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虚映ノ鏡は真を映さず ─神気宿す少女と、月詠む死神審問官─  作者: あさとゆう
第2章 藍の眼と月詠の探偵

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第33話 空間転移B

 藤堂の手に握られたサバイバルナイフが、鋭い光を放ちながら藍良へと向けられる。刃先が僅かに揺れる度、嫌な汗が額から頬へと伝った。


 藍良は直感した。藤堂は猫を殺していた。その現場を竜崎に撮られ、写真をネタに脅されていた。そして、秘密を知ってしまった自分が、次の標的となったのだと。


 この場には千景も、兼翔も、タマオもいない。

 生き延びるには──逃げるしかない。


 藍良は震えながら、周囲を見渡した。すると、足元に絵の具が転がっていた。藍良はすかさず絵の具を右手で掴み取り、藤堂に投げつけた。不意だったのか、藤堂が一瞬たじろぐ。その隙に、藍良は全力で駆け出した。


 だが、すぐに背後から足音が迫る。体育教師と足が遅い自分。勝負は初めからついていた。


 恐怖のせいか、藍良の足は鉛のように重たい。まだ数十メートルしか走っていないのに、呼吸も激しく乱れていた。そのとき、かつて自分が口にした言葉が頭をよぎった。


 ──何があっても、千景が守ってくれるもん。


 半分冗談で言った言葉。今、隣に千景はいない。それがこんなにも心細いなんて。こんなにも、自分は無力だと思い知ることになるなんて。


 気付くと、藍良の目には涙が浮かんでいた。藍良は首を振り、自分を叱りつける。


 泣いている場合じゃない。

 考えろ、考えろ。

 藤堂を振り切って、生き延びる策を──。


 廊下の角を抜けると、体育準備室の扉が視界に入った。扉は半開きになっている。藍良はひとつの考えが浮かび、中へ飛び込む。そして、壁際に積まれたマットの影に身を潜め、息を殺した。


 数十秒後、「ギィ」という音とともに、扉がゆっくりと開く。現れたのは藤堂。その手にはナイフが握られている。藤堂が数歩進んだのを確認して、藍良は歯を食いしばりながら、全身でマットに突進した。


「うおりゃあぁぁぁ!!」


 自分でも初めて聞くドスの利いた声。藤堂が振り返ったのと同時に、押し倒された数枚のマットが彼に直撃した。


 藤堂がよろめいた隙に、藍良は廊下へと駆け出した。しばらく走って振り返ると、藤堂はいなかった。藍良は足を止め、深呼吸をし、窓際へと視線を移した。


 窓の先に見えるのは、夕焼けに染まった校庭と住宅街。藍良はゴクリと生唾を飲み込み、窓を開けると、ポケットの中の飴玉をそっと投げ込んだ。すると──。


 バチッ!


 突如生まれた火花が飴玉を包み込む。三秒も経たないうちに、飴玉は跡形もなく消えた。それを見て、藍良の背筋に冷たいものが走る。あの飴玉がもし自分だったら……そのとき、兼翔の言葉を思い出した。


 ──あれは“空”に、そして“建物”に見えるだけだ。空間転移は俺たち審問官ですらよくわからん禁術。死にたくなければ近寄るな──


 ここは、現実世界じゃない。

 だけど、さっきまで千景たちと一緒にいた「空間転移」の世界でもない。

 千景がいるのが「空間転移A」とするなら、ここは「空間転移B」……?


 そのとき、背後から再び重たい足音が聞こえてきた。藤堂が追ってきたのだ。焦りながら前を見ると、廊下の先に開いた扉が目に入った。


 ──化学準備室。


 藍良は一瞬躊躇(ためら)いながらも、化学準備室へ足を踏み入れる。鼻を刺す薬品の匂い。薄暗い室内に置かれた棚には、ありとあらゆる薬品が瓶に入って並べられている。教員用の机には、書籍や書類、筆記用具が無造作に置かれていた。すると、室内に小さな声が響いた。


 ──大変な目に()ってるみたいだね、藍良。


 藍良はハッとした。千景の声だ。近くにいるのだろうか。


「千景!?どこ!?」


 ──すぐには行けない。でも、助けることはできる。目の前の机を見て。


 声に促されて視線を落とすと、教員用の机の上に薬品の瓶が一本置かれていた。ラベルには黒い文字でこう記されている。


 『H₂SO₄』


「なにこれ!?薬品!?わたし、理系はさっぱりなんだけど!」


 ──ただの食塩水だよ。それを藤堂の顔に投げつけて。目に入れば追ってこられないはず。それを当てて、逃げるんだ。


 藍良は瓶を手にして、書かれている化学式をまじまじと見つめる。そのとき、藍良の胸にぞわりとした違和感が走った。


 疑念を払う暇もなく、化学準備室の扉が開かれる。現れた藤堂は、氷のように冷たい視線を藍良に向けた。ナイフを握る手は、震えてすらいない。まるで、藍良を手にかける覚悟を決めているかのようだ。


「猫を、殺してたんだね。藤堂先生」

「……ああ。せっかく竜崎が死んだのに、今度はお前かよ」


 藤堂はそう吐き捨てると、ナイフの刃先を藍良へと向けた。


 ──どうしたの、藍良。早く藤堂に薬品をかけるんだ。


 静かな声が響く。だが、藍良の胸にはひとつの確信が宿っていた。


「藤堂先生。わたしの話を聞いて」

「黙れ」

「いいから聞いて!わたしたちは今、ハメられてるんだよ!あるヤツに。にわかには信じられないと思うけど」


 藍良の言葉の意味がわからないのか、藤堂は目を細める。


「なにを言っている?」

「そのまんまの意味。そもそもね、ここはわたしたちがいた世界じゃないの。藤堂先生、一時間くらい前に体育準備室に入ったでしょ?そのとき、『バチッ』って音しなかった?なんか変だなって思ったでしょ!?」


 すると、藤堂の目が一瞬泳いだ。どうやら、身に覚えがあるらしい。


「わたしは元の世界へ戻る方法を知ってる。でも、わたしを殺したら、藤堂先生は死ぬまでここを彷徨うことになる」


 ドヤ顔で嘘を言い放つ藍良。そんな方法があるなら自分が知りたいくらいだが、これは藤堂の殺意を削ぐための賭け。自分の命を守るための策だ。


 だが、藤堂は鼻で笑った。当たり前だが、まったく信じていない様子だ。

 藍良はスマホを突き出した。画面には、藤堂が弱みの写真を握りしめて笑う姿がはっきりと映し出されている。


「藤堂先生がわたしを狙う理由はこれでしょ?」


 藤堂の視線が一気に鋭くなる。その瞳には、荒々しい怒りが感じられた。


「わたしは、藤堂先生を脅したりはしない。でもね、元の世界に帰ったら、この映像を警察に渡す」


 スマホを握る藍良の手は恐怖で震えていた。だが、胸の奥に燃える決意が、声を押し上げる。藍良は藤堂を鋭く睨みつけ、叫んだ。


「猫を殺したあんたを……わたしは、絶対に許さない!」

「このクソガキが!」


 藤堂が藍良に向かって駆け出す。だが、藍良は反射的に薬品が入った瓶を掴むと、藤堂ではなく、窓へ投げつけた。鋭い音とともに、瓶は窓を砕いて、そのまま外へと放り出される。その瞬間──。


 バチッ!


 瓶は白い閃光に包まれた。稲妻のような光が室内を一瞬で焼き尽くし、直後、小さな爆発音が響く。窓の外──茜色の空が、音もなく掻き消えた。そこに広がったのは、完全な闇だった。


 まるで世界そのものが闇に包まれたような光景。だが、数秒後には、まるで停電が復旧したかのように、パチッと元通りの夕焼けが広がった。


 異様な光景に、藤堂は言葉を失う。唖然としたまま窓へ駆け寄り、外を見下ろす。だが、瓶はどこにもない。先ほど藍良が窓の外に投げた飴玉のように、跡形もなく消えたのだ。


「わかったでしょ!?この学園から一歩でも外に出たら、あの瓶みたいに消えてなくなる。ここは現実世界じゃない。別世界なの!わたしは戻る方法を知ってる。それを知りたいなら、まずはナイフを捨てること。わたしと五メートル以上、一定の距離を取ること。これを約束してくれないと、教えない!」


 藤堂は喚き声をあげ、ナイフをがむしゃらに振り下ろした。だが、藍良には届かない。気が動転しているのか、軌道はめちゃくちゃだ。藍良は机の上にあったペンや本を片っ端から掴み、藤堂に投げつけながら、扉に向かって後退する。


「わたしの提案を飲むなら、一時間後に体育準備室に来て!それまでに覚悟を決めないなら、わたしひとりで帰るから!」


 藍良はそう叫び、化学準備室を飛び出した。どれほど走っただろう。胸は焼けるように痛み、息をするたびに胸が裂けるようだった。


 しばらく走ったところで、藍良は振り返り、目を細めて周囲を(うかが)う。藤堂の姿はない。そっと胸を撫で下ろしたとき、耳元で静かな声が響いた。


 ──藍良、どうして……


「あんた……千景じゃなくてユエだね」


 声がピタリと止む。


「うちの千景はね、藤堂先生のことを『藤堂』って呼び捨てにしたことは一度もない。それに、さっき先生に投げろって言った薬品。あれは食塩水じゃない。本当は、硫酸(りゅうさん)でしょ。あんなの顔にかけたら失明だよ」


 すると、「くすくす」と小さな笑い声が聞こえる。


 ──君、バカだから(だま)されると思ってた。理系は苦手だと思ってたんだけどな。


「この前の小テストでちょうど間違えたところだから偶然覚えてたの。あんたにひとつ忠告してあげる」


 ──忠告?


「調子に乗ってベラベラ喋らない方がいいよ。あんた、喋ってボロが出るタイプだから」


 ──強気でいられるのも今のうちだよ。君、前に「絶対に千景が捕まえる」って言ったよね。


「それが?」


 ──千景はいない。誰も助けに来ないよ。それともうひとつ。藤堂を殺すのは、僕じゃなくて、君だ。


「……どういう意味?」


 ──僕が殺すのは簡単だけど、せっかくなら君に殺してもらおうかなって思って。その方が、ずっとずっと楽しいからね。


「そんなことはしない」


 ──自分が殺されそうになっても、そんな綺麗事が言えるかな。


 軽快な笑い声が数秒響いたあと、その声は静かに空間の中へ溶けていった。藍良は悪態をつく。どうやらユエは藍良と藤堂の命のやり取りを見ながら、楽しんでいるようだ。


 怒りが込み上げる藍良だったが、ひとつ確信も得た。声が聞こえたということは、ユエは今、この「空間転移B」にいるのだ。


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