第30話 禁術と炎の審問官
それから五分後、藍良が千景に連れて来られたのは体育準備室だった。室内に足を踏み入れると、目の前でタマオが長い体を伸ばし、こちらを見据えていた。どうやら二人を待ち構えていたらしい。目が合った瞬間、タマオは嬉しげに舌をぴょろりと突き出す。
「藍良!千景!待っておったぞ!」
「タマオ~!」
藍良が思わず駆け寄ると、タマオはしゅるりと腕に巻きついてきた。藍良はタマオの鱗をそっと撫でながら、体育準備室を見回す。
バスケットやバレーで使うボールやマット、跳び箱──運動器具や備品が所狭しと押し込まれていて、空気は重苦しく、歩ける隙間はほんのわずかしかない。
「タマオ。藤堂先生に、何かあったの?」
藍良が聞くと、タマオはひゅるりと体を向き直し、声を落とした。
「驚かせてすまぬ。実は、今はそれなりに緊急事態なのじゃ」
「どういうこと?」
「それがじゃのォ……」
タマオは戸惑いを滲ませながらこう続けた。
「……藤堂が消えたのじゃ。ほんの十分ほど前に。忽然と」
「き、消えた?」
「そうじゃ。わしは天井裏から藤堂を見張っていた。だが、体育準備室まで追いかけたとき、影も形もなかったのじゃ。千景よ、どう思う?」
千景は思考を巡らせるように、室内を見渡す。
「……藤堂先生の邪気は、まだ微かに残ってるね」
「そうじゃな」
「藤堂先生は確かにここに来た。けど……そのあと、どういうわけか、姿を消してしまった……」
藍良は体育準備室の奥に駆け寄り、小窓の鍵を確かめる。ここは一階。窓から外へ出た可能性もあると思ったのだが、窓は閉ざされ、鍵にはうっすらと埃が積もっていた。しばらく、窓の鍵には誰も触れていないのだろう。
「鍵は閉まってる。窓から出たんじゃないみたい」
藍良の声に、千景は小さく頷く。
「これは、きっと……あれだ」
「あれって?」
「なんじゃ?」
「……空間転移」
聞き慣れない言葉に、藍良は目を見開く。すると……。
「く……空間転移じゃとおぉぉぉぉ!?」
タマオが天井を揺らすような声を上げ、藍良は思わず体をビクつかせた。
「な、なに!?空間転移って!?」
「空間をそっくりに模した“別の世界”に対象を放り込む禁術だよ。その世界はハリボテで建物や物は精巧に再現されてるんだけど、本物じゃない。この状況から察するに、ユエはそれを使ったみたいだね。……驚いたな。空間転移は死神界でも相当難易度が高い禁術。僕も初めて見る」
次の瞬間、千景は顔を伏せた。その目にはわずかな困惑が滲んでいる。
「ど、どうしたの?」
「きっと、ユエは今日藤堂先生を手にかけるつもりだ。僕たちに邪魔をさせないために、空間転移を使って別の場所に先生を隔離した。急がないとまずいな」
「しかし、どうやって見つけるのじゃ!空間転移など……わしとて詳しく知らぬ、禁術じゃぞ!」
「そうだよ!早くしないと……」
藍良とタマオが真剣な眼差しを向ける。重たい沈黙のあと、千景がぽつりと口を開いた。
「今から言うこと、怒らないで聞いてくれる?」
「え?」
訝しげに目を細める藍良。千景は視線を逸らすと、てへっと頭を掻きながら、苦笑いを浮かべた。
「どうしたらいいのか、僕にもわかんないや」
…………。
ズコーーーー!!
「はああぁぁぁ!!??どういうことそれぇっ!?」
「お主、審問官じゃろうが!なんたる体たらくじゃああ!」
同時に飛び交う藍良とタマオの怒号。千景は両手を振り回しながら慌てふためいた。
「お、落ち着いてよ。怒らないで聞いてくれる?ってさっき言ったでしょ?」
「だからって『うん♪怒らないよ。だから話してみて?』……とも言ってないでしょ!」
「千景、ふざけてる場合ではないぞ!早くせねば、ユエに先を越される!」
千景は藍良とタマオの迫力を受け止めるように一拍置くと、静かに続けた。
「死神審問官はみんな、専門の学校で術を徹底的に叩き込まれる。でもね、そもそも僕は空間転移に対抗する術なんて習ってないんだ」
「な、なんじゃと!?」
「理由は簡単。習ったところで無駄だから。僕の月詠の属性じゃ空間転移には対抗できない」
「属性……?」
千景は視線を落としながら、淡々と続ける。
「空間転移は、まず空間に入口を作る。それは『裂け目』のような線状で、空気とほぼ同化していると言われてるんだけど……それを僕は探せない。属性的に無理なんだ。僕の月詠の属性は“光”と“風”なんだけど、空間転移にはこの属性が効かない」
「まったくもって、ちんぷんかんぷんなんだけど」
「“光の月詠”は周囲を照らせるけど、裂け目は空間とほぼ同化しているからそれだけじゃ見つけられない。“風の月詠”は風を起こしたり、その力を使って浮遊することはできるけど、裂け目そのものを感知できないんだ」
千景の話を聞いて、藍良はがくりと肩を落とした。
このままでは藤堂がユエに殺される。竜崎や、これまでの被害者たちと同じように。
胸をかすめる悔しさと焦燥。
そのとき、千景がポン、と藍良の肩に触れた。
「落ち込まないで、藍良」
慰めるような声音。だが、その表情を見て藍良は首を傾げた。千景の顔が、どこか暗い影を帯びている。いつもの飄々とした彼とはまるで違ったのだ。
「空間転移に対抗できる属性はひとつだけある……そう聞いたことがある」
「ほ、ほんと!?なに!?」
「もったいぶらずにさっさと言う!」
そう畳み掛ける藍良とタマオに、千景は「えーっと」と小さく唸る。そして、何かを思い出すように天井を見上げたあと、ゆっくりと言葉を絞り出した。
「“炎の月詠”──炎は空気の流れを変えて、酸素を奪い、温度差を作る。空間転移の裂け目は揺らいで、一本の線となって浮き出てくる……だったはず」
思わぬ希望の光に、藍良は目を丸くする、だが、千景は「はああぁぁ」と深く息を吐き、うなだれた。
「……どうしたの?」
「ようやくわかった。最高審問官が別の審問官を派遣してきた理由」
言葉と同時に、千景の視線が体育準備室の扉へと向けられる。次の瞬間、扉は小さな音を立てて静かに開いた。そこに立っていたのは、薄茶色の髪を揺らし、鋭い眼光を放つ男──兼翔だった。
「け……兼翔!!??」
「どこをほっつき歩いておったのじゃ!お主は!?」
「最高審問官が俺をここへ派遣した理由を、体育館裏の芝生で寝そべりながら考えていた。こいつ……千景にできなくて俺にできることは何か、とな。特別答えが見つかったわけではなかったが、まさかこんな形で知ることになるとは」
兼翔の鋭い眼差しが千景に向けられる。千景はその視線を受け止めると、再び「はああぁぁ」とうんざりしたように重いため息を吐いた。どうやら、心底から彼の力を借りたくないらしい。
千景がここまで嫌がる理由。そして兼翔の言葉から察するに、彼こそが「炎の月詠」を操る審問官なのだろう。藍良は迷わず、兼翔に向かって声を張り上げた。
「兼翔!うなだれる千景は気にしないで!ちゃっちゃとやることやっちゃって!」
「頼む!今はお主が頼りじゃ!」
藍良とタマオの叫びに、兼翔はわずかに目を細める。そして、静かに右の掌を前に掲げた。その動作は儀式のように厳かで、周囲の空気が張りつめる。
──
我が身の影よ 炎となれ
この掌に 力を纏え
紅き炎よ 虚を喰らい
我が意に従い 焔となれ
──
すると、兼翔の掌から小さな炎の種が生まれた。線香花火のように揺れる火は、一見今にも消えてしまいそうなほど儚い。だが、炎は次第に明滅し、息を呑むほどの光を帯び始めた。揺らぎは渦となり、周囲の空気を──そして影を喰らいながら膨らんでいく。
その光景に藍良が目を丸くしたまさにそのとき、兼翔は勢いよく掌を振り抜いた。
突風が吹き抜けるような一瞬の衝撃。放たれた炎は、薄暗い体育準備室を一瞬、深紅に染め上げる。
「わっ……!」
反射的に目を閉じる藍良。数秒後、おそるおそる目を開けると、全身が淡い光に包まれていた。目の前に立つ千景が、光の月詠で藍良とタマオを守っていたのだ。だが、肝心の自分は守らなかったのか、艶やかな黒髪がところどころ焦げている。千景はそれを気にする素振りも見せず、ただただうなだれていた。
「ほおお~兼翔のヤツ、なかなかやりおるわい」
タマオが感嘆の声を洩らす。兼翔はちらりと千景を見たあと、何も言わずに前へ歩き出した。足取りは、まったく迷いがない。目的の場所を、すでに見据えているかのように。
「あったぞ」
藍良と千景が駆け寄ると、部屋の隅、高く積まれた跳び箱の奥に、それはあった。
わずか五センチほどの裂け目。そこから漏れ出る炎が、入口を淡く炙り続けている。炎は、まるで赤いジッパーのように空間を縫い留めていた。
兼翔は躊躇うことなく、炎のジッパーに手を差し入れ、ぐっと引き裂く。空間の奥に現れたのは、星ひとつない宇宙のような闇だった。どうやら、この先に藤堂はいるらしい。
兼翔は振り返ることなく闇の中へするりと体を滑らせる。
「ちょっ……ちょっと!兼翔!?」
すると、千景が藍良を唐突に抱き上げた。戸惑う藍良をよそに、千景は冷静に告げる。
「僕たちも行こう。藍良、しっかり僕に掴まってて」
「わしは藍良にしっかり掴まるう~」
タマオのちゃっかり発言が放たれた次の瞬間、千景もまた闇の中へ飛び込んだ。藍良を襲ったのは、ジェットコースターとは比べものにならない降下感。途端に胃が裏返るような嫌な感覚が藍良を襲う。
「お助けぇぇぇぇぇ!!!」
自分でも聞いたことがない、情けない声を上げながら、藍良はただただ、闇の中を滑り落ちていった。




