第39話 黄金を喰らう虚映
突然の出来事に、ユエは言葉を失った。目の前に立つ女の名は、水無瀬藍良だったはず。それなのに今、この女は自らを「片寄藍良」と名乗った。いったい、どういうことだ?頭が追いつかない。理解を拒むように、思考が空転する。
「お前が口を滑らせてくれて、助かった」
不意に女の唇が動いた。響く声は、低音と高音が不自然に入り混じり、まるで二つの魂が同時に語っているかのようだった。気づけば、ユエはじりじりと後ずさっていた。
自分は、恐れている。目の前の人間を。非力だと思っていた小娘に、なぜ自分が追い詰められているのか。
すると、女が小さく笑った。その笑みには僅かに、余裕が滲んでいた。
「虚映の世界など、わたしも知らぬ術。あれも禁術かな?堕ちぶれた死神らしいといえばらしい。どうやって現実世界に戻ればいいのか考えあぐねていたが……お前が致命的なミスを犯してくれたおかげで助かった」
「致命的なミス?」
「虚映の世界は神気を宿すものは入れない。つまり、神気を宿せば、虚映の世界はその者を拒む。現実の世界に戻れるということだ。それを水無瀬藍良に伝えてしまったことだよ。意気揚々とね」
ユエは眉をひそめた。まるで、水無瀬藍良と自分は別人であるかのような口ぶりだ。
「そういえば、さっきこの子も言ってたな」
女がぽつりと呟く。
「……は?」
「『あんたは喋りすぎてボロが出るタイプ』──わたしも、そう思う。お前は喋りすぎだ」
次の瞬間、空気が震えた。
水無瀬……いや、片寄藍良の身体から溢れ出した神気が、まるで意志を持っているかのように形を変えたのだ。ふわりと漂っていた虹色の粒子はひとつとなり、眩い光の塊となって彼女の全身を包み込む。
──何か、くる。
ユエは即座に反応し、自らの神気を解き放つ。黄金の奔流が、閃光のように迸った。それはかつて、彼がカグヤ神に認められた特別なものだった。はじめてこの光を見せたとき、彼女は微笑んでこう言ったのだ。
──綺麗な色……光の属性か。それを、わたしのために使ってくれるのか。
死神の中でも、これほど純粋な金色の光を放つ神気は珍しい。まるで月光のように煌びやかで、穢れを拒むような色。それなのに、自分の心はこんなにも濁っている。それが嫌で放つたび身が震えていた。自分には、眩し過ぎるのだ。けれどこの光を、彼女は愛してくれた。
ユエは掌を強く握りしめた。
あなたにもう一度、会う。
そのためには、こんな小娘に負けるわけにはいかない。
ユエの指先から溢れる光が、空気を震わせる。そしてそのまま、ユエは藍良へと手を突き出した。静かに、そして確かな意志を宿して、ユエは詠う。
──
我が月影よ 黄金に染まれ
穢れを断ちて 深淵へ還せ
輝く光よ 天より堕ちて
抗う愚者の 魂を撃て
──
詠唱が終わるのと同時に、ユエの身体に宿った神気が弾けた。黄金の粒子が天へ舞い上がり、刃のような光へ姿を変える。瞬く間に生まれた数十の黄金の刃は、雨のように藍良へと降り注いだ。
閃光が走り、その場が白に染まる。すると、藍良の周囲に炎が舞い上がった。紅蓮の炎は渦を巻き、黄金の刃を焼き尽くしていく。しかし、すべては防ぎきれなかったようだ。数本の刃が彼女の右腕と左足をかすめ、血が地面へと散った。
藍良はわずかに顔をしかめ、傷口を見下ろす。その一瞬の隙を、ユエは逃さない。再び黄金の刃が、今度は嵐のように降り注いだ。
──やはり、こいつの属性は“炎”だ。
ユエは確信する。虚映の世界でも……そして今も。彼女は“炎の月詠”の術者だ。ならば、勝負はすでについている。
ユエは静かに息を吐き、肩を落とした。
月詠の属性は炎・風・水・土……そして、それらを凌駕する“光”。
“光”はすべての根源。光の奔流は空間を照らす。熱となって炎となり、対流となって風を生み、蒸発となって水を運び、命となって土を育む。光は存在の定義。自然現象はその影でしかない。
つまり、自然の属性を扱う術者は、格上の光の月詠を扱う術者には決して勝つことはできない。
ユエはほくそ笑むと、掌を振りかざした。黄金の光が再び迸り、刃となって放たれる。轟音とともに閃光が弾け、視界が真っ白に染まる。音も、風も、すべてを飲み込むほどの光が、その場を埋め尽くした。
──勝った。
そう確信した次の瞬間、白い光の中から、聞き覚えのある月詠が響いた。
──
我が身の影よ 刃となれ
力を纏い 空を舞え
月の光よ 我が手に集い
虚ろの者に 裁きを与えよ
──
ユエは息を呑んだ。これは──“光の月詠”。
かつて、千景が水無瀬藍良を助けに来たとき、自分に放ったものだ。だが、声が違う。声の主は光の中にいるはずの片寄藍良だ。
「こいつ……“光”も使えるのか!!」
ユエは舌打ちをしながら数歩後退した。死神界にも稀にいるのだ。二つの属性を扱える者が。まさかこの女もその“例外”だったとは。
閃光が収まり、女の姿が露わになる。制服は焦げ、腕や足には傷が増えていた。確かに攻撃は届いている。
ユエは再び黄金の刃を放つため、掌に力を込める。
藍良とユエの刃。
“黄金”と“光”──二つの月詠が、真正面からぶつかり合う。
数秒の拮抗。ユエの頬を、一筋の汗が伝う。だが次の瞬間、ユエが放った黄金の刃が押し勝ち、藍良の光の刃を貫いた。そしてそのまま、彼女の太ももや腕を次々と斬り裂いていく。
──力はこちらが上だ。
ユエの唇がわずかに吊り上がる。確信とともに、ユエの“黄金の月詠”が再び空間に響いた。
時間はかけない。これでとどめだ。この黄金の刃で今、とどめを刺す。
ユエの掌から放たれたのは、先ほどよりもさらに大きく、鋭い黄金の刃だった。刃は轟音を伴いながら、藍良へと降り注ぐ。土埃が巻き上がり、視界が再び白く染まった。音は消え、静寂が場を支配する。ユエは静かに息を吐き、土埃を睨むように見つめた。
「死んだ、か……」
ようやく終わった。散々な一日だった。土埃が晴れたら、死体を切り刻む。それを千景に見せてやる。
……そう思った瞬間、ユエの表情が凍りついた。
土埃の中に、静かに立つ人間の足が見えたのだ。血に染まり、傷だらけ。それでも確かに立っている。
──まだ、生きている。
ユエが身構え、再び黄金の刃を繰り出したその刹那、土埃の奥から厳かな声が響いた。
──
顕現せよ 虚映ノ鏡
我が魂を礎に
真なる術を 虚へと転じよ
──
すると、放たれた黄金の刃は藍良の身体を貫くことなく、小さくしぼみ、消えていった。ユエは目を細める。すると、藍良の手の中に、あの「虚映ノ鏡」があった。ひび割れた鏡面は僅かに光り、一部の欠片がまるで呼吸をするように、黄金の刃を吸い込んでいく。
「……これはいったい……何をしている?貴様……?」
呆然と呟くユエ。先ほどの月詠。こんな術は知らない。どの属性にも当てはまらない。光でもなければ、炎でも水でもない。まるであれは……
──“鏡”の月詠。
藍良は顔色ひとつ変えず、血に濡れた足を前に出した。
一歩、また一歩。
歩むたび、空気が張り詰め、鏡面が不気味に光る。そして、藍良の唇がゆっくりと動いた。
──
我が月影よ 黄金に染まれ
穢れを断ちて 深淵へ還せ
輝く光よ 天より堕ちて──
──
ユエは唇を震わせた。それは、紛れもなく、自分が口にした月詠だった。黄金の月詠を、この女は平然と、己の術のように口にしている。
恐怖が全身を駆け抜ける。どういう理屈かはわからない。だが、ユエは直感した。この女は術を模倣したのではない。奪ったのだ。
ユエは後ずさりながら、鏡を見る。鏡に吸い込まれた黄金の光は闇に喰われ、虫のように蠢いていた。月詠の最後の一節を、自分は知っている。あの方が認めてくれた、黄金の月詠。それが今、絶望的な響きとなって、自分に迫って来る。
ユエは現実を拒むように目を閉じた。瞼の裏に広がるのは一面の闇。そこへ女の声が響く。静かに、そして断罪のように。
「抗う愚者の──魂を撃て!」




