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虚映ノ鏡は真を映さず ─神気宿す少女と、月詠む死神審問官─  作者: あさとゆう
第2章 藍の眼と月詠の探偵

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第32話 牙を剥く絶望

 東園高等学園の体育教師、藤堂翔真の半生は波乱に満ちていた。

 始まりは、六歳のときの両親の離婚だった。父は家を去り、残された藤堂は母の元で育つことになる。しかし、母は情緒不安定で折に触れて息子へ罵声を浴びせた。


 ──あんたさえ産まれてこなければ。


 幼い藤堂には、言葉の意味がわからず、ただ心がえぐられるだけだった。やがて十五歳となった藤堂は、ようやく真実を知る。離婚の原因は父ではなく、母の不倫だったのだ。離婚が決まると、母は不倫相手にもあっさりと見捨てられた。しかも、彼が去った理由は「子どもの存在」──つまり藤堂自身だったのだ。


 それから、藤堂は授業をサボり、体育館裏で飲酒と喫煙を繰り返すようになった。恐喝や万引き、そして暴力。高校一年生が終わるころには、すっかり「問題児」として名が通っていた。


 高校二年生となった藤堂は、金欲しさに日々街でカツアゲをした。それがきっかけで地元の不良グループに目をつけられ、顔を合わせるたびに袋叩きに遭うようになる。殴られ、蹴られ、血を流しながら道端に倒れこむ。そんな日々が続く中でも、藤堂は吸い込まれるように毎日街に繰り出した。


 ある日、ぼろ雑巾のようにうずくまる藤堂の前に、一人の男が現れた。「瀬名」と名乗ったその男は、品の良いスーツを身に(まと)い、微笑みを携えながら彼を見下ろしていた。だがその目の奥には、どこか鋭く冷たい光が潜んでいた。


「ちょっとした仕事やってみない?月二十万出すよ」


 藤堂は迷うことなく頷いた。遊ぶ金が欲しかった。断る理由がなかったのだ。


 それから、藤堂は瀬名から白い小袋を指定の場所に運ぶよう命じられた。行く先々では、目の焦点が定まらない男や女、老人が、落ち着きなく彼を待ち受けていた。彼らは金を渡し、小袋を受け取ると、逃げるように走り去っていった。


 袋の中身が違法薬物であることはすぐに気付いた。

 自分が一線を越えたという自覚はあった。だが、考えないことにした。面倒だったのもあるが、単純に金が欲しかったのだ。


 そんな中、唐突に運命を変える出来事が訪れる。


 ある日、藤堂はいつも通り薬を運んでいた。受け取りに来たのは五十代ほどの女。だがその顔は蒼白で、焦点の合わない目が宙を彷徨っていた。藤堂が金を要求すると、女は突然地面に倒れこんだ。口から泡を吹き、虚ろに痙攣(けいれん)を繰り返す姿に、藤堂は言葉を失った。


 一瞬、逃げようと背を向けかけた。しかし、倒れた女の顔がなぜか母と重なった。理由はわからないが、気付くと藤堂は救急車を呼び、その場を立ち去っていた。


 だが、藤堂は致命的なミスを犯した。慌てていたせいで、瀬名から預かった薬の袋をその場に落としてしまったのだ。


 焦った藤堂は、アジトのアパートへ戻るなり瀬名にすべてを打ち明けた。冷静に考えれば自殺行為だが、このときの藤堂は、それほど動揺していたのだ。


 案の定、瀬名は烈火のごとく怒り狂った。次の瞬間、瀬名はサバイバルナイフで藤堂の腕や顔を切りつけた。視界が揺れ、熱い痛みが走る。初めて目の当たりにした瀬名の本性に、藤堂は腰を抜かした。そんな藤堂に瀬名は静かに告げた。


「救急車への通報はな、全部録音されてるんだよ」


 違法薬物と薬物中毒で倒れた女。そして逃げた通報者。警察はきっと、通報者である藤堂を薬物関係者だと思うはず。そうすれば自分にも捜査の手が及ぶ──。瀬名はそう考えたらしい。


 それから、瀬名は藤堂を容赦なく殴りつけた。拳が頬を打ち抜くたびに視界が揺れ、鼻からは熱い血が滴り落ちる。顔は腫れ上がり、窓にうっすらと映る顔が自分だとわからないほどに。口内は乾ききり、鉄の味が広がった。


「た、助け……」


 掠れた声で懇願する藤堂を見下ろし、瀬名は不気味に笑った。そして再びナイフを手に取ると、藤堂の右手の指に冷たく添えた。


「──落とし前のつけ方を教えてやる」


 一気に血の気が引いた。全身が氷のように強張り、呼吸さえままならない。そこから先の記憶は曖昧だ。気がつけば、藤堂は瀬名を突き飛ばし、アパートを飛び出していた。


 背後から浴びせられる罵声と、重い足音。瀬名が追ってくる。肺が焼けるように痛む中、必死に走った。どれほど走ったのか、突然、耳を裂くようなクラクションが響いた。


 反射的に振り返ったその瞬間、トラックのライトが視界を裂いた。ドン──という衝撃音と同時に、瀬名は身体を弾かれ、地面に叩きつけられていた。


 藤堂は息を震わせながら、倒れた瀬名を見つめた。瀬名は、ナイフを握ったまま、微動だにしなかった。藤堂は息を荒げ、がむしゃらに闇の中を駆けた。しばらく走って、藤堂は河川敷に腰掛け、息を整えながら思った。


 こんな生活も、こんな自分にもうんざりだ。

 俺は真っ当になる。ここから生まれ変わるんだ──。


 すでに高校を中退していた藤堂は、それから酒とタバコをやめた。必死に勉強し、高卒認定試験に合格。数年後、奨学金を頼りに大学へ進学した。教職課程を修め、念願の教員免許を取得。かつて荒れていた学生時代を振り切り、体育教師として新たな道を歩み出す。結婚し、新しい家族ができたのはその頃だった。


 ──俺は変わった。


 そう信じていた。


 だが、藤堂の心は唐突に打ち砕かれる。

 母が交通事故に()ったのだ。


 一命は取り留めたものの、手足のしびれと脳障害が残った。以来、介護も兼ねて、藤堂一家は母と同居を始めた。脳障害のためか、母は頻繁に過去の出来事を思い出し、ぼやくようになった。離婚した夫の恨み節から始まったそのぼやきは、日に日にエスカレートし、次第にあの呪いの言葉を口にするようになる。


 ──あんたさえ産まれてこなければ。


 学校では担任業務に加えて部活動の顧問を任され、保護者対応や同僚との人間関係に疲弊していた。そのタイミングで、今後は妻が家から出ていった。藤堂の仕事中に、母から暴力を振るわれたらしい。以来藤堂は妻とも別居。日中は仕事をこなし、帰宅後は母の介護に努めた。だが、ヘルパーの助けはあったものの、心身は休まらなかった。藤堂は慢性的な睡眠不足となり、心療内科に通うようになった。


 そんなある日、藤堂は仕事の合間に体育館裏へ足を運んだ。人目のない場所で、缶ビールを開け、タバコに火をつける。数年ぶりの酒とタバコ。高校生だったころの自分を思い出し、背徳感が胸をかすめたが、それはほんの一瞬だった。不思議なことに、酒と煙が肺を満たすと、張り裂けそうだった心がすっと静まった。


 その日を境に、藤堂は毎日のように体育館裏で飲酒と喫煙をした。罪悪感は徐々に薄れ、その行為そのものが心の()り所となっていった。


 そんな日々が続いたある日の夕方。足元に一匹の野良猫が現れた。藤堂は特に考えなしに猫を反射的に掴むと、首に手をかけ、力を込める。猫は数秒もがいたのち、だらりと力を失った。そして、藤堂は無言のまま、それを芝生の上へと投げ捨てたのだ。


 その行為は、藤堂の心を一層晴れやかにした。やがて藤堂は、同じ行為を繰り返すようになる。首を締め上げるときは必ず顔を近づけ、瞳をじっと覗き込む。命の灯が消える瞬間を、しっかり目に焼き付けるために。


 だが、それにもすぐに飽きた。藤堂は新たな刺激を求め、サバイバルナイフを手に入れる。懐に忍ばせ、猫を捕らえてはその首を容赦なく斬り落とした。

 生温かい血が(てのひら)に滴ったとき、藤堂は確信した。


 ──この命の主導権を握っているのは、俺だ。


 そんな支配感が、自分に存在価値を与えてくれた。


 だが、そんな至福のときも唐突に終わりを告げる。

 藤堂が担任を持つ学年……自分のクラスではないが、学園内で名の知れた不良、竜崎玲奈が、藤堂の前に立ちはだかったのだ。彼女は得意げに一枚の写真を藤堂にかざした。それは、藤堂が猫の首を切り落とす瞬間を捉えた、決定的な犯行現場だった。


「これ、バレたら懲戒免職だね。それに動物虐待って……たしか犯罪だったよねぇ?」


 藤堂の喉がごくりと鳴る。


「ねえ、先生。前科持ちになりたくなかったら、わたしの言うこと、聞いてくれる?」


 竜崎の声は甘く囁くようで、刃のように鋭かった。藤堂は唇を噛み、黙って金を差し出した。金額は三万。秘密を守れるなら安いものだと、そう自分に言い聞かせながら。


 だが、竜崎はそれで終わらなかった。それから、彼女は折に触れて写真の存在をちらつかせ、藤堂に金をせびるようになったのだ。


 藤堂は悟った。今の自分は、竜崎の「猫」だ。

 かつて自分が猫の命を握ったように、今は竜崎が自分の生命線を握っている。数日前まで感じていた“絶対的な強さ”は、あっという間に消え失せた。

 ある日、金を渡したとき、藤堂は恥を忍んで土下座した。


「もう終わりにしてください。お願いします」


 竜崎はにやりと笑い、こう軽い調子で告げた。


「いいよ、先生。じゃあ次で最後ね。あと二十万。それを写真と交換してあげる」


 頭を地面につけたまま、藤堂の体は震えていた。怒りと殺意が内側で(うごめく)くのを堪えながら、(わら)にもすがる思いで三日後に二十万を差し出した。そのときは、これで終わりだと信じていた。


 だが、その夜。スマホが震え、画面に竜崎のメッセージが踊る。


「実はね、写真を焼き増しして、学園のある場所に隠してあるの。生徒が頻繁に入る場所だから、そのうち見つかるかもね」


 藤堂は血の気が引いた。慌てて返信する。


「約束と違う。場所を教えてくれ」

「え〜、どうしよっかな〜」


 藤堂は震える手でスマホを握りしめ、こう打ち込んだ。


「いくら欲しいんだ?」


 数分後、竜崎からこうメッセージが届いた。


「百万円。バラされたくなかったら、三日以内に持って来て」


 藤堂は悟った。

 こいつはハイエナだ。


 竜崎はこれで終わらない。生きている限り、この地獄は続く。逃れる術はただひとつ。この女を殺し、永遠に黙らせるしかない。藤堂はそう決意し、サバイバルナイフを握りしめた。


 だが翌日、思いもよらぬ知らせが届いた。竜崎が自殺したのだ。

 突拍子もないニュースに驚きながらも、藤堂は胸をなで下ろした。もう脅されることはない。


 だが安堵したのも束の間、焦燥(しょうそう)が押し寄せる。頭をよぎったのは、竜崎のメッセージだった。


 ──実はね、写真を焼き増しして、学園のある場所に隠してあるの。


 写真を見られたら、俺は終わりだ。


 藤堂はすぐに動いた。金に困っていた用務員を買収し、マスターキーを手に入れる。休日のパチンコ屋で見かけては、いつか利用できると思っていた男だ。案の定、金をちらつかせると用務員は二つ返事で首を縦に振った。


 それからの写真探しは地道な作業だった。鍵を使い、校内をくまなく探す日々。ようやく写真を見つけたとき、藤堂は初めて深く息をついた。


 ──これで、すべて消えた。


 そう思った瞬間、藤堂の視線の先に少女が立っていた。

 手元にはスマホ。レンズはこちらを向いている。写真か、あるいは録画──画面の小さな光が微かに見える。それを見た途端、藤堂の脳裏(のうり)に竜崎の影がよぎった。


 この女もあいつと同じだ。決して、逃がしてはならない。


 藤堂はゆっくりとジャケットの内ポケットに手を滑り込ませ、サバイバルナイフを取り出した。深く息を吸い、目を閉じる。瞼の裏に、何度も繰り返した光景が浮かぶ。猫の首を絞め、サバイバルナイフで首を斬り落としたときの、あの光景が。


 藤堂は目を開け、少女をじっと見据えた。


 ──水無瀬藍良。


 視線は真っ直ぐだが、その奥には動揺が滲んでいる。藤堂は少女の輪郭(りんかく)をなぞるように見たあと、にやりと笑った。


 俺は今、人殺しになる。

 最初の標的は、お前だ。


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