Doubt.⑤
── @news.narou_jp
【SNSの普及で言語の毒性に対する心の防衛機能が発達か — 研究者が指摘】
言語心理学の研究者は、SNSの拡大によって有害な言葉に触れる機会が増えた結果、心が“言語の毒性”に対する防衛反応を形成する可能性があると発表した。
研究によると、この反応は「身体がウイルスに免疫をつける仕組みに近い」としており、研究者は情報化社会の影響を指摘している。
『沈黙のその先に』
この山奥に移り住んでから、もうどれくらい経っただろうか。
街の音が消えた日を、はっきりと思い出せない。
時計も、スマホも、今はもういらない。
それよりも、重要なのはただひとつ。
あの耳鳴りのような声が、まだ鳴っているかどうか。
僕の名前は、木瀬タクヤ。
元は、言語心理学を研究していた。
嘘の構造、言葉の曖昧さ、社会における意味のズレ。
そのすべてを、論文にして食っていた。
でも、ある時期からだ。
あの声が、聞こえるようになったのは。
最初は、自分の嘘にだけ反応していた。
「簡単、つか余裕すぎ」と言えば、
ーーDoubt.
その声を聞いた途端、ゲームに負けたごとく、
「本当はしんどいよ」と心が改めて、返答する。
それは自己否定ではなかった。
ただ、現実とのズレが感知されるようになっただけだった。
そのうち、声は近くにいる人の嘘にも反応するようになった。
知人が営業スマイルを浮かべながら「これ、ほんとにおすすめですよ」と客たちに言うたびに、
ーーDoubt.
大学の教授が、僕を研究室にこっそり呼んでは、
「きみの出世は任せてくれ」とか、
「代わりに、きみの論文を少し参考にさせてもらえないかな」と言うたびに、
ーーDoubt.Doubt.Doubt.
どこからともなく、真空のような音が響くようになった。
やがて、それは伝染を始めた。
最初は、職場。次に、友人関係。
聞こえる人が、急激に増えていった。
皆、最初は苦しんだ。
しばらくすると、皆、無表情になった。
言葉を減らして、自己防衛をはじめた。
沈黙の中に、確かなものを探すようになった。
その変化を、僕たち研究者は進化と呼んだ。
これは、生物としての人間に迫った未知の声に対して、
それまでの限界を超えた末の、自然な反応だった。
嘘の多すぎる世界で、脳がそれにNOを突きつけはじめた、
結果、それが「声」として現れた。
ある研究者はこれを情報免疫系と名付けた。
【体がウイルスに対抗するように、心も言語の毒性に対して防衛機構を発達させた結果】だと。
だが、その免疫は強すぎた。
人はもう、言葉を扱えなくなりつつある。
結果としてリアルな世界もそうでない場所も、
世の中すべてが、すっかり静かになった。
SNSはその意味をなくし、メディアの存在そのものも減り、人々から日常的な雑談さえ消えていった。
誰もが嘘を恐れ、真実を語ることすら避けるようになった。
「本音」は「危険」だった。
正直に生きることは、美徳ではなく、人間関係を崩壊させる爆弾になった。
誰かが「きみを愛してる」と言う。
心の底では「寂しいから離れたくない」と思っている。
どっちも意味するものは結局、一緒じゃないの?
あるものはそう主張するかもしれない。
だが、どうやら二つの言葉が作る波長はズレてるらしく、
このときでさえ、あの声は鳴りひびいた。
ーーDoubt.
ある研究者はこんなことを述べた、
「これから先、嘘をつかずに生きる手段は一つ、私たちが人間であることを、やめるしかありません。わたしたちの周りにいる動物、いや、むしろ植物たちのように、ただじっとその場に佇み、音を立てず、世の中を眺めるしかないのです」
僕はいま、その人間をやめる一歩手前にいる。
思考と感情の一致。言葉と行動の完全な整合。
自分のすべてを観察し、調整し、研ぎ澄ませていく。
呼吸のリズム、心拍、表情筋の動き。
どれも、偽りがあってはならない。
最初は地獄のようだったが、今ではそれが心地よい沈黙になった。
この声の発生とは、本当に進化なのだろうか?
実は、まったく逆で、これらは淘汰じゃないのか?
人間らしさを失い、動物いや、まるで植物ように静かに生きることが、
本当に次のステージだと、誰が信じるだろうか?
だが、その問いにも、答えはもうない。
問うこと自体が、嘘を含んでしまうから。
僕は、今日一日、言葉をひとつも発さずに過ごした。
声は鳴らなかった。
完璧だった。
そして、ついに、その音が聞こえなくなった。
“ダウト”のない世界。
それは、嘘も真実もない、ただの静寂だった。
人間であることを手放した先にある、純粋な存在としての透明な意識。
進化とは、案外こういうものだったのかもしれない。
何も信じず、何も疑わず、ただそこにある。
僕、という言葉が、もう必要ないということに、気づく。
そうして世界は、少しずつ沈黙していく。
音もなく、嘘もなく、名前すらなく。
それが、この物語の最後の真実らしい。
ーーDoubt.




