第72話 愛慕と約束のキス
藍良は勇気を振り絞り、あの夜に知った千景の秘密に踏み込んだ。指先はみるみる冷たくなり、小刻みに震え始める。その変化に気付いたのか、千景は一瞬だけ、僅かに目を見開いた。
「顔を変えるのって、凄く……痛いんでしょ?どうしてそこまで」
「たった一度のチャンスを、逃さないために」
千景は少し寂しげに笑ったあと、そう告げた。いつもと変わらない穏やかな口調。だが、その言葉には、彼の揺るがない覚悟が滲んでいるように思えた。
「実は……宿敵がいるんだ」
「宿敵?」
「昔、一度対峙して逃げられた。敵は僕の昔の顔を知ってる。少しでも近付けば、勘付かれて逃げられる。だから、顔を変えた。あの夜タマオも言ってたけど、幻顔士に顔を変えてもらうと、属性の力は大きく削がれる。それは正直、かなり痛手なんだけど、力が削がれれば気配も変わる。そうすれば、宿敵にも気付かれない」
「……そのために、命を懸けたの?」
「うん」
「敵を倒すの……他の人に任せられないの?」
千景は小さく笑うと、迷いのない目で頷いた。
「そうだね。必ず、僕が捕まえないと」
笑いながらそう言い切る千景を見て、藍良の胸はぎゅっと締め付けられた。千景の言葉は敵を捕えるためなら、自分の身体や命など惜しくはない。そう言っているのと同じだった。
そして、そんな彼の決意に、藍良は一歩も干渉できないのだと一瞬で悟った。それがどうしようもなく寂しかった。
千景は今も、そしてこれからも、宿敵を追い続けるのだろう。もし取り逃がすことがあれば、彼は命を懸けて、また顔を変えるのだろうか。そんな想像が胸をかすめた途端、藍良の視界は涙で滲んだ。
「あ、藍良?」
「どうしてそんなに平気そうに言うの」
その言葉を放った瞬間、心が決壊したように、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「たった一度のチャンス……?それでももし、敵に顔を見られて逃がしたらどうするの?また顔を変えるつもり?凄く痛いんでしょ?命まで懸けてさ。死んじゃったらどうするの?」
涙とともに、堪えていた言葉が溢れ出す。
「どうして千景がそこまでしなきゃいけないの?誰がそんなことさせてるの?あの幻道って変な喋り方する最高審問官?」
藍良は子どものように、泣きながら早口でまくし立てた。すると、千景は目に動揺の色を浮かべ、アタフタと激しく狼狽える。千景の性格上わかりきってはいたが、どうやら女(藍良)の涙に相当弱いらしい。
「ち、違うよ……藍良!その……」
「わたしは、千景に傷付いて欲しくないの。死んでほしくないの」
藍良はそう言い、顔を伏せた。すると、千景は藍良の涙の跡をなぞるように、頬に唇を寄せる。そしてそのまま、彼女を包み込むように抱き寄せ、静かに唇へと熱を運ぶ。藍良は一瞬戸惑いつつ、泣きながら千景の唇を受け入れ、ぎゅっと彼の背中にしがみついた。
「泣かないで、藍良」
「うるさい、バカ千景。撤回しないなら……ずっと泣き続けてやる」
すると、千景が小さく息を吐いた。どうやら、藍良の脅迫に苦笑しているらしい。千景は一度咳払いをすると、耳元でそっと囁く。
「大丈夫。もう顔を変えたりしないから。そのために今、頑張ってるところ」
「そんなこと言って。もし取り逃がしたら、絶対にまた顔変えるつもりでしょ」
「もう変えない。約束する」
千景は藍良の身体からそっと離れ、真正面から彼女を見つめた。
「約束するから」
千景は、そう繰り返した。藍良は目を赤く腫らしながら、しばらく何も言えずにいた。やがて、小さく──ゆっくりと頷く。それを見て、千景はほっとしたように目を細めて微笑んだ。
そして次の瞬間、千景の顔が再び、藍良へと近づく。途端に跳ねる心臓。藍良は無意識のまま、千景の背に腕を回し、ぎゅっと掴んで目を閉じる。
二人の唇が触れそうになった、まさにそのとき──。
「おい」
低い声が響いたのと同時に、藍良と千景はピシッと固まった。そしておそるおそる、ゆっくりと横を見上げる。そこにはTシャツに手ぬぐいを首へひっかけた兼翔が立っていた。彼の肩にはタマオがぐるりと巻きつき、小刻みに震えながら藍良たちを凝視している。
「あ……あああ……あんたたち……!い、いつからそこに!!??」
「『約束する』──のあたりからかな」
「お……お主たち……やっぱりそういう仲じゃったのか……!わしは見とらん!なぁーんにも見とらんぞお!」
声が裏返るタマオ。言葉とは裏腹に身体はくねくねと蠢き、興奮を隠す様子は微塵もない。兼翔とタマオの思わぬ登場で、藍良の恥ずかしさメーターは瞬時に限界突破。耳まで真っ赤に染め、拳をプルプルと震わせながら立ち上がる。
「こんの……デリカシー皆無の堅物男とクネクネドスケベ蛇がぁぁ……!」
すると、軽快な笑い声が部屋いっぱいに弾けた。藍良も兼翔も、そしてタマオも、皆が一斉に声がする方へ視線を向ける。そこには、涙を滲ませながら、お腹を抱えて笑う千景の姿があった。
初めて見る、千景の大爆笑──その笑顔に、藍良の怒りはすっと溶けていった。力が抜けたようにぺたんと座り込むと、笑いが止まらない千景を見て、自然と口元が緩んだ。
やがて兼翔も、そしてタマオも。誰からともなく笑い声が重なっていく。奇妙で、どこかちぐはぐとした、それでいて温かな時間が、静かに流れていた。
──そのとき。
ピンポーン……。
部屋に響いた、小さな呼び鈴の音。
それはささやかな幸せを遮るかのように、唐突に鳴り響いた。




