ノイズキャンセリング
── @news.narou_jp
最近、イヤホンを装着した歩行者や自転車利用者の事故が増加しています。東京都の調査では、約8%の屋外イヤホン使用者が「接触事故の一歩手前を経験」していることが分かりました。専門家は、周囲の音が遮断されることで注意力が低下し、事故リスクが高まると警告しています。
『ノイズキャンセリング』
岸本澪は、音に敏感だった。
ちょっとした物音で目を覚まし、家族の話し声が気になって眠れない夜もあった。
だからこそ、ノイキャンイヤホンを初めて試したとき、彼女は感動した。
「……すご、無音……」
通学中の電車の中、周囲の騒音がスッと消える。
まるで世界に自分しかいないような感覚。
その快感は、じわじわと習慣へと変わっていった。
講義の移動中も、休憩中も、夜道も。常にイヤホンを耳に差し込んでいた。
聴くのは音楽だけじゃない。環境音、ASMR、雨音、カフェの雑踏。
「静かだけど、完全な無音じゃない」
その作られた静けさが、澪にとっての安らぎだった。
ある日のこと。大学近くの交差点で、澪は道路を横断しようとした。
信号は、赤だった。
だが澪は気づかず、足を一歩踏み出したとき、
「危ないっ!」
誰かが腕を引っ張った。
直後、目の前を猛スピードのトラックが通り過ぎていった。
クラクションの音は、まったく聞こえなかった。
「……は、?」
呆然と立ち尽くす澪に、腕を引いた女性が顔を近づけて、こう言った。
「それ手放した方がいいよ。ずっとしてると声が聞こえるようになるから」
……声って?
聞き返す間もなく、その女性は人混みに紛れて消えていた。
『音声パレイドリア』
その夜、澪は久しぶりにイヤホンを外したまま眠ってみた。
少し、気になったのだ。
「声が聞こえる」と言われたことが、どこか頭の片隅に引っかかっていた。
……深夜。
(――ねえ)
不意に、耳元で囁くような声が聞こえた気がした。
布団の中で、澪は動けなかった。
(聞こえてるんでしょ?)
心臓が跳ねた。
“これは夢だ。寝ぼけてるだけ”
そう自分に言い聞かせながら、彼女はイヤホンを手に取った。
ASMRを再生し、耳に装着する。さざ波の音が流れ始めた。
その瞬間、あの声は消えた。
それから数日、澪はイヤホンを外す時間が極端に減っていった。
授業中も、片耳は必ずイヤホンを入れていた。
図書館でも、カフェでも、家でも。
静けさの中に紛れてくる誰かの声が怖かったのだ。
どうしても気になった澪は、ベッドの中でスマホを取り出し、
「イヤホン 幻聴」と検索して目の現れた言葉……
「音声パレイドリア……?」
【人間の脳は、ノイズの中に意味のある音を見つけようとする性質がある。長時間ホワイトノイズや環境音を聴き続けていると、存在しない声を幻聴として知覚することがある。これは心理的ストレスや孤独感によって悪化する。】
「……なーんだ。そういうことか」
脳の錯覚。つまり病気じゃないし、誰にでも起こりうる現象。
安心したように澪はスマホから目を反らした。
その直後――
(ちがうよ)
背後で、確かにそう聞こえた。
スマホの画面は、まだ消えていない。
音声パレイドリアの記事が、じっと彼女を見つめていた。
『壊れたイヤホン』
さらに数日が経ったある夕方。
大学の帰り道、澪のイヤホンが突然、片耳だけ音が出なくなった。
接触不良かと思って再起動し、再接続し、音量を調整したが、改善しない。
片耳を塞げない状態とは、つまり片方の耳が開いたままということ。
澪は不安だった、イヤホンが壊れて直らないことでなく、
これから片耳をそのままにして過ごさなくてはいけないことが……
代わりのものを買いに行こうかと思ったが、時間もお金もない。
澪はしかたなく、壊れたイヤホンをつけたまま、
不安を抱きながら、その夜眠りについた。
深夜2時過ぎ。
イヤホンをつけたまま寝ていた澪は、ふと目を覚ました。
(……やっと、話せるね)
左耳。イヤホンが壊れていた側だった。
そこから誰かの声が、はっきりと語りかけてきた。
(壊れたのに、どうしてつけてるの?)
澪は慌ててイヤホンをオンにして音を流そうとした。
(ダメ。このまま話しよ)
止めるような、懇願するような声。
澪はその言葉を無視してスイッチを入れた。
その瞬間、部屋全体が「ゴォォ……」と低く唸ったように感じた。
イヤホンから何かが、耳に入ってきた。
それ以降……
部屋のどこにも誰もいないのに、耳元で声が聞こえてきた。
でも、その声がイヤホンからの声なのか、
外からの声なのか、あるいは自分自身の声なのか、
澪にはもう何も区別がつかなかった。
これが夢か現実か、今、自分は起きているのか寝ているのか、
あらゆる感覚が、麻痺してしまった感じだった。
(これでもう他の音は気にならないでしょ?)
自分で言ったのか、誰かの声かわからなかったが、
他の音がもう気にならなくなった、それは事実だった。
『新たなターゲット』
数日後。
大学前の交差点で、澪がうずくまっているのが発見された。
目撃者の話では赤信号を無視して彼女がそのまま道路に進んでいったらしい。
それに気づいた運転手は急ブレーキをかけ、何とか直前で止まったが、
彼女はその場にしゃがみ込んで動かなかった。
意識はあるが、目の焦点が合わず、何を話しかけても反応がなかった。
到着した救急車の中で、彼女の唇が小さく動いていた。
「……ねえ、今、聞こえた……? あの声」
もちろん、周りの誰にもその声は聞こえてなかった。
「イヤホンで、塞がないと……どこ?」
だが、彼女の手元からそれは消えていた。
もうそこに存在する必要がなくなったから。
すでに彼女の脳内には、あの声が棲みついていた。
そのころ……
大学の男子学生が、交差点のそばに落ちているイヤホンを見つけていた。
「結構キレイじゃん……ノイキャンかな?」
彼は軽く耳に差し込んでみる。
「へぇ、このノイキャン、かなり優秀じゃん」
片方は壊れていたはずなのに、道路から聞こえてくる雑音をしっかり遮断していた。
「でも……なんか、静かすぎね?」
思わず周囲を見渡したその瞬間、何かが、聞こえたような気がした。
声ではない。ノイズでもない。
でも、何かが耳の奥に、張りついてくるような微かな感覚。
「ま、気のせいか……」
彼はイヤホンを身につけたまま、その場を歩き去った。
その様子を遠くから見ている女性がいた。
以前、澪に注意をしたあの女性だった。
「ああやって、次から次に伝播していくんだよ、あれは……」
もちろん、彼はまだ気づいてなかった。
あれを一度聞いてしまえば、もう日常には戻れないということを……




