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恋の被害者は誰なのか…

作者: 夕鈴

王宮の舞踏会で王族からの挨拶を終えた後、真っ先にダンスを披露するのは王族である。

国王夫妻が不在のため、舞踏会を取り仕切る第一王子のエルヴィスは壇上でエスコートしている婚約者のエレオノーラの手に手を重ねた。

エレオノーラが重なる手にうっとりと微笑んだ。

婚約者の愛らしい微笑みにエルヴィスは微笑み返し、そっとエレオノーラの手を解いた。


「エレオノーラは王族として相応しくない。婚約を解消しよう」


微笑みながらの堂々とした宣言に会場は唖然となる。


「エレオノーラとの婚約を解消し、妹のアンジュと新たに婚約を結ぶことを宣言する」


王族の言葉は絶対であり、大衆の前で宣言したことを取り消すことは許されない。

エレオノーラは手を解かれ、エスコートを拒む姿勢を見せたエルヴィスを見つめ、ゆっくり口を開いた。


「おそれながら、相応しくないとは?」

「エレオノーラの私を慕う気持ちは嬉しく思う。だが、その態度は王子妃としては落第点だ」


穏やかな声音のエルヴィスの言葉にエレオノーラはパチパチと瞬きをして、淑女らしく美しく微笑んだ。


「かしこまりました。婚約を解消したなら、殿下のエスコートを受ける権利はございませんね。私は失礼致します」


恋焦がれている王子に婚約解消を告げられたとは思えないほど、優雅に淑女の礼をしてエレオノーラは会場を出て行った。

王子とエレオノーラ以外は事態を飲み込めない状況で、舞踏会が再開されたが心から楽しめるものは会場にはいなかった。



******


混乱している王宮舞踏会を抜け出したジャスティンは人を探していた。

エレオノーラの乗るはずの馬車が置いてあるので、王宮のどこかにいるのはわかっていた。

王宮庭園の片隅のガゼボに座っているエレオノーラを見つけたジャスティンは近づいていく。


「一杯いかがですか?」


ぼんやりしているエレオノーラにジャスティンはグラスとシャンパンボトルを見せた。


「こんな日ですから、乾杯せずに飲みましょう。お好きでしょう?」


ジャスティンがグラスにシャンパンを注ぐと、エレオノーラはゆっくりと手を伸ばした。

酔っぱらうことははしたないことなので、エレオノーラはいつも一口しか飲んでいなかった。

同世代の令嬢が遊んでいる時に机に向かって勉強し、成人した夜は無礼講な祝賀会を開いている時は、王族の婚約者として公務をしていた。

エレオノーラは淑女らしさを捨てて、一気に飲み干しグラスを空にした。

ジャスティンは空になったグラスにシャンパンを注ぐが、すぐに空になる。


「私は努力してきましたわ。それなのに、あんなひどい事を…」

「はずかしめを受けてましたから、怒っても当然ですよ」

「怒ってませんよ」

「怒ってないんですか?晴れないお顔の理由を伺っても?」

「ただ、自信がなくなってしまいました。今まで信じていた地図が、破れた時、どうするのでしょうか……」


エレオノーラがシャンパンボトルを空にした時、一筋の涙がこぼれた。


「私は殿下に望まれるまま、振舞ってきましたのに………それが、相応しくない理由なんて」


エレオノーラの小さな呟きはジャスティンの耳に届いた。

シャンパンボトルを一人で飲み干したエレオノーラの顔は赤くなり、潤んだ瞳からさらに涙が流れた。

ジャスティンはエレオノーラの涙を拭いたい衝動に駆られるが、触れる権利はないのでそっとハンカチを渡す。

エレオノーラはハンカチを受け取り、止まらない涙を止めるため両目にハンカチで隠す。

声を押し殺して、涙で濡れたハンカチを眺めながら、ジャスティンはエレオノーラの前に跪く。

どんな時も堂々と振舞い、偉大に見えていたエレオノーラが初めて小さく見えた。


「僕と婚約してください。地図がないなら、僕が手を引きます。破れない地図が欲しいなら、僕が描きます。殿下が拒んだエレオノーラ様の心が僕は欲しいです。エレオノーラ様が欲しい物は僕が手に入れるように努力します」


無言のエレオノーラの体が傾き、ジャスティンが立ち上がって腕を伸ばす。

エレオノーラの寝息が聞こえた。


「救護なら触れてもいいですよね」


ジャスティンはエレオノーラを抱き上げ、エレオノーラの従者に使いを送る。

ジャスティンは馬車に乗り、エレオノーラを公爵邸まで送り届けた。


「責めないであげてほしい。どうか今日はご令嬢をゆっくり休ませてくれ。僕が送ったことはお嬢様には伝えなくていいから。では、僕はこれで、いい夜を」


ジャスティンから酒臭いエレオノーラを受け取った執事はうなずき、恭しく礼をして出ていく背中を見送った。


*****

エレオノーラが目を覚ますと、頭痛に襲われた。


「お嬢様、ご気分はいかがですか?」

「頭が痛いわ。私はどうしてここに?」


エレオノーラは二日酔いに効果のある薬湯を侍女にから渡され、ゆっくりと飲む。


「お食事はいかがなさいますか?」

「食欲がないわ。今日の予定は、そうでした。何もないわよね」


苦い薬湯のおかげで、ぼんやりしたエレオノーラの頭が働く。

心配そうな侍女の顔を見て、エレオノーラは王宮舞踏会での惨事を思い出した。


「婚約破棄された私は修道院か、噂が落ち着くまで療養かしら」

「お体に問題がないなら、旦那様達がお呼びですが、いかが致しますか?」

「あら?お父様がいらっしゃるは珍しいわね。わかりました。支度を整えたら伺うとお伝えして」


頭痛が和らいだエレオノーラはベッドから出て、身支度を整える。

父の執務室ではなく、来賓のための部屋に呼ばれたことを不思議に思いながらも、足を進める。

最愛の王子に婚約破棄された傷心の様子は欠片もなく、公爵令嬢らしく振舞うエレオノーラに使用人達は安堵の視線を向ける。



「エレオノーラ、体調はどうだい?」

「変わりありませんわ。お父様、このたびは申し訳ありませんでした」

「その件は謝らなくていい。頭を上げて、楽にしなさい。婚約解消の手続きは私が任されよう。さて、エレオノーラにお客様がいらっしゃっているんだ。会えるかい?」

「ええ。どなたが、どのようなご用件で?」

「庭園を案内させているから、行っておいで。返事はエレオノーラの好きにしていいから」


エレオノーラが物心つく時から決まっていたエルヴィスとの婚約が破談になったことを終わったことと片付けられていた。

優しく微笑む父に頷き、エレオノーラはお客様を探しにいく。


庭園のガポセにお茶の用意がされていた。

ガポセでお茶を振舞われていたジャスティンはエレオノーラに気付いて立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。

ジャスティンはエレオノーラの前に跪いた。


「突然の訪問を許していただきありがとうございます。エレオノーラ様、私と婚約を前提にお付き合いしていただけませんか」

「お立ちください。お心遣いありがとうございます。ジャスティン様、私には頷く権利はございません」

「私を望んでくだされば、公爵家への利も建前も全て用意いたします。どうか、私にエレオノーラ様の心を手に入れるチャンスをいただけませんか?」

「ジャスティン様?」

「私は公爵家を継ぎますし、資産力はいずれ国内一に致します。宰相候補生ですし、同世代では一番の優良物件ではありませんか?」

「優良物件って、ご自分で言われるんですか?そんな未来ある方が傷物をわざわざ選ばなくても」

「エレオノーラ様は傷物でも瑕疵物件でもございません。ケースに飾られた高嶺の花のケースが壊されれば、さらに人は手を伸ばしたくなるでしょう? 今までは眺めるだけで、我慢していましたが、今なら触れられる可能性があります。どうか私にお世話させてください」

「お世話?」

「エレオノーラ様が望まれるなら、僕が使用人、いや犬で構いません。犬としてもなかなか………。失礼しました。単刀直入に言いますと、エレオノーラ様の時間をください。毎日、エレオノーラ様のスケジュールに合わせて、伺います」

「毎日?お仕事は?」

「今まで不休で働いてきましたので、一ヶ月ほど休みをいただきました。宰相候補生が休んだ程度でたちゆかないほど国は脆くありませんから」

「王宮でのお仕事以外もあるでしょう」

「次期公爵家当主として一番大事なことはしておりますので、それ以外は片手間でできることですから」


ジャスティンの熱烈なアプローチをエレオノーラは静かに頷いた。

破顔したジャスティンにブンブン尻尾を振る犬の幻影が見えたが、エレオノーラは見ないフリをした。


口を開けばエレオノーラを褒めたたえるジャスティンとお茶を眺めている女性がいた。


「身長が低くて、美男というほどの容姿ではない。でも、宰相候補生の最年少合格記録と筆頭宰相候補生の肩書、国で一番の鉱山を持つ公爵家の跡取り、王国でも五指に入る婿候補。でも、お姉様の魅力を知っていることは、お花畑の王子様よりマシかしら?、」


ジャスティンを接待し終えたエレオノーラを妹のアンジュが待っていた。


「アンジュ」

「お姉様、謝罪はいらなくてよ?うちから王子妃を出せば、誰でもいいのよ。私は好きな人も婚約者もいないもの。王子妃教育も受けるけど、ご褒美をくださるならさらにモチベーションが上がるわ」

「これからは私よりもアンジュのほうが忙しいわ」

「王家の事情で婚約者の変更でしょう?子供の頃から教育を受けていたお姉様と違い、支障がでるのは当然でしょ?お姉様が担っていた王族としての公務は私の準備ができるまで、殿下が担うのは当然の責任でしょ?お姉様が引きうけるのは、認めないときちんとお話してきたから、お姉様は公爵令嬢として、私の姉として全うしてくださいませ」

「アンジュの姉は役目だからではなく、好きでしていることよ。アンジュの時間が許すなら、二人で過ごす時間をつくるわ」

「嬉しい!!お姉様と一緒に過ごせる時間が増えるなら、勉強が増えることなんて些細なことよ。殿下の横暴に皆が怒っているけど、お姉様を責める声はないから心配しないで」


抱きつくアンジュをエレオノーラは優しく抱きしめた。


「私の書庫にある本は好きに使って。欲しいならあげるわ」


エレオノーラの書庫から一冊の恋愛小説をアンジュは貰った。

辞書よりも読み込んである様子がわかる小説は最愛の姉の努力が詰まっている。

部屋に入ったアンジュは恋する主人公の行動に〇がつき、姉の直筆で書き足してある恋愛小説をパラパラとめくった。


「お姉様が一番苦労して身に着けたことが原因で婚約解消なんて、皮肉ですこと。ご自分で捨てたんですから、二度と手に入れることは許しませんわよ」


妖艶に微笑むアンジュの顔を最愛の姉は知らない。

知っても受け入れてくれる自信があるが、好きな人のまえでは美しく、可愛くありたいものなので、アンジュは可愛らしい妹像を手放したくはなかった。


*****

「小さい美術館ですが、魅力的な作品は飾られています。王宮美術館も素晴らしいですが、僕はここの作品を………」


エレオノーラはジャスティンのエスコートを受け、美術館を観覧していた。

王子の婚約者として視察するのは国立美術館のような大きな美術館ばかりだった。

生まれて初めての小さい美術館には、エレオノーラの見たことのない作品で溢れていた。有名作品の模写は一つもなく、ジャスティンの解説を聞きながら作品の鑑賞を楽しんだ。

王子の婚約者として相応しい言葉しか選ぶことはなかったエレオノーラは私的な見解ばかりのジャスティンの解説に笑みをこぼした。

ショーケースに入ったガラスを材料にした一輪の薔薇の彫刻にエレオノーラは足を止めた。


「美しいですよね。中の薔薇が傷つかないように、作者は耐久性に優れたショーケースも作られました。このショーケースは外すことができず、中の薔薇に触れたことがあるのは作者だけ。作者不明の幻の作品です」

「ガラスを彫刻できる芸術家は発表されてませんよね?」

「ええ。誰も真似できない技術を力のないものが持てば、妬まれ、奪われてしまう。わかっていたから作者はどんな手段でも壊せないショーケースで囲ったのでしょう。美しいものに相応しくない者が触れることを許さないと…。エレオノーラ様のようですね。美しさはエレオノーラ様のほうが優れていらっしゃいますが」


ジャスティンの称賛をエレオノーラは微笑みながら流す。

賛辞を当たり障りなく流すのは、元王子の婚約者であり、公爵令嬢のエレオノーラには簡単なことである。


「楽しい時間が過ぎるのは早いですね。名残惜しいですが、そろそろ帰りましょう」



ジャスティンの手配で貸し切りの美術館での鑑賞を終えたエレオノーラは馬車に乗った。

エレオノーラの向かいに座るジャスティンがそっと箱を取り出し、中を開けた。


「こちらをエレオノーラ様に」


箱の中には大きなルビーが輝くネックレス。

男から高価なもの貢がれることに優越感を覚える貴族令嬢もいるが、慎ましい王子妃として教育を受けたエレオノーラは違う。

正当な理由もなく、品行保持に必要なもの以外を手に入れることを望まないエレオノーラは高値のネックレスを贈ろうとするジャスティンから差し出されたネックレスに手を伸ばさない。


「受け取れません」

「エレオノーラ様のことを想いながら、発掘し加工しました」


照れた顔をするジャスティンの言葉にエレオノーラは公爵子息らしくない内容を聞き取り、聞き間違えかと問う。


「発掘?加工?」

「エレオノーラ様への贈り物に僕以外の手垢がつくなど許せません。加工を終え、最後は手袋をしてきちんと磨いておりますので、手垢が一切ついておりますので、心配しないでください」

「手垢の心配などしていません」

「本当は僕がつけて差し上げたいのですが、まだその権利はありません。受け取っていただけないのであれば、ここで砕き、捨てるしかありません」


宝石を粉砕する道具を椅子の下の箱から取り出したジャスティンにエレオノーラは目を見開く。

馬車の中で宝石を砕く準備をしているジャスティンにエレオノーラは慌てて口を開いた。


「馬車に積んでありますの!?え?砕く!?ありがとうございます。ありがたくいただきますので、これで最後にしてくださいませ」

「うちは王国一種類豊富な鉱山を抱えておりますので、ご安心を」

「ルビーでなければいいというわけではありませんよ。贈り物はいりませんので」

「すでにエレオノーラ様のために制作中のものがあるのですが、」

「でしたら、それだけは買い取らせていただきます」

「かしこまりました。僕はお金はいらないので、エレオノーラ様の時間を売ってください」

「え?お金ではいけませんの?」

「お金は有り余ってますのでいりません。受け取っていただくだけで幸運の極みですので、もしくは」

「わかりました。ではジャスティン様のためのお時間を作りますわ」


エレオノーラは毎日ジャスティンのプランで逢瀬を重ねたが、徐々に目元のクマが濃くなっていることに気付く。

帰宅の馬車の中でエレオノーラはジャスティンに静かに告げた。


「ジャスティン様、お休みになってくださいませ。目元にクマがありますよ。私に会いに来る時間を睡眠に使ってくださいませ」

「エレオノーラ様が僕のことを心配してくれるなんて!!感動で、さらに頑張れそうな気がします。こんなときは良質な宝石を発掘できる気がします」


やる気に満ちたジャスティンの表情にエレオノーラは首を横に振った。


「発掘!?気のせいですわ。お休みに、いえ、お気持ちは変わりませんので。時間が空いた分だけ、他のことをされるなら、私の傍で休んでくださいませ」

「え?」

「明日は遠乗りではなく、ピクニックに行きませんか?馬ではなく、馬車で。よろしければ明るいお時間は私にくださる?」

「喜んで!!」

「ありがとうございます。準備は私にさせてくださいませ。明日、いつもの時間にうちでお待ちしてますわ」


エレオノーラは初めてジャスティンとの時間に要望を言った。

破顔するジャスティンに微笑みながら、目の前の男を休ませるための思考を巡らした。


****


翌日エレオノーラはジャスティンを公爵家の馬車に乗せ、私有地の泉を訪ねた。

泉のほとりの木陰にピクニックの用意をさせ、エレオノーラは人払いをした。

エレオノーラは膝の上にハンカチを置き、ジャスティンを見つめた。


「私のお膝でお昼寝されませんか?」

「僕にはそこに触れる権利は」

「私は美術館に展示される意思のない花の彫刻ではありません。私がいいと言っているのに、お嫌なら結構ですわ」


拗ねた顔をしたエレオノーラにジャスティンは首を横に振って、そっと膝に頭を乗せた。

目を閉じずに、ずっとエレオノーラを見ているジャスティンの目をエレオノーラは手で覆った。


「エレオノーラ様!?」

「私のやりたいことを全て叶えてくださるとおっしゃったのは嘘ですか?」

「嘘ではありません。ただ、これは…」

「私のしたいことですよ。ジャスティン様がお嫌でなければ、されるがままになさってくださいませ。一曲歌ってもよろしくて?」

「エレオノーラ様の美声を聞けるなんて光栄の極みです」


エレオノーラは微笑み、子守歌を歌う。

膝に重みを感じ、ようやく力を抜いて眠ったジャスティンの目元から手を解く。

ぐっすり眠っている顔を見て、エレオノーラはふぅと息を吐いた。


「膝枕の研究をしましたが、初めて役に立ちましたね」


私有地のためにエレオノーラ達以外はいない澄んだ泉を眺めながら、時々子供のような無邪気な寝顔に視線を移す。

王宮舞踏会を終えてから、エレオノーラは家族とジャスティンとしか会っていない。

ジャスティンはエレオノーラに噂が立たないように、訪れるのは貸し切りにした場所か私有地で他の貴族の目に入らないように配慮している。

馬車も公爵家の紋章がないものを使い、ジャスティンが通っていることは互いの家の者しか知らない。

エレオノーラは婚約解消の書類にサインをして、父に預けただけで、公爵令嬢らしいことを何もしていない。

家族は今まで不休で働いたからしばらく休んでいいとエレオノーラの社交を免除してくれている。

家族やジャスティンと賑やかに過ごしているいるため、エレオノーラは王宮舞踏会の夜に感じた胸の空虚は感じていない。

婚約者に求められるままに生きてきたエレオノーラの心はエルヴィスでいっぱいだったが、今は違うもので埋められつつある。

膝の上に視線を落とすとゆっくりとジャスティンが目を開けた。

ジャスティンはエレオノーラに膝枕されていることを想い出し、慌てて起き上がる。


「おはようございます。お食事にしましょうか」


エレオノーラは慌てるジャスティンに微笑み、グラスとボトルを持った。

エレオノーラはそれぞれの手にグラスとボトルを持ち、ジュースを注ごうとしたが、ボトルが重いため手が震えている。

ジャスティンが手を伸ばす前に、エレオノーラが注いだジュースはグラスから溢れた。

エレオノーラがジュースに濡れる前にジャスティンがボトルとグラスを取り上げた。

零れたジュースがジャスティンの手と腕を濡らす。


「これは僕がいただいても?」

「ええ。ごめんなさい」

「お気になさらず。エレオノーラ様が注いでくださったこと、とても嬉しく思います。それにこの上なく美味しいです」


美味しそうにジュースを飲み干すジャスティンにエレオノーラの落ち込みそうだった気持ちが浮上する。

ジャスティンは汚れていない腕で、グラスを持ち、ジュースで満たしエレオノーラに渡す。

エレオノーラは受け取ったグラスを置いて、ジュースで濡れたジャスティンをハンカチで拭く。

ジュースで汚れた手袋をそっと脱がそうとするエレオノーラの腕をジャスティンが掴む。


「このままで」

「べとべとして気持ち悪いでしょう」

「エレオノーラ様のお目を汚してしまいますので」

「え?私はどんなものも目を背けないようにと教えられてきました。もしや奴隷の刻印でも隠していらっしゃる?なら、非合法の貴方様の主を裁かないといけませんね」

「わかりました。いつまでも隠しておけるものではありませんよね」


ジャスティンが手袋を外すと手には小さな傷がたくさんあった。

エレオノーラはジャスティンの手をじっくりと観察して首を傾げた。


「奴隷の刻印はありませんし、指も5本ありますね。なにを隠す必要がありましたの?」

「硬くて、傷だらけの手など、汚いでしょ?」

「私がこぼしたジュースの所為で汚れてしまいましたが、他にも汚れてますの?」


首を傾げるエレオノーラにジャスティンが一瞬だけ泣きそうな顔をしたが、すぐに微笑み誤魔化した。

エレオノーラはなぜか寂しさに襲われた。


「エレオノーラ様はどこまでも僕を魅了しますね。手を洗ってきたいのですが、お一人にはできませんので、一緒に来てくださいますか?それとも、供を呼びますか?」

「今日は二人っきりと決めておりますので、私もご一緒しますわ。次こそはきちんとお食事の用意を致しますわ」

「次は僕にも手伝わせてください。一緒にしましょう。お願いですから」


立ち上がったジャスティンは汚れていない手をエレオノーラに差し出す。

エレオノーラは差し伸べられる手に、手を伸ばし重ねると胸の寂しさが和らいだ。

ジャスティンは上着を脱ぎ、泉で手と手袋と上着を洗う。

手慣れた様子で洗濯をするジャスティンにエレオノーラは感心する。


「お上手ですね。私もできるでしょうか」

「力がいりますので、慣れるまではエレオノーラ様には大変かと思いますよ」

「ジャスティン様が努力して身に着けたものですものね……私が重ねてきたものは、意味があるのでしょうか………」

「意味のないものなど存在しません。エレオノーラ様が問うてくだされば、僕が意味を教えて差し上げます。貴方が成し遂げてきたものは誇れるものばかりです。洗濯の腕とは比べものにならないほど偉大なことです」


洗濯してるジャスティンは瞳を潤ませたエレオノーラの顔は見えない。

今まで周囲からの称賛に心が動いたことは一度もなかったエレオノーラの心にジャスティンの言葉が溶け込んでいく。

こぼれそうな涙を落とさないように指で拭ったエレオノーラはジャスティンに触れたい衝動に襲われ、泉の中に手を入れた。

洗濯しているジャスティンの片手の手首をエレオノーラは掴んだ。


「エレオノーラ様!?」

「触れたくなりましたの」


ジャスティンはエレオノーラの言葉に赤面しながら、泉から手を出す。


「お気持ちはとても嬉しいのですが、水が冷たいので、泉に手をいれるまえに教えていただければ、こんなに冷たくなられて…」


エレオノーラの掴んだ手を泉から出したジャスティンは空いた手で上着を置いた。

ハンカチを器用に取り出し、ジャスティンは片手で器用にエレオノーラの濡れた手を拭く。

エレオノーラのお腹が空腹の音を鳴らした。


「エレオノーラ様のお好きなようにしていただきたいのですが、そろそろ食事にしましょうか」


エレオノーラは羞恥で顔を赤くし、聞かなかったフリをするジャスティンの言葉に頷く。

ジャスティンの手首を放したエレオノーラは寂しさに襲われる。

汚れていない手袋をした手をエスコートのために差し出したジャスティンの手袋をしていない手にエレオノーラを手を伸ばす。

エレオノーラに手を掴まれたジャスティンは困ったように笑う。


「歩きにくいので、今は手を繋ぎませんか?」


エレオノーラは頷き、ジャスティンの手を握ると優しく握り返す手に微笑む。

寂しさがなくなり、エレオノーラはジャスティンと手を繋いで足を進める。

二人で食事の用意をして、食事を終えた頃には風が冷たくなっていた。

帰りの馬車でエレオノーラはジャスティンの隣に座り、手を繋いだ。

それから、馬車や二人の時にエレオノーラがじっとジャスティンの手を見つめると、ジャスティンが手袋を脱ぐようになった。


****

ジャスティンの休みが終わる頃、エレオノーラの休みも終わった。

エレオノーラは社交を再開後初めてジャスティンから観劇の誘いを受けたので承諾の返事を出した。

ジャスティンは公爵家の紋章入りの馬車と正装でエレオノーラを迎えに来た。


「エルヴィス殿下の新たな婚約も公表されて一月経ったので、そろそろ堂々とアプローチしようと思います。今までは周囲の目を気にしていましたが、これからは精一杯牽制させていただきます」


馬車を降りるエレオノーラの手を取り、口づけを落とし、エスコートするジャスティンに周囲の視線が集まる。

観劇の会場では公爵家の馬車に視線が集まり、ジャスティンを見つけて、群がる貴婦人やご令嬢に襲われた。

ジャスティンはさっとエレオノーラを背に庇った。


「公子様?よければ一緒にご覧になられませんか?」

「観劇が趣味なんて素敵ですわ」

「申し訳ありません。僕はプライベートは大事な人と二人で過ごしたいので、これで。事業についてのお話は後日伺いますので」


ジャスティンは微笑みながら、拒否の姿勢をはっきりと示し、エレオノーラをエスコートして足を進める。

公爵家用の個室ブースには椅子と小テーブルが用意されたいた。

座り心地のいい椅子に座り、紅茶にブランデーが落とされたカップを渡されたエレオノーラはゆっくりと飲み干しても、頻繁に訪ねるお客様を追い払うジャスティンの背中を見つめた。

令嬢達と話すジャスティンの背中にエレオノーラの胸はチクリと痛む。

振り返ったジャスティンと目が合ったエレオノーラは気恥ずかしさに襲われ、視線を逸らし他の客席に目を向けた。

貴族席の個室ブースは家族向け、恋人向けと様々な席が設けられ、ソファに寄り添い座り口づけを躱すカップルを見つけたエレオノーラは凝視した。

人前で触れ合うことは品がないと囁かれる社交界で堂々と寄り添えるのは下位貴族か富豪の平民達である。

堂々と仲睦まじさをアピールするカップルを羨む気持ちにエレオノーラが襲われると観劇が始まった。

観劇では恋に心が乱されまくりの役者の演技にエレオノーラは魅入る。

愛する人を視線で追い、触れたくなり、自分だけを見て欲しいという欲望に覚えのあるエレオノーラは胸を抑える。


「エレオノーラ様?」


心配そうな顔のジャスティンの瞳に映るエレオノーラの顔は欲にまみれていた。

自身の醜さに顔を歪ませるエレオノーラの肩にジャスティンが上着を脱いで羽織らせる。


「どんなお顔も美しいですが、具合が悪いなら観劇はここまでにしましょうか」

「違います。私は、醜く、欲深く、貴方に相応しくない…」

「僕はどんなエレオノーラ様も愛しく思います。エレオノーラ様が僕に相応しくないと思われるのは、お門違いですが、ご本人のお気持ちはどうにもなりません」

「え?」


立ち上がったジャスティンが去るのかと不安に襲われたエレオノーラの顔が悲しそうに歪む。


「僕がエレオノーラ様に相応しいと思っていただけるように、努力致します」


ジャスティンはエレオノーラに手を差し出す。


「私は貴方に触れたい、触れられたい、独り占めしたいと思っているのです」

「光栄です」

「名前で呼ばれたいとか、市井の恋人みたいな特別扱いのような振る舞いも素敵とか、貴族としてあるまじきことを思ってますのよ」

「嬉しいな。もっと聞かせて欲しい。エレオノーラが何を言っても可愛いか愛しいしか感想が出ない僕の言語力の低さが口惜しいなぁ」

「可愛い!?愛しい!?」

「そうだよ。僕はずっとエレオノーラに触れたかったし、独り占めしたいとも思っているよ。僕にその権利をくれる?結婚を前提にお付き合いしてほしい」


ジャスティンがエレオノーラの前に跪き視線を合わせた。

エレオノーラが真っ赤な顔でゆっくりと頷くとジャスティンは立ち上がり、そっと抱きしめた。


「これもずっとしたかったんだ」

「嬉しいですが、顔が赤くなってしまいます。誰にも見せられません」

「僕だけには見せて欲しいけど、観劇に夢中で誰も僕達のことなど見ていないから安心してよ。僕の未来の妻の顔が赤いことを咎められる者なんていないけど」


エレオノーラ達の声は互いにしか聴こえないが、観劇がよく見える個室ブースで抱き合う様子を見た者はいた。

翌日初めてジャスティンがご令嬢をエスコートし、その相手がエレオノーラという記事は新聞の一面になった。婚約解消された公爵令嬢の新たな恋に世間は好意的だった。



*****

エレオノーラへの求婚書が山のように届いている頃、婚約せずに結婚しようとしている前代未聞のカップルの噂が囁かれていた。


「ジャスティン様はお忙しいですし、私達は共に成人しております。それに婚約を理由に贈り物が増えても困りますもの。法は犯しておりませんし、よろしいのでは?」

「お姉様のために自らの手でご用意される贈り物に溢れておりますものね。ドレスのデザインもされますものね」

「布作りは間に合わないと妥協したご様子でしたが、デザインとお裁縫の時点でアウトですわ。専門の針子を使うように説得するのは大変でしたわ」

「夢中になると周囲が見えないところは子供のようですわ」

「そんなところもお可愛らしいと思う反面、きちんとお休みになっているか自分の目で確認しませんと安心できません」

「ジャスティン様は訪問された最初の日に求婚書をお父様にお渡ししていましたが、お姉様まですぐに嫁ぎたいなんておっしゃっるとは思いませんですたわ。お母様は喜んでいましたわね」

「良縁であることには間違いないもの」

「お姉様がお幸せなら、私も応援しますわ」


貴族は婚約し、準備期間を半年経過後結婚するのが通例である。

半年間で嫁ぐ準備が整えられるが、エレオノーラには必要ないと両公爵が判断したため、ジャスティンの一日も早く結婚したいという要望が受け入れられた。

舞踏会ではお揃いの正装をしたジャスティンとエレオノーラを目にすれば噂は本当と気づくものばかりだった。

ジャスティンは背が低く平凡な顔のため、美しいエレオノーラと並ぶと見劣りする。

王国屈指の資産力を持つ公爵家の後ろ盾が欲しい男達は、婚約解消で価値を落としたエレオノーラを見かけるたびにアプローチしていた。

二人の結婚の日取りが発表されても、エレオノーラへのアプローチは止まなかった。

ジャスティンへのアプローチは王子妃教育を受けた、美しく、聡明な(怖い)公爵令嬢を敵に回してまで、添い遂げたい令嬢はいなかったので落ち着いていた。

エレオノーラへのアプローチはジャスティンのエスコートを受けている時も止まなかった。

アプローチのほとんどがジャスティンを貶め、自身の優位を保持する内容にエレオノーラは不快を隠して、対応していた。


「知っていますか?ジャスティンの欠点は平凡な容姿だけじゃないんですよ。ジャスティンの手がどんなに醜いのか」


ジャスティンの手は硬く、小さな傷跡がある。

全てを使用人に任せる貴族は男でも皮膚が柔らかく、傷一つない美しい指を持っている。

美しさを誇る社交界の文化だが、傷を厭うことは別問題である。

今でこそジャスティンの生家は飛ぶ鳥を落とす勢いだが、以前までは資産力のない名ばかりの公爵家と侮られていた。

ジャスティンの手は努力の結果と知ってるエレオノーラは汚いと言われた手を愛しく思っている。

エレオノーラはジャスティンの手袋を外し、そっと自らの頬に添えた。

社交界での触れ合いははしたないと囁かれるが、恋人が頬に触れるくらいは許容範囲とされている。

頬を染めるジャスティンにエレオノーラは微笑む。


「私にとっては愛しいものですわ。騎士の傷は勲章と誇るものというお話もございますし、見解の違いでございますね。でも、私達は好みを話し合えるほど親しくなくってよ?嗜好を矯正するつもりはございませんが、貴族としての常識を復習なさってくださいませ」


エレオノーラは微笑みながら、自分達より序列が低い男達を黙らせた。

ジャスティンはエレオノーラへの中傷は許さないが、自分への中傷は放っておく。

エレオノーラは公の場では淑女らしい態度を崩さず、ジャスティンへの恋慕の欠片も見せない。

反してジャスティンはエレオノーラへの恋慕をどこでも表現する。

そんな二人が結婚してから、王宮で時々見かけられる光景があった。

ジャスティンの忘れ物を持って来たエレオノーラは夫の執務室で抱きしめられた。

二人っきりの執務室でエレオノーラの顔が真っ赤に染まる。


「お気持ちは嬉しいのですが、距離をとってくださいませ。顔が赤くなってしまい」

「そんなところも可愛いから、もう少しこのままで。公爵夫人は片手間でいいから」

「からかわないでくださいませ」


抱きしめるジャスティンの腕の中でエレオノーラは真っ赤な顔を隠す。

ジャスティンが額に口づけを落とすとさらに真っ赤になる。


「幸せだなぁ。僕ばかり幸せをもらっているから、エレオノーラも幸せにできるように頑張るよ」

「私も幸せですので、頑張る必要はないかと」

「愛しい妻を喜ばせるのは男の甲斐性だからね。僕は殿下みたいに格好良くないけど、」

「まぁ。私を真っ赤にさせる唯一の旦那様がおかしなことを。宝石も贈り物はいりませんから、お仕事が終わったら帰ってきて、手を繋いでくださいませ。私が欲しいのはジャスティン様だけですから」

「絶対に今日こそは帰る」

「期待せずにお待ちしておりますわ。お体を大事にしてくださいませ」


ノックの音にエレオノーラはジャスティンの腕から放れる。

赤い顔をどうしようかと慌てているエレオノーラの頬に口づけをジャスティンが落とす。


「10分くらい出てくるよ。人払いしておくから」


ジャスティンが出ていく背中を見送り、真っ赤な顔のエレオノーラは手鏡を取り出した。

手鏡に彫られた王子夫妻の顔見るとエレオノーラの顔から熱が引いていく。

王子の顔を見ればどんな時も冷静さを取り戻せるのはエレオノーラの特技の一つである。

エレオノーラの特技探しが得意な夫と妹のおかげでエレオノーラの特技は増えた。


人目がないと思い込んでいる場所のみエレオノーラの恋する仕草は披露される。

シスコン気味の妹のアンジュが姉の可愛らしさをこっそり鑑賞しているのは気付かない。

時々夫となったエルヴィスが護衛代わりに付き添っていることも。



「分別がつくなら、あのままでも良かった」


公衆の前では公爵夫人らしく振舞う恋するエレオノーラを眺めながら、エルヴィスが呟く。

隣にいるアンジュが夫の足を思いっきり踏む。


「お姉様はもともと殿下のことなど好きではありませんでしたわ。殿下が慕っているように見えるように命じたから、そうしましたのに。まぁ、でも手放していただいてよかったですわ。今のお姉様は可愛らしいですから」



恋愛小説をもとに恋する仕草を研究して実践していたエレオノーラはもういない。

全ての思考が王子が望むままだった少女は、何も押し付けない男を選んだ。


「地図はいりません。足を進めていけば勝手に道はできるのですから。一緒に歩きたい方と道を作っていくのも、楽しいですから」

「エレオノーラのやりたいことは一緒にするけど、怪我には気をつけて欲しい」

「心配性ですこと。かつての私は恋するフリができていたと思っていましたが間違いでしたわ」

「あの頃のエレオノーラは美しかったけど、さらに美しく可愛くなったからねぇ。他の男に披露されなくて良かったよ」

「全てが中途半端だった私は捨てられましたが、おかげで本当の恋を知ることができました。殿下ならドン引きですが、旦那様のずる賢さは素敵ですわ」


お互いの新たな一面を見つけるたびに惚れ直す公爵夫妻はバカップルである。

恋するフリをした少女が本物の恋を見つける観劇をたった一人だけ複雑そうに鑑賞する美男がいた。

その隣に座る美女は楽しそうに微笑む。


「自分に恋してほしいと願った子供の頃の初恋を大人になった青年は忘れ、自ら婚約解消して、後悔に襲われたのに、自分で作った外堀に苦しめられ、想いを告げることも許されない、憐れで身勝手な男の黒歴史も観劇にいかが?」

「勘弁してくれ」





最後まで読んでいただきありがとうございました。

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