国では誕生年は数えない。
数えるのは「残り年数」だった。
私がそのことを初めて実感したのは、十二歳のとき、
その日は、父の四十二年目、残り年数ゼロの祝いの日だった。
祝い、と言っても華やかなものではない。
白い布を敷いた卓に、季節の野菜と少量の肉、濁り酒が一本、それだけだ。
母は朝から静かで、声を張ることもなく、包丁の音だけがやけに響いていた。
「今日は、お父さんが立派に生き切った日なんだよ」
そう言って母は、父の背中を撫でた。
父は照れたように笑い、咳をひとつした。
その咳が長引くと、母は少しだけ目を伏せた。
四十二年。
この国では、それが「十分に与えられた人生」とされる。
昔はもっと長く生きる者もいたらしい。
百年近く生きる人間も、珍しくなかったと歴史の授業で聞いた。
医療が進み、様々な病気を治せるようになった。
代わりに、病気もまた新たな進化を遂げていった。
身体にまったく異常が現れず、検査をしてもみつからない奇病。
最初のうちは、それにだれも気づかなかった。
亡くなっていったのは、主に老人で自然死、
すなわち老衰と考えられた。
だが、その数が急激に増えていったこと、
老人に限らず、その死者数が増えていったことで
医療関係者は、その奇病の研究を開始した。
だが、原因はわからなかった。
「まるで、体内時計が狂って半分になってしまったようだ」
ある関係者は、そう言って嘆いたらしい。
治療の無意味さを悟ったこの国は、以後、寿命を「期待」するのをやめた。
データから平均的な生の数値が設定されて、その日を人生の満期と示した。
父は祝いの三日後に仕事を辞めた。
五十を超えて働く者はいない。
雇う側も、雇われる側も、そういう前提で生きている。
父は家にいる時間が増え、庭の手入れをするようになった。
痩せた指で土をいじり、妙に丁寧に雑草を抜いた。
「先のことを考えなくていいのは、楽だぞ」
それが口癖だった。
十七歳になると、進路が決まる。
長期の学問は許されない。
芸術家になる者もいるが、四十を越えて完成する作品に価値はないとされる。
子は一人か二人。
育て終えたら、人生は畳む。
効率的で、無駄がなく、誰も文句を言わない社会だった。
私は二十五で結婚し二十八で娘を産んだ。
子供の将来を考えると遅いと言われたが、
私も夫も、覚悟のうえで決断した。
娘が生まれた夜、夫は言った。
「この子が十七まで生きられたら、十分だな」
私は頷いた。
そう答えるのが、正しい母親だった。
三十九歳の春、通知が届いた。
白い封筒に、淡々とした文字で書かれていた。
《予測発症年齢:四十一歳。想定余命:二年》
驚きはなかった。
周囲も同じようなものだ。
私は淡々と職場に報告し、引き継ぎ表を作り、娘のために衣類と記録を整理した。
通常より一年早い、四十一年目の祝いの日、娘は私の前で正座していた。
十二歳、あの日の私と同じ年齢だった。
「お母さん、おめでとう」
教え込まれた通りの言葉を、少しぎこちなく言う。
「ありがとう」
私は笑い、娘の髪を撫でた。
驚くほど軽かった。
人の人生も、きっとこんな重さなのだと思った。
その夜、夫が小さな声で言った。
「怖くないか」
私は少し考えた。
怖くない、と言えば嘘になる。
でも、別の感情のほうが強かった。
「もし、もっと長く生きられるとしても……何をすればいいか、分からないわ」
夫は何も言わなかった。
翌年、検査結果が更新された。
予測は外れ、私の身体はまだ持つと分かった。
余命は未定。
異例だった。
医師は困った顔をした。
「おめでとうございます、と言うべきか……」
私は帰宅し、そのことを夫に伝えた。
彼は一瞬だけ喜び、すぐに表情を曇らせた。
「じゃあ……どうする?」
どうする。
その言葉は、この国で最も重かった。
私は仕事に戻れなかった。
年齢が過ぎていた。
再就職先もない。
周囲は腫れ物を見るような目で私を見た。
予定を超えて生きる人間は、縁起が悪い。
娘は学校で言われたらしい。
「お前の母親、まだ生きてるんだって?」
家の中で、娘は私を避けるようになった。
四十二年目の誕生日、もう祝いはなかった。
誰も何を言えばいいか分からなかった。
鏡に映る自分は、健康だった。
だが、私はもう「生きる役割」を終えていた。
その夜、娘が小さな声で聞いた。
「ねえ、お母さん。いつ、ちゃんと死ぬの?」
私は答えられなかった。
この国で本当に恐ろしいのは、死ではない。
予定を失ったまま、生き続けることなのだから。
── @news.narou_njp
【長寿化の影で発生した奇病〈グレイ・フェード症候群〉 半世紀後に残る疑問】
高度医療が頂点に達した21世紀後半、癌をはじめとする主要疾患はほぼ克服され、人々はかつてない長寿社会を迎えた。街には年金を支えに活動的な高齢者があふれ、病死は過去のものとなった。
しかしその時代、原因不明の奇病〈グレイ・フェード症候群〉が静かに広がっていた。当時から「自然発生ではないのではないか」「国家は急増する高齢問題をこれで解決するつもりか」といった噂が消えることはなかった。
特に不可解なのは、国がこの奇病の治療研究を本格的に進めなかった点である。当時は財政的に苦しい状況にあったというが、この奇病で多くの高齢者が亡くなって以降、国の財政は結果、好転した。あれから50年以上が過ぎたが、今なお資料の多くは封印されたまま。
この病は本当に偶然だったのか――。
半世紀以上が過ぎたいま、私たちは、ようやくその問いと向き合おうとしている。




