Doubt.②
『職員室のリアル』
昼休みの職員室。
藤木は、誰もいない隙に、ため息をひとつ吐いた。
机の上には、生徒が提出した進路希望調査の紙があった。
「第一志望:東京大学」
と書いたのは、クラスで最も成績が不安定な女子生徒、沙希。
(……これは、まあ……)
何か、言うべきか迷ったが、結局赤ペンで
「目標に向けて頑張りましょう!」とだけ書いた。
そのとき、背筋に冷たいものが走った。
空調は止まっているのに、肌がざらつくような寒気。
同時に、頭の中に――音が、響いた。
ーーDoubt.
……ん?
周りに目を向けたが、だれも藤木を見ていない。
そもそも、あれは声じゃないし、音でもない。
ただ、それは確かにすぐそばで聞こえた気がした。
午後の授業、教室で藤木は話をはじめた。
「みんなの未来には、無限の可能性がある。努力すれば、どこへでも行ける」
言いながら、藤木は黒板に「将来の夢」の文字を書く。
背後で生徒たちがノートを取りながら、半分寝ている。
頭の奥に、またあれが響いた。
ーーDoubt.
藤木はそれを聞いて今度は、小さく頷いた。
ああ、本当は知っている。
すべての努力が報われるわけじゃない。
家庭環境、偏差値、運、顔、地位――
可能性は、最初から不平等に配られている。
だけど教師は、言わなきゃいけない。
「努力は裏切らない」ってさ。
ーーDoubt.Doubt.
藤木は、その日の放課後、沙希を呼び出して進路面談をした。
「東大、か……いい目標だと思うよ」
そう言いながら、彼は目を合わせなかった。
沙希は笑って、「まぁ、ウケ狙いですよ」と答えた。
そのとき藤木の耳元で、ざわりと空気が揺れた。
ーーDoubt.
(それは、俺か? それとも彼女、か?)
藤木は沙希の顔を覗いたが特に変わりはなかった。
(じゃあ、俺ってことか……)
とりあえず、その場では納得したが、
それ以降、藤木のまわりで、声なき声が頻繁に現れはじめた。
他の教師と職員室で雑談中に、
「今年のクラスは、ほんと素直で助かりますよー」
ーーDoubt.
放課後、居残りしてる俺に声をかける教頭の返事に、
「残業ですか? 好きでやってますから、大丈夫ですっ」
ーーDoubt.
校門を出て帰り際、独り言のように呟いて、
「この仕事って、ほんと誇りを持てるよなぁ」
ーーDoubt.Doubt.
まるで心の深部に、正しさを嗅ぎ分ける何かが棲みついてしまったような感覚。
ふと、沙希のことを思い出した。
あのとき、彼女と進路相談の話をした後から、
あの声ははっきりと、頻繁に聞こえるようになった。
まるで、彼女がその音量ボタンを上げたように……
そう言えば、最近、彼女はすっかりおとなしかった。
友達と会話もしてないし、笑っていない。
代わりに、ただ静かに周りの友達を見ている。
いや、あれは見てるのでなく、聞いている?
もしかして……
彼女にも、あれが聞こえてるのか?
藤木はそれを確かめたいと思った。
数日後の全校朝礼で、
「皆さん、今の時代に必要なのは誠実さです」
マイク越しに、藤木の声が講堂に響いた。
「どんなに世の中が変わっても、自分に正直でいてください」
台本に書かれた通りの、優等生な言葉。
沈黙の中、あの声が、かすかに、しかし確実に、自分の胸の奥で響きわたる。
ーーDoubt.Doubt.Doubt.
藤木にとって、もうそれは想定内だった。
生徒たちに顔を向きなおして、彼女を探す。
沙希の顔が、藤木の視界に入った。
彼女はその口元だけを動かしている。
「だ、う、と」
やっぱり彼女にも聞こえていたんだ。
そのとき藤木は確信した、
この声は彼女から伝染してきたのだ……と。
だからといって藤木は、彼女を恨んではなかった。
藤木は、沙希に向って、
「あ、り、が、と」
そう口元を動かしたが、
あの声は聞こえてこなかった。




