第35話 鏡の檻
早鐘のように打ち続ける鼓動を静めるように、藍良は細く息を吐いた。藤堂は今、藍良にサバイバルナイフの切っ先を向けている。だが、竹刀を構えた瞬間、藤堂はわずかに後退した。どうやら、この竹刀、藤堂をある程度牽制できているようだ。
考えてみれば、藤堂が手にしているナイフは折りたたみ式で、刃渡りはせいぜい6センチほど。一方、藍良の竹刀は一メートル以上はある。
長さでは自分が有利。
そう思った途端、藤堂の口元がにやりと歪んだ。
「お前、竹刀なんて持ったことあんのか」
藍良はぎくりとした。静まった鼓動が、再び嫌に波打つ。掌にはじわじわと汗が滲み、握った竹刀は小刻みに震えていた。未経験なのはバレバレだ。
藤堂は不意にナイフを下ろすと、高笑いを始めた。意味が掴めず、藍良は思わず息を呑む。次の瞬間、藤堂の瞳がさらにギラつき、狂気が真っ直ぐ藍良へと突き刺さる。
不気味な迫力に押され、今度は藍良が後退した。藤堂はナイフを構えてすらいないのに、先ほどよりも圧がある。気づけば、藤堂の身体を覆う黒い靄はさらに濃くまとわりつき、まるで何か異形のものが憑依しているようだった。
藍良は震える手で竹刀を振りかぶり、目をぎゅっと閉じて振り下ろす。
だが、衝撃はなかった。おそるおそる目を開けると、藍良の視界に飛び込んできたのは不気味にあざ笑う藤堂だった。竹刀をがっしりと掴み取っていた。
「弱っちくて、全然話にならねえんだよ」
藍良は藤堂の手を振りほどこうと必死に力を込めるが、岩のようにビクともしない。視線を上げた瞬間、藤堂の瞳が血のように赤く染まっているのに気付き、背筋が凍った。
ただの充血ではない。今の藤堂には、別の何かが宿っている。
──ほら。早くどうにかしないと、君が藤堂に殺されちゃうよ。
ユエだ。きっと、ユエが藤堂になにかしらの術を施したのだろう。
次の瞬間、藤堂が竹刀を力任せに引き寄せた。藍良の身体がぐっと引き倒され、胸元に藤堂のナイフが迫る。
必死だった。
気付くと、藍良の身体は勝手に跳ねていた。
下から繰り出された藍良の石頭は藤堂の顎を直撃。鈍い音とともに藤堂は唸り声を上げ、よろめきながら俯いた。
その一瞬を逃さず、藍良は竹刀を握り直すと一目散に駆け出す。
「逃げても無駄だ!馬鹿が!」
藤堂は数秒と経たずに迫って来た。背後から迫る足音を聞きながら、藍良は冷静に状況を整理する。
──十秒、いや、七秒くらいで追いつかれる。
藍良は全速力で廊下の角を駆け抜け、制服のポケットに手を突っ込んだ。震える指先がビニール袋を掴み、そのまま床へと滑るように広がる。袋は油でわずかに濡れた状態。さっき、藍良は食堂へ行き、ビニール袋に油を塗ったのだ。
鬼のような形相をした藤堂が角を曲がって来る。それと同時に……。
──ズルッ
藤堂は間抜けな音とともに、派手にすっころんだ。
「ち……このクソ女!」
藤堂は必死に起き上がろうとするが、再び足を取られて床に叩きつけられる。
まさかこんなにうまくいくとは。ちょっぴり驚く藍良だったが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
藍良は竹刀を握り直し、全身の力を込めて振りかぶる。
──ゴスッ。
廊下に鈍い音が響き、藤堂はその場に崩れ落ちた。荒い呼吸を整えながら様子を窺う。どうやら、完全に気を失っているようだ。
全身の力が抜けた藍良は、その場にへたり込んだ。手を離れた竹刀が、カランと床に転がる。それから、藍良は目に入った藤堂のナイフを拾い上げると、窓の外へと投げ捨てた。ナイフは闇の中で一瞬きらめき、すぐに吞み込まれるように消えた。
静けさの中、藍良はゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。
ここは、自分が「空間転移B」に来たときと同じ場所。ならば、この世界を抜け出す鍵があるはずだ。
藍良は鏡を元あった場所にそっと戻し、覗き込んだ。
だが、映っていたのは、自分の顔と今いる廊下の光景。藍良は思わず、肩を落とす。
藍良は息を整え、思考を巡らせる。
とりあえず、やるべきことはやった。藤堂も気絶させられたし、あとは紐かなにかで縛り上げて、千景たちが来るのを待つ。それしかない。
そう思った瞬間、ユエの声が不気味に響いた。
──もしかして……千景が来るのを待ってるのかな?
藍良の身体がビクリと震える。
──千景は来ないよ。正確に言うとね、来れないんだ。
「どういう意味!?」
声を張り上げた藍良に、ユエは愉快そうに囁く。
──君、どうせここで死ぬから教えてあげるね。ここはね、鏡の中……「虚映の世界」なんだ。
虚映……やっぱり。
ここは「空間転移B」ではなく、「鏡の中の世界」だったのか。
──君、虚映ノ鏡を持っていたでしょう。神気を宿す者を映さない特殊な鏡。それとちょっとこの世界は性質が似てるんだ。この虚映の世界はね、人の世の反映。千景や兼翔みたいな死神……人を超えた神気を宿している者は、この世界には入れない。入口すら見つけられないんだよ。
藍良の顔が凍りつく。
「ちょっと……待ちなさいよ!神気を宿しているあんたも、この世界にいるでしょ!」
──僕は術を発動させただけで、そっちにはいないよ。今僕は、鏡越しに君たちを覗いてる。空間転移でも、虚映の世界でもない、現実の世界でね。
愕然とする藍良。思わず目を泳がせる。
──千景と兼翔、それにあの蛇は、今「空間転移」で君を必死に探してるよ。どこを探しても君はいないのに。
くすくすと笑うユエの声が響く。
──慌てる君たちを眺めるのも楽しかったけど、千景を苦しめるには、君には今ここで死んでもらわないと。亡骸をあの男に見せてあげたいからね。
藍良の呼吸が荒く乱れる。すると、背後からずるりと重い気配を感じた。藤堂だ。
よろめきながら起き上がり、獣のような唸り声と共に、藍良に飛びかかってくる。藍良の身体は床に叩きつけられ、次の瞬間、首を両手で締め上げられた。
「殺す……!殺す……!殺すッ!」
赤く染まった瞳が、瞬きもせず藍良を射抜く。呪詛のような声が途切れなく繰り返され、そのたびに首に焼けつくような激痛が走った。呼吸は途絶え、肺が悲鳴をあげる。意識が暗転しそうになる中、藍良は必死に心の中で同じ言葉を繰り返した。
──千景……千景……。
だが、そんな願いを踏みにじるように、ユエの冷たい笑い声が耳をかすめる。その声を聞いて、藍良は悟った。
──わたしはここで死ぬんだ。
首を締め上げられ、藍良の視界はじわじわと闇に塗りつぶされていく。完全に光が消えかけたその刹那……。
──バンッ!
鋭い衝撃音とともに、喉を締め付けていた力がふっと溶けた。藍良はむせかえりながら目を開く。視界の数メートル先には、倒れ込む藤堂の姿。
「この女ァ……」
藤堂はぎろりと睨むと、再び立ち上がり、突進してきた。だが、藍良の身体は動かない。抵抗もできない。ただ反射的に目を閉じる。
そのとき、闇を切り裂くように、虹色の光が瞼を貫いた。
それは見たことのない幻想的な輝き。そして、光と重なるように小さな音が放たれる。
──
我が身の影よ 炎となれ
この掌に 力を纏え
紅き炎よ 虚を喰らい
我が意に従い 焔となれ
──
聞き覚えのある月詠。
これはさっき、体育準備室で兼翔が唱えた、あの炎の月詠だ。
だが、今響いた声は兼翔ではなかった。
そして、ずっと待ち続けた千景の声でもなかった。




