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第91話 虚映ノ鏡、その一片

 ──良!藍良!


 呼ぶ声がして、藍良ははっと目を開けた。白い(もや)が緩やかに漂う──何度も訪れた場だと理解した瞬間、背中にひんやりとした感触が伝わる。どうやら、ここで寝てしまったらしい。


 すると、様子を(うかが)うように真白がぴょこっと覗き込む。


「ま、真白!!」


 藍良は勢いよく上半身を起こすと、そのまま彼女に抱きついた。肩に顔を埋め、安堵(あんど)の息を漏らす。


「良かった。わたしたち、もう封じられたりしないんだね」


 そのとき、小さく笑うような息遣いが耳元で聞こえた。真白は藍良の背中に腕を回すと、同じように抱き寄せる。


「うん。まさか兼翔の月詠を使っただけで疑いが晴れるとは。こんなことなら、もっと早くあいつらに月詠をぶっ放しておけばよかった」


 冗談めいて毒を吐く真白の声色は、どこか明るかった。藍良は胸を撫で下ろすと、そっと身体を離して真白を見つめる。


「ねえ、あのあとどうなったの!?」

「え?」

「わたしね、真白と交代したあと、暫くは話聞いてたの。でも、途中からすっごく眠くなっちゃって……つい寝ちゃった。幻道さんの呑みニケーションのくだりまでは聞いてたんだけど」

「呑みニケーション……」


 その言葉に、真白は会話を思い出したかのように笑った。そうなのだ。あのあと、藍良は突然眠気に襲われ、気付いたら意識が遠のいていた。


 そもそもここは夢の中。そんなところでまた眠る、というのも奇妙な話ではあるのだが、不思議なことにさっきまで藍良はある夢を見ていた。


 それは百年前、片寄藍良だったころ。特別最高審問を前に、藍良は千景と大切な約束を交わした。


 ──来世のあなたに、会いに行きます。


 もしあれが夢ではなく“記憶”だとしたら、千景が自分に会いに来た理由は──。


「明日、すべてが終わるよ」


 唐突に真白がそう告げた。予期せぬ言葉に、藍良は思考を止めて首を傾げた。


「終わる?どういうこと?」


 答える代わりに、真白は静かに微笑んだ。そして、藍良の(てのひら)にそっと何かを置く。夢の中なのに、確かな重さが伝わってくる。


 それは、あの虚映ノ鏡だった。


「これ……」

「……実は、この鏡の力のことは幻道たちに言わなかった」

「え?」

「鏡が持つ反転の力──藍良も一度、使っただろ。その話をすれば、また審問を受けることになるかもしれない。それは避けたかったから」


 次の瞬間、藍良の指がぺちんと真白の額を弾いた。不意を突かれ、真白はきょとんと目を瞬かせる。


「まーた、わたしのことばっかり気にして」


 真白は困ったように目を細めたあと、どこか嬉しそうに笑った。


「ごめん、ごめん。でも、幻道に話したらこの鏡は没収されていたかもしれない。それは、やっぱり嫌だったから」


 藍良は虚映ノ鏡へと視線を落とし、そっと持ち手を握りしめ、顔の前に掲げる。鏡面には、無数の亀裂。割れた破片を不器用に繋ぎ合わせた痕がしっかりと残っている。


 初めてユエと対峙したあの夜。踏み砕かれた虚映ノ鏡の破片を、藍良がひとつひとつ繋ぎ直したのだ。


「ねえ……そういえば、ずっと気になってたことがあるの」

「ん?」

「この鏡、ユエに割られたのに、どうしてまだ力が残ってたの?」


 再びユエと対峙したとき。

 彼の使いである大蛇に対し、藍良は虚映ノ鏡の“反転の力”で対抗した。その方法を教えてくれたのも、真白だった。


 問いかけに、真白はゆっくりと鏡の隅を指さす。


「ここ、見て。この一片だけ。まだ力が残ってる」


 この鏡は神気を宿す者を映さない。つまり、神気を持つ真白を心の中に宿している藍良も映らないはず──藍良は再び鏡を掲げ、自らの姿を確かめるように見つめた。


 すると、確かに真白が指さした小さな欠片だけが、藍良の姿を全く映し出していなかったのだ。


「ほんとだ!全然気付かなかった」


 謎を解いたかのように、藍良は声が弾む。そうしてしばらく鏡をまじまじと見ていると、真白が穏やかに言った。


「この鏡はね、藍良のご先祖様が代々祈りを捧げてきた家宝。ご先祖様たちをずっと守ってくれてたんだよ」


 その言葉に、藍良はぱちりと目を見開いた。


「藍良のご先祖様は元々霊感が強くて、町に潜む悪霊を見つけてはその都度(はら)っていた。だから悪霊たちから恨みを買うこともあったって、百年前に片寄藍良から聞いたことがある」

「悪霊!?なにそれ!?」

「まあ……超極悪なタマオ……みたいなもんだよ。犬とか、猫とかに化けて何食わぬ顔で現れることもあったみたい」

「ひいい……」

「でもほら、この鏡は神気を映さない。だから、相手が可愛い動物か悪霊かわからないときは、この鏡で正体を見破っていたんだって。映れば動物、映らなければ悪霊という感じで」

「へえ」


 藍良は鏡をじっと見つめた。由来を聞くのは初めてだ。きっとここまでの話は千景も……もしかしたら父・慈玄も知らないかもしれない。


「藍良。ここ、見て」


 真白が身を乗り出して、鏡の縁を指さす。そこには丁寧に描かれた花柄模様と、不器用に塗られた色が並んでいた。


「これは、転生した藍良が小さかったときに塗ったんだよ」


 真白の指が、ゆっくりと縁の花柄模様へと移る。


「そしてこっちは藍良の亡くなったお母さんが描いた。すごく綺麗だろ」


 藍良は息を止め、母が描いた線をそっとなぞった。微かな凹凸が指先に伝わるのと同時に、忘れていたモノクロの記憶が少しずつ色付いていく。鏡面の縁に刻まれた痕跡は、母と過ごしてきた日々と、重ねられてきた祈りそのものだ。藍良は、そう感じずにはいられなかった。


 そのとき、真白がそっと鏡の持ち手を握る藍良の手に触れた。


「真白?」

「明日の特別最高審問会に、この鏡を持っていって」


 思いがけない言葉が響いて、藍良の顔は一瞬強張った。けれど、真白の表情は穏やかで澄みきっている。


「どうして……?この鏡、何かの役に立つの?」

「うん。必ず」


 真白はそう言って、虚映ノ鏡に視線を落とす。


「明日……わたしもいる。そして、この鏡も藍良を守ってくれる」


 言葉の意図が掴めず、藍良は言葉を失う。すると、真白は真剣な面持ちで、真っ直ぐ藍良を見据えた。


「この鏡は、神気を宿す者を決して映すことはない。すなわち──虚映ノ鏡は真を映さず。来るべきときが来たら、この言葉を思い出して。カグヤとの因縁に、藍良と千景が決着をつけるんだ」

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