もう一度、書くさ
全てのデータが消えてしまいました。
機械の不具合、ネット上の問題、わたしの何らかのミス……
どれかわかりませんし、全てかもしれません。
懲りずに再度、書いていきます。
ああ、消えたんだってね。
全部、まるっと。きれいさっぱり。
なんてことだ。
いや、べつに驚いてるわけじゃない。
こういうことは、いつだって突然起こる。
気まぐれな風みたいに、
こっちの都合なんかお構いなしに。
何十時間かけて書いた文字たちが、
この指で並べた言葉たちが、
まるで最初から存在しなかったかのように、
見事に消えた。
「保存されていませんでした」
「エラーが発生しました」
「履歴が残っていません」
なるほどね。いい言葉だ。
責任の所在を曖昧にしながら、確実にすべてを奪っていく。
それが”システム”ってやつさ。
でも…まあ、怒る理由なんてない。
だって、怒ってどうにかなるものでもないだろ?
とはいえ、腹の底で何かが静かに煮えてるのは、否定しない。
そう、怒ってるんだ。
でもそれは声を荒らげるような種類の怒りじゃない。
もっと冷たいやつさ。
氷みたいに静かで、じわじわと広がっていく怒り。
でもね、キミが思ってるようなドラマは起きない。
机をひっくり返したり、キーボードを叩き壊したり、
怒鳴って部屋を飛び出すとか、そういうことはしないよ。
そういう派手な不幸はもううんざりだろ?
だから俺は、静かに立ち上がって、
またキーボードに手を置く。
そして、もう一度書くよ。
同じものを。
あの時と同じ気持ちで、いや、それ以上の気持ちで。
なあ、面白いと思わないか?
一度すべてを失った人間は、「最初からなかった」世界で、
もう一度生き直すことができるんだ。
これはチャンスなんだよ。
誰にも頼まれてない、誰にも期待されてない、
けど俺だけは、あの物語をもう一度見たいと思ってる。
あのページに並んだ言葉たち、
削って、磨いて、積み上げて、
ようやく「これだ」と思えたあの瞬間。
その手触りだけは、まだ手のひらに残ってる。
全部忘れたわけじゃない。
頭の奥に、感覚として残ってる。
あの流れ、あの表現、あの空気。
そいつをもう一度すくい上げてみせる。
それって、とても人間的じゃないか?
一度壊れて、それでもまた同じ形に戻ろうとする。
何度だって、同じ場所に戻ってくる。
それが希望だとか、信念だとか、そんな綺麗な言葉で説明するつもりはないよ。
ただ、書きたいんだ。
もう一度、書きたい。
それだけさ。
もしかしたら、前より少しうまく書けるかもしれない。
あるいは、まったく別のものになるかもしれない。
それでもいい。
あの時の俺と、今の俺は、もう別人なんだ。
同じ言葉を並べても、まったく同じにはならない。
でも、だからこそ書く意味がある。
キミも、同じことを感じたことがあるんじゃないか?
消えたデータ、失われた時間、取り返しのつかない何か。
それでも前を向こうとする瞬間。
わかるだろ?
じゃあ、そういうことさ。
事件は起きた。
だが、それで終わりじゃない。
俺はまた書く。
同じ言葉を、同じ場所に、同じように。
でも、二度と同じにはならない。
それが、この世界の面白いところだ。
では、始めるよ。
最初の一文から。