第67話 予期せぬ事件
翌朝。太陽が街路樹を照らす中、藍良は千景、兼翔と並んで高校の門をくぐった。
今日は、新たな黒標対象、スクールカウンセラーの花倉と対峙する日。千景の話では、花倉は化身にしか宿らない“闇属性”を持っているという。つまり、花倉自身が“化身”か、真白と同じように、“化身”を宿している可能性がある。
敵の正体が完全に掴めていないせいか、藍良はどこか落ち着かず、昨夜はほとんど眠れなかった。そんな藍良の様子に気づいたのか、千景が歩調を緩め、柔らかく声をかける。
「大丈夫だよ、藍良。リラックス、リラックス」
「そんなこと言われてもさ。二人とも、本当に大丈夫なの?」
すると、兼翔が淡々と答える。
「こんなの日常茶飯事だ。標的名は黒標対象だが、実力的には蒼標対象らしいしな。ユエの時とは比べものにならん。心配する必要はない」
「……うん」
藍良は小さく頷いたものの、胸の奥のざわめきは消えなかった。思わず言葉が漏れそうになったとき、遠くから切羽詰まった声が響く。
「藍良ああぁぁぁあぁぁ……」
藍良はハッと顔を上げた。前を見ると、咲が全力でこちらに駆けて来るところだった。
「さ、咲!?……ぶほっ!」
状況を飲み込む間もなく、咲は勢いそのままに藍良に飛び込み、ぎゅっと抱きついた。
「藍良!どうしよう!!」
「ど、どうしたの!?いきなり」
「ペン爺がいないの!」
「ペン爺?」
抱きしめられたまま、藍良は思い返す。
ペン爺は、咲が学生バッグに付けているぬいぐるみのこと。
黒くてふわふわ。咲が学生バッグを持ち歩くたびにコロコロと揺れて、なぜかいつも藍良と目が合う──なんとも愛らしい「ぬい」なのだ。
「ペン爺……彼氏との初デート中、UFOキャッチャーで取ってもらったんだっけ?」
「そうそう!家を出たときには絶対あったの!道に落ちてなかった!?」
藍良は思わず、千景と兼翔へ視線を送る。だが、二人ともきょとんとした表情で首を傾げるだけだった。その反応を見るなり、咲はがくりと肩を落とし、落ち着かない様子で周囲の道を見渡す。
「今日チャリで来て、バッグはカゴに入れてたの。でもカゴにはなくて。だから、駐輪場から教室に向かうまでに落としたと思うんだけど……」
「ぬいぐるみ如きで大げさな。また取って貰えばいいだろ」
──ピキッ。
兼翔のひと言に、咲は眉間をピクリと動かし、固まった。藍良は反射的に、兼翔の足先を思いきり踏みつける。兼翔は僅かに身体を跳ねさせ、藍良を睨む。だが、藍良も負けじと彼を睨み返した。
──デリカシーないこと言うな!!
……と、目で訴えつつ、藍良はすぐに咲の方へ向き直る。
「手分けして探そう!四人で探せば、すぐ見つかるよ」
咲はしょんぼりしながらも、小さく頷いた。藍良は改めて、千景と兼翔を交互に見る。
「わたしたちはこの辺りを探すから、千景と兼翔は玄関の方をお願い!ちなみに、これがペン爺の写真ね」
藍良はスマホを取り出し、画面を掲げる。そこには、ペン爺を愛おしそうに握りしめる咲が映し出されていた。千景と兼翔は身を乗り出し、まじまじとペン爺を見つめる。
「このまん丸が……ペン爺」
「思った以上にふわふわだね」
「そう。可愛いでしょ?ホレ、さっさと行った、行った!」
藍良がそう促すと、
「ちっ。なんで俺まで……」
兼翔がぼやく。すると、間髪入れずに彼の襟元を、千景が無言で掴んだ。
「な、何をする!?おい、やめ──ぐおおおぉぉお……」
抵抗虚しく、ズルズルと引きずられていく兼翔。その後ろ姿と、涼しい顔で引っ張る千景を見送りながら、藍良と咲は呆然と立ち尽くした。
「あの二人……仲いいんだか悪いんだか……ほんと、よくわかんないね」
そう言って、咲は藍良を見る。視線を合わせ、二人は思わずくすっと笑った。
気を取り直し、ペン爺の捜索を再開する二人。太陽が校舎周辺の草木を照らし、新緑がきらきらと揺れている。少し暑いが、肌を撫でる風は心地よかった。
──そのとき。
藍良がふと前を見ると、廊下の窓が開いていた。影の向こうに見える、微かな人影。次の瞬間、差し込んだ陽光が、その人物の輪郭をはっきりと浮かび上がらせた。
淡いグレーのシャツ。
黒ぶち眼鏡。
艶やかで、長い黒髪。
そこに立っていたのは、あの花倉だったのだ。
藍良は思わず足を止めた。花倉の視線がゆっくりと藍良へ向けられる。たったそれだけで、藍良は身体を強張らせた。
先日、体育館裏で会ったとき。花倉は藍良を見るなり、唇を震わせ、血相を変えて詰め寄ってきた。
彼女はユエを探している。
彼の行方を、藍良は知っている。
だからこそ、彼女はきっと自分を問い詰めてくるはず──。
そう思い身構える藍良だったが、目の前の花倉は、以前とはまるで違っていた。
取り乱すことも、動揺することもない。ただ目を細め、涼しい顔でこちらを見つめている。そして、花倉はゆっくりと口角を上げ、怪しく微笑んだ。
ぞわり、と背筋を冷たいものが走る。気付くと、藍良は一歩後ずさっていた。そのとき、張りのある声が響く。
「あった!!」
ハッとして振り向くと、ペン爺をぎゅっと握りしめた咲が、満面の笑みを浮かべていた。咲はそのまま藍良へ駆け寄り、勢いよく抱きつく。
「あったよおおぉぉ!藍良ああぁぁぁ!!」
「良かったね、咲」
見つけて余程嬉しかったのだろう。咲は藍良を抱きしめたまま、激しく頷く。そんな咲に藍良は胸を撫で下ろしながら、ふと、振り返り、廊下を見た。
すると、先ほどまでいたはずの花倉の姿は、どこにもなかった。藍良は窓を見ながら、無意識に目を細める。
「藍良?どうかした?」
咲の声に、藍良ははっとして首を振った。
「ううん、なんでもない」
そのとき、校舎にチャイムが鳴り響く。
「あっ、ヤバい!ホームルーム始まっちゃう!」
「急ごう!千景と兼翔にも伝えなきゃ」
二人は顔を見合わせ、笑いながら走り出した。
☽ ☽ ☽
教室に戻ってから、約三十分。
クラスの中は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
というのも、ホームルーム開始の時間はとうに過ぎ、一限目が始まっているというのに、担任の犬飼も教科担任も姿を見せていないのだ。
「どうしたんだろうね、先生たち」
千景が小さく呟いた。確かに、こんなことは今まで一度もない。
嫌な予感が胸をかすめたとき、ようやく廊下からガラガラと引き戸の音が響き、犬飼が入ってきた。
一瞬で、教室が静まり返る。
犬飼を見て、藍良は思わず首を傾げた。彼の様子が、明らかにおかしいのだ。
犬飼は焦燥を隠せない様子でクラス全体を見渡すと、軽く顔を伏せた。唇を噛みしめ、何かを必死に堪えているように見える。
「先生、どうしたの?」
「……何かあったんですか?」
教室のあちこちから、戸惑いの声が上がる。犬飼はしばらく黙ったまま、やがてゆっくりと顔を上げた。顔色は蒼白。目はうっすらと潤み、肩まで微かに震えている。
「……先生?」
堪えきれず、藍良も声をかける。犬飼は、心を落ち着かせるように数回呼吸を繰り返したあと、ゆっくりと声を絞り出した。
「今日は……臨時休校だ」
途端に、教室がざわめきに包まれる。「どうして?」「なんで?」という困惑の声がぽつり、ぽつりとクラス中から溢れ出す。犬飼はそれを制するように、そっと手を上げ、低く言葉を続けた。
「ついさっき……スクールカウンセラーの花倉先生が、校内で亡くなっているのが発見された」
──花倉先生が……死んだ?
その瞬間、教室に静寂が落ちた。空間そのものが、一本の糸のように張り詰めていく。そんな中、鋭い音とともに勢いよく椅子を引いて立ち上がる者がいた。
藍良を含めたクラス全員の視線が、一斉にそちらへ向く。立ち上がったのは、千景だった。彼の目は落ち着きなく泳ぎ、これまで一度も見せたことがないほどの驚愕の色が浮かんでいた。
「……馬鹿な!そんなこと……そんなことが、あるはずが……!」
藍良は思わず、兼翔と視線を交わす。兼翔の目もまた大きく見開かれ、事態を理解しきれていない様子だった。千景の声を受け、教室は「わっ」と音を立ててざわめいた。押し殺されていた不安と恐怖が、一斉に噴き出したのだ。
そして、それと重なるように、校舎の外から微かにサイレンの音が鳴り響いた。
低く、長く、静かで、不気味な響き。
それは藍良の耳にまとわりついたまま、暫く離れることがなかった。




