第37話 見抜かれた術者
遡ること三時間ほど前。
タマオの神気を感じ取った千景と藍良は教室を飛び出し、体育準備室へと向かっていた。走りながら、千景はいつもの余裕を滲ませて言う。
「ユエの正体は、突き止めた」
唐突な言葉に、藍良は目を丸くする。
「つ、突き止めた!?マジで!?で、誰なの!?」
千景は藍良の手を引きながら、口元に笑みを浮かべる。
「藍良はさ、朝比奈君と音羽君、榊君……この三人の中で、誰が一番怪しいと思った?」
藍良は「うーん」と唸り、少し考え込む。やがて、真剣な顔で答えた。
「榊じゃない?」
「どうして?」
「だってあいつ、千景に敵意むき出しだったし。『鏡をよこせ』だの『割ってやる』とか言ってたし」
「でも……割らなかったよね?」
「え?」
千景は穏やかに続けた。
「朝比奈君に止められたのもあるけど、彼は鏡を割らなかった。割ろうと思えば、彼を振り切って割れたのに。きっと彼……ガラは悪いけど根は案外いい人なんじゃないかな。さっきは、虫の居所が悪かっただけで」
藍良は深くため息をついた。
「殴られたのに呑気なんだから。……っていうか、鏡を割ろうとしたことってそんなに重要?」
「ものすごく」
短く返した千景の声は、僅かに緊張を帯びていた。彼の瞳は先ほどよりも鋭さを増している。
「そもそも、ユエは虚映ノ鏡について詳しくは知らない。『神気を宿す者を映さない』という特徴以外は」
千景は少し間を置いて、穏やかに続ける。
「僕が鏡を持っていったことで、ユエが『まだ秘密があるのか?』と疑った可能性は高い。だって、一度壊したはずの鏡、もう効力を失っているはずの鏡を、わざわざ破片をくっつけて持ってくるなんて、ユエからすれば超怪しいからね。そんな鏡を目の前でチラつかれたら、驚いてすぐにその場から離れるか、もしくは──」
「もしくは……?」
「もう一度壊さなければ──そう思ったはず。できることなら、あの場でね」
藍良は思わず息を呑んだ。
「……でも、榊じゃないとしたら、いったい誰?音羽も朝比奈も、鏡を割ろうとしているようには見えなかったけど」
「自分から進んで鏡を壊したら、僕たちに怪しまれちゃうでしょ?少なくとも、偶然を装って割ることは、あの状況では難しかった」
「確かに……。いきなり鏡を割りだしたら『突然どうした?』ってなるよね」
「そう。だけどそこで、ユエにとって嬉しい偶然が起きた」
「まさかそれが……榊?『その鏡をよこせ』って音羽に言ってたよね?」
千景が静かに頷いた。
「そういえばあのとき、鏡を割ろうとした榊を朝比奈が止めたっけ。ってことは、朝比奈は……」
「うん。ユエじゃない。もっとも怪しいのは、鏡を拾って榊に手渡した音羽莉比人だよ」
藍良はふうっと息を吐き、眉をひそめた。
「あいつか……。しれっと『喧嘩はやめよう~』とか言っちゃって……。腹立つわ~~」
あからさまに怒る藍良を見て、千景は思わず吹き出した。
「音羽を頑張って演じたつもりなんだろうけど、誤魔化しきれなかったね。それに、僕見ちゃったんだ」
「なにを?」
「二つの鏡を受け取った榊君がそれを振りかぶった瞬間、偽物の鏡が一瞬、僕の方を向いた。そのとき笑ってる音羽も一緒に映ってた。不安要素の鏡がまた割れると思って安心したんだろうね。ユエはいつもそう。肝心なときにボロを出してくれるから助かるよ」
ははっと笑う千景。その無邪気な笑みを見て、藍良は苦笑いを浮かべた。
「それともうひとつ。二つの鏡を拾った音羽は、迷わず藍良に返そうとした。鏡を落としたのは僕なのに」
「そういえば……そうだったかも!」
「藍良が虚映ノ鏡の本当の持ち主であることを知っているのは、僕とタマオ、それにユエだけ。まあそんないろいろな状況を重ね合わせると、ユエの正体は音羽しかいないってこと」
そう言うと、千景は得意げに笑った。
「さっすが千景!これでようやく、ユエをとっちめられるね!」
だが、千景の表情はすぐに引き締まる。
「タマオと合流して、藤堂先生を確保したあとにね。だけど、藍良はここまで。ユエと直接やり取りするのは、僕の仕事」
「……え?」
藍良が問い返すと、千景は優しく、しかし揺るがぬ目で藍良を見据えた。
「これ以上、危険な目には遭わせたくない。だからユエは僕に任せて。絶対にユエ……音羽と二人きりになっちゃだめだよ」
その瞳に宿る真剣な光に、藍良は押し黙るしかなかった。
「どのみち、正体は突き止めた。今夜、決着をつける」
「こ……今夜!?」
「うん」
千景は静かな笑みを浮かべ、視線を逸らさずに言った。
「今度こそ逃がさない。一撃で仕留める。必ず、ね」
☽ ☽ ☽
藍良は目の前に立つ音羽を見つめながら、千景とのやり取りを思い返していた。
──またしても、やってしまった。
千景から「ユエと接触しないで」って言われていたのに。まさかこんな形で、音羽──いや、ユエと対面することになるなんて。
ユエは面倒くさそうにため息をつくと、黒ぶち眼鏡を外した。それを指先で弾くように地面へ落とし、黒髪をかき上げる。次の瞬間、その髪色は淡い光を帯び、銀髪へと変わった。
その様子を見て、藍良は反射的に後ずさる。だが、背中に「バチッ」と鋭い衝撃が走り、振り返る。そこにあったのは、うっすらと赤い膜のような壁。まるで藍良の行く手を阻む──結界だ。
「ひとつ、聞きたい」
低く響いたユエの声に、藍良の心臓が跳ねた。ユエは冷たい眼差しを向けたまま、一歩、また一歩と藍良へ近づく。手を伸ばせば届く距離。だが、ユエはそこでふと足を止め、藍良を見つめたまま首を傾げた。
「水無瀬藍良。お前はいったい、何者だ?」
鋭い声が空気を裂く。
だが、唐突な問いに藍良は驚きを隠せず、目を細めた。
「は……!?何言ってるのかさっぱりなんだけど!」
「とぼけるな。何を隠してる?」
その言葉と同時に、ユエの手が伸びた。そして、藍良の胸ぐらを掴み、ぐっと持ち上げる。視界が揺れ、息が詰まる。ユエの力に、藍良の心臓は早鐘を打った。
「さっき、虚映の世界で放たれた“炎の月詠”。あの術者はお前だ。虚映の世界から抜け出すために、神気を放った。俺の目は誤魔化せない」




