第92話 二人分の温度
窓もない、締め切った殺風景な部屋で、藍良は机に向かい黙々とサンドイッチを食べていた。これは朝食。つまり、今は朝である。
このあと、二度目の特別最高審問が開かれる。昨日のざわめきと死神たちの好奇に満ちた眼差しを思い出しただけで、胸がどくりと鳴り、得体の知れない気持ち悪さが喉元まで込み上げてくる。藍良はそれを押し込むように、サンドイッチとお茶を胃の中へ流し込んだ。
「藍良、緊張せんでもいい。わしもおる。今度は絶対に、ずぇったいに、誰が何と言おうとも藍良から離れん!首元から、しっかり藍良を守ってみせる!」
首に巻きついたタマオの声が、力強く弾む。その振動がそのまま伝わってきて、藍良は思わず微笑んだ。
「ありがとう、タマオ。サンドイッチの卵、ちょっと食べない?」
「うむ!食べる~♡あむあむする~♡」
藍良は掌にちょこんと卵の具をのせ、差し出した。タマオは器用に舌をペロペロと伸ばしながら、心底おいしそうに口にする。
「兼翔……顔はいかついが、なかなか情が深い奴じゃの。こんなにたくさんのサンドイッチをこしらえてくれるとは」
「そうだね」
言いながら、机に置かれたサンドイッチへ視線を落とす。
これは、兼翔が作ってくれた朝ご飯。実は昨日もサンドイッチを作ってくれたのだが、そのときはカツや卵、ハム、ツナマヨ、チーズと五種類のサンドイッチがひとつずつ入っていた。それが、今日はそれぞれ二つずつ用意されている。つまり、合計十個で昨日の倍の量だ。
これを渡されたとき、兼翔は特に何も言っていなかった。けれど──。
「真白?聞こえる?」
すると、首元のタマオがぴくりと身体を動かした。真白の声は彼には聞こえないが、二人の会話を見守るように、じっと藍良を見つめる。しばしの静寂のあと、胸の奥から穏やかな声が響いた。
≪うん。どうした?≫
「兼翔が作ってくれたサンドイッチ、真白も食べない?」
≪え?≫
「きっちり二人分あるの」
≪二人分?≫
そこで、真白の声が途絶える。藍良は数秒待ってから、様子を窺うように声をかけた。
「真白?」
≪う、うん。でも、いいの?わたしが出ても≫
「当たり前じゃん!兼翔のサンドイッチ、ほんとにおいしいんだから。ね、タマオ?」
藍良の呼びかけに、タマオは一瞬頭を傾げる。だが、状況を察したように声を上げる。
「……うむうむ!その通りじゃ!食べないと勿体ないわい!」
そのとき、吐息交じりの笑い声が、心の奥底から微かに聞こえた気がした。続いて、ふわりと身体が浮くような感覚が訪れ、藍良の意識がゆっくりと遠のいていく。
「……藍良?……いや、真白か?」
首元からきゅるんとした目を向けて、タマオが尋ねる。真白はその鱗を撫でて微笑んだ。そして目の前のサンドイッチを、まじまじと見つめる。しばらく迷うように視線を巡らせたあと、そっと手を伸ばした。
真白が選んだのは、卵サンドだった。ふわふわの薄切りのパンに挟まれた、たっぷりの卵。マヨネーズが程良く混ざっているためか、艶やかに光っている。
真白はそれをしばらく眺めたあと、ぱくりと思いきりかぶりついた。
「……どうじゃ?」
真白は数回咀嚼し、味をしっかりと味わったあと、静かに飲み込んだ。卵の甘さとマヨネーズの旨みが絶妙に重なり合い、喉元をすっと通り抜けていく。飲み込んだあとも、その余韻は口の中に残っていた。真白は名残惜しむように、息を吐く。
「……すごくおいしい。サンドイッチってこんなにおいしいんだね」
その言葉に、タマオは嬉しそうに声を弾ませ、クルクルと真白の首を滑るように回る。
「そうじゃろ!これを作った兼翔は料理上手なんじゃよ!兼翔が作る料理はな、いつもちょっぴり甘いんじゃ!前は出汁巻き卵にえらい高級な砂糖を使っておってな。このサンドイッチも、何か工夫を凝らしておるに違いないわい!」
「へえ。すごいね」
真白はそう言って、今度はツナマヨのサンドイッチを手に取り、口にした。そして堪らないというように、顔を緩ませる。タマオもまた、彼女の首元で満足そうに身を揺らした。そこにあるのは、特別最高審問を控えた朝とは思えないほど、穏やかな光景だった。
☽ ☽ ☽
ふと、唐突に意識が戻った。
藍良は小さく肩をビクつかせ、左手首につけていた腕時計を見る。時刻は七時四十分。真白とバトンタッチしたのは七時半なので、まだ十分たらずだ。
真白はサンドイッチを綺麗に平らげていた。それを確認して、藍良は思わず笑う。だが、すぐに口元を引き結び、視線を落とした。
「真白?……じゃなくて藍良か。どうしたのじゃ?」
「ううん。なんでもない」
藍良はそう誤魔化すように笑う。実は、ずっとあることが引っかかっていた。以前真白に「いつでも出てきて」と伝えたことがある。けれど彼女は、一向に出てこようとしない。長く出過ぎると、藍良の身体に負担がかかるかららしい。
本当は、彼女にも食事を楽しんで欲しい。観たい映画を観て欲しい。やりたいことをこの身体を使ってやって欲しい。だが、真白はそれをしない。藍良の身体を、誰よりも気にかけているからだ。
──どうすれば、真白が気兼ねなく外の世界に出られるんだろう。
その問いを、藍良は胸の奥で何度も繰り返していた。けれど答えは、今も見つかっていない。
──千景に相談したいな。
ふと、思った。化身である千景なら、何か良い方法を知っているかもしれない。
そんな思いが過った瞬間、途端に切なさが込み上げる。離れてから、まだほんの数日。それなのに、どうしようもなく寂しい。いったい、いつ千景に会えるのだろうか。もしかして、このあとずっと会えない……なんてことは──。
──コン、コン。
藍良の思考を遮るように、ノック音が響く。ハッと立ち上がり、机に置いていた虚映ノ鏡を握りしめた。昨日の夜、真白と特別最高審問に持っていくと約束したものだ。
扉を開けると、そこに立っていたのは兼翔だった。今日もまた、彼が藍良の審護を務めてくれるらしい。
「朝食は食べたか」
「うん、おいしかったよ。ありがとう」
「ご馳走様じゃ、兼翔!」
兼翔は無表情で頷くと、「行くぞ」と短く告げ、踵を返した。藍良は慌てて、その背中を追う。
歩きながら、兼翔は振り向くことなく、ぽつりと呟いた。
「それで、あのサンドイッチ……」
「え?」
「いや、なんでもない」
兼翔は言葉を途中で切ると、それ以上話そうとしなかった。藍良は一瞬考えたあと、彼の背中に向かって、声を弾ませる。
「真白もおいしかったって言ってた!ありがとね、兼翔」
兼翔は「そうか」とぶっきらぼうに返す。歩く速度は変わらない。
──やっぱり。
藍良は心の中で小さく笑った。照れたときや恥ずかしいとき、兼翔は決まって目を見ない。真白の分まで用意されたサンドイッチは、彼なりの精一杯の気遣いだったのだろう。
それから数分、藍良たちは昨日と同じ廊下を歩き続けた。重厚なエレベーターで地下へと降り、広々とした空間の中に広がる、硬質な大理石の廊下をカツカツと靴音を響かせながら歩いていく。
やがて視界に入ったのは、かつての最高審問官──白隠と幽光の銅像だった。二人は右手の人差し指を、揃って前方に指し示している。
藍良は銅像を一瞥したあと、すぐに視線を銅像が指し示す先、正面の扉へと移した。
「いくぞ」
扉に着くなり、兼翔は重厚な真鍮の取っ手を両手で握りしめ、ゆっくりと開けた。その瞬間、ひんやりとした空気が藍良の頬を撫でる。
張り詰めた独特の空気に触れ、心臓の鼓動が一気に速まった。藍良はそれを抑えるように、息を吸って吐く。そして、視線を上げて審護席へと向かった。
すでに、場内には大勢の死神が席についていた。だが、藍良が姿を現した途端、場のざわめきは嘘のように消え去った。
無数の視線が、一斉に藍良に突き刺さる。
好奇、畏怖……そんな眼差しを振り払うように、藍良は拳を握りしめ、一歩、また一歩と審護席へ向かった。
「大丈夫かの、藍良」
首元からタマオが言う。藍良は小さく頷き、鱗をそっと撫でた。やがて、視線は自然といずれ自分が立つであろう証言台へと向かう。
「大丈夫。これを終わらせないと千景に会えないし。真白のためにも、頑張らないとね」
藍良はふと、隣に佇む死神の足元へと視線を落とした。黒いブーツが灯りを反射し、鈍く光っている。どこか無機質な輝きを見つめながら、藍良は小さく呟いた。
「それに兼翔もいるし。ね?」
だが、返事はなかった。
「……?」
不審に思い、藍良は顔を上げる。そして、横に立つ死神を目にした瞬間、大きく息を呑んだ。
そこにいたのは、兼翔ではなかった。
首元まで覆うローブを纏い、彼の黒髪が静かになびいている。襟元に刻まれた月の刻印が、きらりと一瞬、光を放った。
厳格な装いとは裏腹に、彼の表情は変わらない。いつも通りの穏やかな声色が、藍良の耳元で柔らかく響いた。
「呼んだ?」
そう言って、彼──千景は、藍良を見つめて微笑んだ。




