Doubt.③
『レジ前の沈黙』
「ありがとうございました〜、またお越しくださ〜い」
機械的な笑顔と、やや高めのトーン。
店長の谷口は、今夜も完璧に“いい人”を演じていた。
24時間営業のコンビニ。
人手不足。苦情対応。防犯。発注。教育。
バイトはすぐ辞める。
社員なんていない。
全部、自分ひとりで回している。
だから、笑うしかなかった。
誰よりも低姿勢に、誰よりも親切に。
谷口にその音が聞こえたのは、つい先日のことだった。
「夜勤の沙希ちゃん、優秀で助かるよ〜」
笑顔で言ったとき、彼女は目を細めて笑っていた。
だがその直後、何かが頭の中を横切った。
ーーDoubt.
谷口は最初、沙希が呟いたのかと軽く流した。
その夜、レジ前で、缶チューハイとタバコを買っていく男がいた。
年齢確認を求めると、舌打ちして無言でスマホをかざす。
接客スマイルのまま、谷口はレジを通した。
「ありがとうございました、またお越しくださ……」
ーーDoubt.
(……ダウト?)
谷口は、その声に反応して不満の声を思い切り漏らした。
ウソって? ああ、当たり前さ。
本当は、こんな客、二度と来るなと思ってる。
深夜に絡むな、文句言うな、言葉をちゃんと使え。
でも、笑うしかないんだ。
そうしなきゃクレームが入る。
すぐに本部から電話が来る。
そうなったら、終わりなんだよ。
数時間後、
事務所の奥、モニターの前で谷口は今日の売上を眺めた。
パンの廃棄、未払いの電気代、賞味期限切れの在庫……
それらの数字がモニター画面に並んでいた。
「ま、まあまあ、順調だな」
そう呟いて、コーヒーをすすると、
ーーDoubt.
当然のようにその音が響いた。
だよな、順調なわけがない。
人件費は削れないのに、光熱費は上がる。
ポイント制度の改悪、迷惑客の対応、トイレは壊れかけ、レジはフリーズする。
この仕事に誇りなんか、とうにない。
あるのは、疲労とごまかしだけだ。
音は彼を責めるわけではなかった。
怒りでもなく、警告でもない。
ただ、事実を刺していくだけ。
小さな穴を、無数に心にあけていくような感覚。
谷口は声が聞こえるたび、自分の中に溜まってるものを、その穴から吐き出した。
ある夜、谷口は沙希に言った。
「最近、ちょっと疲れてる? 無理しなくていいからね」
彼女は一瞬、視線を外した後、笑って答えた。
「大丈夫ですよ、全然、元気なんで」
その瞬間、谷口の耳ではなく、店内中に鳴った感覚だった。
ーーDoubt.Doubt.Doubt.Doubt.
彼女に特に変わった様子はなかったが、
彼女にも声が届いている、谷口にはそれが伝わった。
この声はウイルスのように伝染する。
嘘に触れた人間に、静かに侵入していく。
おれが彼女に移したってこと……
いや、
彼女は声を聞いても平然としていた。
ってことは逆、だったのか。
深夜2時。レジの前。
スマホを見ながら立ち読みする客、
口を開けて寝るホームレス風の男、
賞味期限の近いパンを探す主婦。
谷口は呟く。
「皆さん、いいお客様ばかりで、ありがたいですよ……ほんとに」
笑ってみせる。防犯カメラの死角で、うっすらと額から汗がにじむ。
そしてまた、聞こえてくる。
ーーDoubt.
この世界は、誰もが誰かに嘘をついて、誰もが自分に嘘をついている。
真実は重くて、煩わしくて、扱いにくくて、誰も得をしない。
それでも、声は響く。確実に。
今日もまた、レジは「ピッ」と鳴る。
そしてそのたびに、頭の中でもあの声が鳴り響く。
ーーDoubt.




