第85話 カグヤの残響
思いがけない幻道の提案に、藍良はしばらく言葉を失った。そして、次第に戸惑いが心の奥底から湧き起こる。
──彼女と話がしたい。
藍良は首を縦に振ることができなかった。無闇に彼女を出せば、そこで命運が尽きるかもしれない。心の中で真白に問いかけようとしたそのとき、背後から静かな声が響いた。
「臆するな、水無瀬」
藍良ははっとして顔を上げた。兼翔だ。
「ただ、確かめるだけだ」
「確かめる?何を……」
困惑のまま、藍良は兼翔と幻道を交互に見る。幻道は机に両肘をつき、前のめり気味に藍良を見据えた。
「彼女が……あなたや千景に、精神干渉をしていないかどうかよ」
──精神干渉。
藍良は顔を強張らせた。「精神干渉」は、カグヤが持つ力。記憶の上書きや消去はもちろん、感情そのものを植え付け、相手の在り方を変えてしまう恐ろしい能力だと、以前タマオから聞かされていた。
──それを、真白がわたしや千景に……?
そのとき、タマオが堪えきれないように声を上げた。
「待つのじゃ!精神干渉はカグヤの秘術のはず。それを、化身もできると申すのか!?」
幻道は一瞬タマオに視線を向け、すぐに藍良へと鋭い視線を戻す。
「できる……かもしれない。それはわからない。けどね、いま私が疑っているのはそこじゃないのよ」
「……どういうことじゃ!?」
タマオの問いに、幻道は答えず押し黙ると、僅かに顔を伏せた。彼の胸元で揺れる銀色の月の紋章が、沈黙を強調するように光る。
その沈黙を破ったのは、兼翔の隣に控えていた蘭丸だった。
「幻道様、お伝えすべきではありませんか?水無瀬さんと神蛇様には」
幻道は思案するように視線を落としたあと、ふうっと息を吐き、頷いた。そして「ここだけの話だけど」と前置きをしてから、選ぶように言葉を絞り出す。
「千景がカグヤを封じたという話。実は……真実は違うのよ。千景はそう、思い込まされていただけなの」
その瞬間、藍良の背筋に冷たいものが走る。それと同時に、ひとつの疑問が生まれた。藍良は声を震わせながら、それを口にする。
「……まさか、精神干渉ですか?千景はカグヤに、それをされたんですか?」
藍良の問いに、幻道は僅かに唇を噛んだ。そして、怒りを滲ませた声で語り始める。
「千景はカグヤと対面した。それは間違いない。けど、そのあと記憶を植え付けられた。自らを──カグヤを封じたという記憶をね。そして、カグヤは姿をくらました。以来、行方はわからないままよ」
藍良は振り返り、兼翔を見る。彼の眼差しはいつになく揺れ、表情は強張っていた。このことは、審問会にとっても汚点だったのだろう。
「この話は内密に。ほとんどの審問官は知りませんから」
藍良が頷くと、幻道は言葉を続けた。
「カグヤを捕えられるほどの力を持った審問官は、千景しかいない。その千景が精神干渉を受けた。記憶を修正するのに随分と時間がかかったわ。千景も千景で、責任を感じていた。皮肉なことに、あの子がカグヤを封じたという噂話が独り歩きして、千景は審問会の幽光派からも狙われるようになった」
「まさか……だから顔を変えたんですか?今度こそ、カグヤを捕まえるために」
藍良の問いに、幻道は悲しげに頷いた。
「逃がした責任は、自分が果たすと聞かなくてね。幸いなことに、カグヤは千景の昔の顔は知っているけど、名前までは知らなかった。だから、顔だけ変えて貰ったのよ」
藍良はかつて千景と交わした「宿敵」の話を思い返していた。蘭丸に攫われ、死神界へ来たあの日の会話だ。
──昔、一度対峙して逃げられた。敵は僕の昔の顔を知ってる。少しでも近付けば、勘付かれて逃げられる。だから、顔を変えた──
あのとき千景が口にした宿敵──それは、他でもないカグヤのことだったのだ。
「話を戻すわね。つまり、カグヤは生きてる。わたしが言いたいのは、あなたの中に潜む化身がただの“化身”なのか、そうじゃないのか、ということよ」
その瞬間、藍良は悟った。幻道の言葉の裏を。そして、ここへ呼び出された、本当の理由を。彼は真白が“化身”と疑っているのではない。“カグヤ”だと疑っているのだ。




