第41話 白光と闇線
カラン。
硬いものが床を転がる小さな音とともに、藍良はゆっくりと瞼を開けた。廊下のひんやりとした感触が、頬から全身へ伝わる。藍良は、廊下に突っ伏すように倒れていた。廊下の窓ガラスはところどころ割れ、吹き込む風が散らばったガラス片を鳴らしている。
藍良は痛みに顔をしかめながら身を起こした。ブラウスやスカートは焦げて、さらに裂けている。肌には無数の痣。手の甲の痛々しい傷口に触れた瞬間、藍良は目を見開いた。
手にはしっかりと「虚映ノ鏡」が握られていた。先ほど“彼女”が手渡してくれた鏡。あれは夢じゃなかったのか……。
藍良は小さく息を吐き、前を見る。そこには銀髪の青年、ユエが倒れていた。
——さっきの黒標対象……ユエと名乗った死神はわたしが倒した。
“彼女”の言葉が脳裏に蘇る。藍良はユエへ歩み寄り、膝をついた。頬は裂け、唇は紫に染まっている。だが、かすかに呼吸はある。どうやら、完全に息絶えたわけではないらしい。死神に生死の概念があるのかどうかは謎だが、とりあえず気を失っているだけのようだ。
藍良はユエから距離を取り、息を整えながら周囲を見渡した。“彼女”が言うには、そろそろ追手が来る。以前藍良を保健室から攫ったあの大蛇だ。
思い出すだけで背筋が凍る。鱗はまだら模様、胴の直径は二メートル近く。丸太のように太いのに、滑るように素早く動くあの姿を、藍良はしっかりと覚えていた。
藍良は、両手でぎゅっと虚映ノ鏡を握りしめる。そして、暗闇に潜む気配を探るように、静かに視線を巡らせた。
カラン、と割れた窓から小さな硝子の破片が、再び床に落ちる。その僅かな音に、藍良の肩はぴくりと跳ねた。
灯りはほとんどない。遠くのアパートやマンションから漏れる灯りが、かろうじて廊下を照らしているだけ。足の先も、指先も輪郭しか見えない。そんな闇の中で、藍良はただ静かに息を吸った。
——お父さん、きっと今ごろ……。
ふと、脳裏に父・慈玄の顔が浮かんだ。今日は遅くなると伝えてある。それでも、心配しているだろう。今日の晩御飯は父の当番。白いエプロンをつけて、味噌汁を温めながら待ってくれているはず。その情景を思い浮かべた瞬間、目の奥から熱いものが込み上げてくる。
ここまで藤堂と戦って、ユエともぶつかって。
逃げて、傷だらけになりながら、どうにかここまで来た。
もうすぐ助けが来る。
弱気になっちゃだめだ——。
カラン。
再びガラスの落ちる音が聞こえた。藍良は窓へと視線を向ける。“彼女”とユエの戦いの名残なのか、窓ガラスは辛うじて形を保ちながら、ひびだらけになっている。そこからまた、一片の破片がゆっくりと落ちた。
その瞬間、ぞわり、とした感覚が背筋を伝う。天井から何かの気配が降りてきたのだ。藍良は息を呑み、ゆっくりと見上げる。すると、暗闇の奥で黒光りする鱗が蠢いていた。
藍良は反射的に後退した。すると、空気を裂く音とともに、巨大な顎が床をかみ砕く。
大蛇だった。
もし、あと一歩でも遅れていたら、わたしはあの牙に——。
冷たい汗が藍良の首筋を伝う。
蛇はちらりとユエを見やると、すぐに赤い舌をチロリと出しながら藍良の方へ向き直った。その口が、ありえないほど大きく開く。上あごの奥には、二本の牙のような影がたしかに見えた。
藍良は身を震わせ、両手で虚映ノ鏡を掲げる。
——顕現せよ、虚映ノ鏡。
攻撃を仕掛けられたらそう唱えろと、“彼女”が言っていた。
落ち着け……落ち着け……。
藍良はそう心の中で繰り返し、構えを取る。
次の瞬間、大蛇が勢いよく尾を地面へと叩きつけた。廊下が震えるほどの轟音。藍良の身体は思わずびくりと反応する。その刹那——蛇は疾風のように、藍良へと這って来た。
「顕現せよ!虚映——」
言葉を言い切る前に、尾が藍良の手を薙いだ。虚映ノ鏡が甲高い音を立てて床を転がる。
藍良は地面に手をついて、必死に鏡へと手を伸ばす。だが、蛇は止まらない。鱗の擦れる音とともに、巨大な影がのしかかる。次の瞬間、鋭い牙が藍良の首元を狙った。
藍良は間一髪のところで、転がるように身をかわす。だが、進んだ先は最悪だった。鏡が落ちた方向とは真逆だったのだ。
藍良は廊下に背中を擦りつけ、転がりながら必死に蛇の攻撃をかわす。床を滑る鱗の音が、耳の横をかすめる。そのたびに、藍良の心臓は口から飛び出そうになった。
「もう嫌あぁ~~!!」
そのとき、背中が硬い壁にぶつかった。行き止まりだ。逃げ道はない。
蛇は目を細め、赤い舌をチロチロと出す。獲物をからかうようにゆっくりと距離を詰めてくる様子に、藍良は堪らず目を閉じる。すると、足に冷たい感触が走った。
蛇が螺旋状に巻きついていたのだ。動きが封じられ、息が詰まる。蛇はそのまま顔を近づけると、藍良の首元へ向かって巨大な口を開けた。
——ひぃぃ……
顔が近い。近すぎる。
足に伝わる気色悪い感触。そして湿った息。気付くと、藍良の口は勝手に動いていた。
「無理無理無理無理!マジで無理ィ!!」
叫ぶのと同時に、右手で脱いだ靴を思いきり振り抜く。靴が向かった先は——首の付け根だった。
「ッ——!!」
鈍い手応えとともに、蛇の身体が大きく仰け反った。全身をビクンと震わせ、藍良から離れると暴れ始める。
「……え?なになに!?どういうこと!?」
藍良は呼吸を荒くしながら、うっすらと生物の授業を思い返していた。そういえば、蛇の急所は首の付け根だと聞いたような気がしないでもない。蛇は苦痛に悶えるように身体をくねらせている。藍良は震える膝を叩いて立ち上がると、その隙を逃さず、虚映ノ鏡が転がった方向へと駆け出した。
ズキズキと波打つ足。痛みで呼吸が乱れても、止まるわけにはいかない。止まれば、自分の命が終わる。
そのとき、背後で爆ぜるような音がした。振り返ると、蛇が大口を開けて、喉の奥から白い閃光を放っていた。
「な、なにあれ!?なにあれなにあれなにあれぇっ!?!?」
声が裏返る。藍良はパニックのまま走り続けた。光が廊下を裂き、金属が焼けるような音が響く。振り返る余裕もない。ただ、逃げる。
だが、光は確実に距離を詰めてくる。あと、少し。ここが命の分かれ道。藍良は歯を食いしばり、手を前へ伸ばした。
——掴んだ!
指先が硬い感触を捉える。震える手でしっかりと握りしめると、藍良は振り向きざま、鏡を顔の前に掲げた。
「顕現せよ!虚映ノ鏡!!」
そのあと起きた出来事は、まるで夢の中の出来事のようだった。藍良の言葉に応えるように、虚映ノ鏡が微かに震える。そして鏡面が淡く脈動し、大蛇の放った閃光を空気ごと吸い込むように取り込み始めたのだ。
光が溶け、闇が戻る。あまりに非現実な光景に、藍良は一瞬、呼吸を忘れた。
静寂と闇がその場を包み込む。
——次の瞬間。
虚映ノ鏡が、再び震えた。
「キィィン」という金属を裂くような共鳴音。鏡の中心から放たれたのは、一筋の闇だった。
それは、光を喰らい、形を変えた“影の線”。
“線”はそのまま真っ直ぐに伸びると、大蛇の身体を貫き、飲み込んでいった。




