第34話 藍良の賭け
それから十分後、藍良は自分のクラスにいた。
照明は点けない。点ければ、自分の居場所が藤堂にバレてしまう。
──わたしは帰る方法を知っている
さっき、藍良は毅然とそう告げた。藤堂がどれほど藍良に殺意を抱いていようと、得体の知れないこの世界に居続けるよりは、藍良の要求を飲む方が賢明だと思うかもしれない。だが、藍良はひとつだけ後悔していた。
「この映像を警察に渡す」
あんな言い方しなければよかった。
藤堂を説得するなら、下手に刺激するべきではなかった。感情が昂ると、すぐに思ったことをそのまま口にしてしまう。それを父・慈玄にも、親友の咲にも散々注意されてきたのに。
──そういえば、千景にも前、酷いこと言っちゃったな。
藍良は思い出す。千景が藍良の自宅である寺で下宿が決まったとき、思わず「笑顔がうさんくさい」という失礼極まりない言葉を浴びせてしまったのだ。だが、千景は怒ることもなく、静かに笑っていた。とても愛おしそうな眼差しを向けながら。
千景の笑顔を思い浮かべた瞬間、藍良は体育座りのまま頭を抱えた。胸の奥がきゅっと痛む。千景がいないのが寂しい。ひとりで戦うことが、怖くて仕方がない。
しかも、ここは千景や兼翔ですら完全に理解していない「空間転移」の世界。頼れるものもなくぽつんと放り出されて、どうやって生き延びろというのか。
藍良は涙を堪えきれず、袖でごしごしと拭い、頭を振った。そして、たったひとつの想いを心の中で唱えた。
──千景は絶対に、わたしを見つけてくれる。
不思議と確信があった。その言葉を心の中で繰り返すたびに、不安が少しずつ薄れていく。千景は必ず来てくれる。それまで、時間を稼ぐんだ。
決意を新たにした藍良は、まず藤堂への対策を練ろうと思考を巡らせる。
先ほど突きつけた条件──「元の世界に戻りたければナイフを捨てること」「五メートル以上距離を取ること」
理想を言えば、藤堂をどうにか説得して、そのまま元の世界……いや、せめて千景たちがいる「空間転移A」へ戻れればいい。
だが、藤堂が条件を守る保証はない。説得も通じないかもしれない。
むしろ、裏切られる前提で考えた方がいいだろう。油断すれば命はない。
頭を掻きながら、藍良はふと教室内を見渡した。すると、後方の荷物入れに、黒い竹刀袋が立てかけてあるのに気付く。おそらく、クラスの剣道部員が置き忘れたのだろう。藍良はそっと立ち上がり、足音を忍ばせながら竹刀袋を持ち上げる。
ずしり、と手に伝わる重み。その感覚に、思わず小さく笑った。
十年前、交通事故で亡くなった母・梓は剣道三段だった。生前、三度ほど稽古をつけてくれたことがある。けれど、藍良はすぐに辞めてしまった。理由は単純で、もともと運動が好きじゃないのもあるが、「メン」や「ドウ」といった掛け声が苦手だったのだ。
けれど、母は言っていた。声を放つのは気迫で相手を圧倒し、心を揺さぶるためでもある。間合いを支配するのは気迫なのだと。
母の言葉が、今になって胸の奥に響く。
──これがあれば、強い自分でいられる気がする。
安易かもしれないが、そう思わずにはいられなかった。刃物や薬品に頼るより、竹刀の方がしっくりくる。弱い自分を、奮い立たせてくれる気がしたのだ。
「藤堂先生と……この世界を出る」
小さく呟いた声が、静まり返った教室に響く。藍良の脳裏に、元の世界での体育準備室のやり取りが蘇った。
空間転移には必ず“入口”──裂け目がある。あのときは絶叫マシーンのような揺さぶりに耐えながら、「空間転移A」へ落ちた。
ここまででも不思議なことの連続だが、その先はもっと不可解だ。
「空間転移A」から「空間転移B」に移った瞬間、聞こえたのは小さな音だけだった。滑る感覚も、落ちる衝撃もない。気付けば一瞬で、この世界に来ていたのだ。
そういえば、と藍良は机を見下ろす。
そこに置かれていたのは「虚映ノ鏡」。あのとき、廊下に落ちていた鏡を拾った直後に、この世界へ引きずり込まれたのだ。藍良は何気なく鏡面を見つめる。そして、ハッとした。
──この鏡、偽物だ。
本物の虚映ノ鏡は割れてしまって、破片を繋ぎ合わせた跡があるはず。それが、この鏡にはない。
鏡を見つめながら、藍良は思考を巡らせる。
あのとき、不自然に落ちていたこの鏡を拾った瞬間に、「空間転移B」に来た。つまり、“鍵”はこの鏡ということになるのだろうか。そうだとすると、この世界は──。
「……鏡の世界?」
直感が、口からこぼれ落ちた。もしかして、この世界は「空間転移」ではなく、鏡の世界なのではないだろうか。
ふんわりだが、何かの手がかりを掴んだ気がした。“鍵”があるとするなら、きっとこの鏡。そしてあのとき鏡が落ちていた場所──体育準備室前の廊下だ。
藍良は深く息を吸い込み、覚悟を決める。
まずは藤堂と話す。
無理なら拘束する。
そして必ず元の世界へ──あるいは千景のいる「空間転移A」へ戻る方法を見つける。
竹刀袋を肩に担ぎ、鏡を握りしめる。
行き先は、体育準備室。
でもその前に、もうひとつ。
自分には行くべき場所がある。
足音を殺して歩き出す藍良の瞳には、もう迷いはなかった。
☽ ☽ ☽
それから三十分後。藍良は竹刀袋をぎゅっと握りしめ、体育準備室に身を潜めていた。
時刻は六時。藤堂に告げた約束の時間だ。胸の鼓動がいやに大きく響いて、心がざわつく。考えた作戦は無謀そのもの。成功する保証はなく、半分は賭けに近い。
それでも、やるしかない。しっかりしろ、そう自分を奮い立たせた次の瞬間……。
──ドンッ。
廊下で重たい音が響いた。
誰かが倒れたような、鈍い衝撃音。藍良の瞳が大きく見開かれる。そっと廊下の様子を窺うと、そこには藤堂が倒れていた。
息を詰めながら、藍良は戸惑う。
これは何だ?ユエの仕業か?それとも、藤堂の罠なのか?
心臓が早鐘を打つ。もし罠なら命を落としかねない。いったいどうすれば──。
そう思いながら一歩近づいた次の瞬間、藤堂が弾かれたように起き上がった。
閃く刃。鋭い切っ先が目の前に迫り、ブンッと嫌な音が耳をかすめる。藍良は思わず仰け反り、尻餅をついた。
すると、目にとんでもないものが飛び込んで来た。藤堂の身体から黒い靄が立ち上っているのだ。揺らめく影のようなそれは、禍々しい気配を宿していた。
藍良は直感した。これは邪気だ。
耳元で小さな笑い声が響く。ユエだ。どこかで、この瞬間を愉快そうに眺めているのだろう。
藤堂の目はすでに血走っていた。そして、藍良を睨むと、舌打ちをしてこう告げた。
「この世界が現実でも現実じゃなくてもどうでもいい。お前はここで死ぬんだよ」
その声を聞いて、藍良は震える膝を掌で叩き、どうにか体を起こして一歩ずつ後ずさりをした。どうやら、想像以上に藤堂は捨て身だったらしい。
もはやなにをいっても無駄、口で説得するのは不可能だ。
──わかっただろう。さあ、殺せ。
享楽的なユエの声に、藍良は心の中で「やかましいっ!」と叫びながら廊下を駆け出した。だが、藤堂の重たい足音が、すぐに背中に迫る。
藍良は振り返り、竹刀を持って構えると、藤堂を真っ直ぐに見据えて、叫んだ。
「どっからでも……かかってこい!」




