第52話 千景の核心
ひと悶着があったあとの晩御飯、どんな空気になるかとヒヤヒヤした藍良だったが、予想に反して和やかな時間が流れた。
理由はひとつ。兼翔の料理が、とてつもなくおいしかったのだ。
兼翔がここに住むのは正直気が進まない。それでも、これまで藍良と慈玄だけで回していた晩御飯作りに、腕の立つ兼翔が加わるのは心強い。
先ほどまでイライラマックスだった千景も、ひと口食べた瞬間、僅かに表情が緩んだ。彼のことが嫌いでも、料理は別。藍良と慈玄同様、おいしさに舌を巻いたことは間違いない。
藍良は慈玄の目を盗んで、こっそりとだし巻き卵を買い物袋の中に忍ばせた。これはタマオの分。彼もきっと、これを食べたら身体をクネクネさせて、喜んでくれるはず。そんな場面を想像して、藍良はふっと笑ってしまった。
そして、この想像はすぐに現実になった。
食後の片付けを終えて寝室に戻るなり、タマオは待ってましたといわんばかりに飛びついてきた。だし巻き卵をひと口食べると嬉しそうにくねり、目を細める。他の料理も夢中にかぶりつくタマオ。どうやら兼翔の味付けがドンピシャだったらしい。
「はううう~~“和食”という文化が、死神界にもあればいいのに~~そう思えてならんほど、この料理は旨すぎるうう~~」
タマオは床の上でゴロゴロと悶えながら、身体をプルプル震わせる。
「良かったね、タマオ。これからも、兼翔の料理食べられるよ。私とお父さんも当番制で作るから、三日に一回だけどね」
藍良はへへっと笑いながら、タマオの鱗を優しく撫でる。そのとき、部屋の隅──綺麗に畳まれたパジャマが目に入った。
「あ!」
「ん?どうしたのじゃ?」
「洗濯するの忘れてて、千景のパジャマまだ乾いてないの。代わりの、持っていってあげなきゃ。ああ……あと、兼翔にも」
藍良はタマオをちょこんと床に降ろし、バタバタと二人分のパジャマを用意すると足早に寝室を出た。
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数分後、藍良は千景のパジャマを抱え、廊下を歩いていた。先に兼翔の部屋へ寄ったとき、彼は先ほどまでの刺々しさが嘘のように、丁寧に頭を下げて礼を言ってくれた。その姿を見た瞬間、藍良は自分に向けられている“疑い”がほんの少し、晴れたように思えた。
──真白の言葉を、信じてくれたのかな。
藍良は少し安堵すると、もうひとつの扉の前に立つ。ここは千景の部屋。藍良は手を伸ばし、ノックする。
「千景、いる?」
「うん。ちょっと待ってて」
扉が開き、千景が顔を覗かせる。Tシャツに黒パンツというラフな格好。和室の座卓には数冊の本が重ねられ、壁には制服がシワひとつなく掛けられていた。
藍良は数歩中に入ると、パジャマを差し出す。
「これ、替えのパジャマ。洗濯忘れてて、まだ乾いてないから今夜はこっち使ってね」
「あ……ありがとう」
千景は柔らかく微笑み、受け取る。そして、パジャマを抱えたまま、じっと藍良を見つめた。
「あのさ……ちょっと話さない?」
そう言うと、机の上から小さな箱を取り、藍良に見せた。
「これね、カフェインが入ってない紅茶なんだって。今から飲んでもちゃんと寝れるみたい」
「カフェインレス?どこでそんなの買ったの?」
「兼翔がくれた」
「え!?」
藍良の声が思わず裏返る。さっきまであんなに険悪だったのに。
「『お前、これが好きだろう』って。さっきポンって投げつけてきたんだよ」
予想外過ぎて、藍良はぽかんと口を開ける。
千景と兼翔は犬猿の仲──そう思っていたのに。
「千景……兼翔のこと、嫌ってるんじゃなかったの?」
「大嫌いだよ」
間髪入れずに返ってきた言葉に、藍良は首を傾げた。だが、千景は表情ひとつ変えず、ポットのスイッチを入れると、棚からカップを二つ取り出した。
「兼翔はね、僕の同期なんだ。死神界には審問官専門学校っていうのがあってね」
千景は紅茶のパックを取り出しながら、落ち着いた声で語り始める。
「僕さ、そこの嫌われ者で」
「えっ……?」
藍良は目を丸くした。クラスでは誰に対しても穏やかで優しい千景が、嫌われ者なんて想像がつかない。
「僕、死神の中でも異端なんだ。本当は学校に通えるような立場じゃないっていうか……そんな僕の秘密を嗅ぎつけた他の死神たちが、無視したり、いろいろされた」
「そう……だったんだね」
「でもね、そんなとき、僕に噛みついてきたやんちゃな死神がいて」
千景はふっと笑う。藍良は「やんちゃな死神」が誰かを悟り、両手を口に当てた。
「まさかそれが……」
「そう、兼翔」
千景はカップにお湯を注ぎながら、言葉を続ける。
「多分、僕がやられっぱなしだったから見ていて腹が立ったんだろうね。ある日いきなり殴られた。それに腹が立って、殴り返したんだ。そうしたら、喧嘩がどんどんエスカレートして、殴り合いから月詠の応酬になっちゃって」
「ひい……」
「翌日から、学園の死神たちが急に大人しくなった。『あいつに構ったらヤバい』──そんな噂と一緒にね」
藍良はプッと吹き出した。千景は強い。それを兼翔との一件で、周囲は思い知ったのだろう。
「でもさ、それ以来、兼翔は会うたびに僕に喧嘩を売ってくるようになって」
「……なんで?普通に話せばいいのに」
「何でなんだろうね」
千景は小さく笑いながら、どこか楽しげに続ける。
「多分、兼翔はもっと僕に自分をさらけ出して欲しいって思ったんじゃないかな」
「え?」
「僕、“異端”だから、極力自分の話をしたくないんだ。話したら、嫌われるから……。実は、本当の初対面のとき、兼翔は普通に話しかけてくれたんだ。でも僕、無視しちゃって。それからしばらく経ってからかな。兼翔が突然喧嘩を吹っ掛けてくるようになったのは。これが不思議なもので、兼翔と喧嘩をしてると、それまで冷たかった心の奥が、少しだけ温かくなるんだ。孤独じゃなくなるっていうか、自分をさらけ出せてるっていうか、そんな気が、ほんの少しだけする」
聞きながら、藍良の胸にふわりと温かさが広がった。
千景が、こんな風に自分のことを話してくれるのは初めてだ。ぎこちないけれど、心の奥を見せてくれているようで、藍良は嬉しかった。そして、兼翔のことも嫌っているとばかり思っていたけれど、こんなに深く結びついていたことも、嬉しい驚きだった。
「それ、兼翔に伝えてみたら?」
藍良が言うと、千景は紅茶を注ぎながら、くすっと笑う。
「それはないよ、絶対に」
「どうして?」
「そんなことしたら、心置きなく喧嘩できなくなるでしょ?」
その答えに、藍良は千景と一緒に笑った。きっと、今くらいの距離感が千景にも、そして兼翔にもちょうどいいのだろう。
そしてふと、藍良の中にひとつの疑念が浮かんだ。
千景は死神界では「異端」
それはもしかして……。
「あのさ……」
「ん?」
「千景が異端って言われてるのって、もしかして“闇”の月詠が使えるから?」
そのとき、紅茶を淹れる千景の手が止まった。湯気の向こうで、彼の顔が僅かに伏せられる。藍良はハッとした。踏み込みすぎた。
「……ごめん、言いたくないなら──」
「そうだよ」
顔を上げた千景は、藍良を真っ直ぐ見つめ返した。だが、その瞳はどこか揺れている。これまで背負ってきた孤独や苦しみが、淡く影を落としているかのように。
「……この力は、望まれないもの。嫌われるし、恐れられるから」
藍良はその言葉を受け止めつつ、首を傾げた。そういえば、前に真白も言っていた。千景は闇属性を使いこなせる審問官。だが同時に、審問官たちは闇属性を恐れていると。それなのに、なぜか千景は審問官になっている。そこには矛盾しかない。
「でもさ……千景は審問官になってるじゃん。どうして?そんなに恐れられているなら、審問官にもなれないんじゃ……」
「僕は“センサー”なんだよ」
「センサー?」
千景は淹れ終えた紅茶を座卓の向こうへ置き、藍良を手招きする。藍良はゆっくり頷き、彼と向かい合って座った。
「闇属性を持つ僕は、他の“闇”を見つけることができる。最高審問官はそれを知っていたから、僕を審問官として置いてくれた」
そう言うと、千景は紅茶をひと口飲み、カップを静かに座卓へ戻した。
「“闇”は特別な属性。月詠で力を放っていなくても、その禍々しい気配は近くにいるだけで感じ取れる。だから僕は探し出すことができた。人間の中に棲んでいた、カグヤ神にもね」
藍良の肩がビクリと震える。
カグヤ神──千景が封じたという死神。
ユエが崇拝する絶対的な“闇”。
そのカグヤ神が、人間の中に棲んでいた?
藍良の視界が、戸惑いで揺れる。すると、千景は穏やかに微笑んだ。だが、その瞳は光を帯び、真っ直ぐ藍良を見据える。
「藍良、お願い。本当のことを話して。僕に何を隠してるの?それとも──誰を、って言った方がいいのかな?」




