第1話 影立つ学園
雲ひとつない空に、初夏の青が眩しく広がる。
そよ風は草木をやさしく揺らし、あたたかな陽射しを浴びた新緑は、きらきらと輝きを放っていた。
そんな穏やかな天気とは裏腹に、とある高校の体育館裏の木陰では、重たい空気が漂っている。
そこに立つのは、二人の女子生徒。
ひとりは校内でも有名な不良、竜崎玲奈、もうひとりは成績優秀な優等生の田中あきだ。
竜崎は田中を睨みつけると、脅すように「ガンッ」と壁を蹴りつけた。
田中は顔を歪ませ、怯えながら口を開く。
「これ以上は、もう厳しいです。お金ないです」
「じゃあ盗めよ。これバラされてもいいわけ?」
そう言って、竜崎はスマホの画面を掲げる。画面には、田中が大人の男に肩を抱かれ、夜の街を歩く姿がはっきりと映っていた。
「学年一位の田中さんが、まさかパパ活なんてねえ。あんたのお父さん、代議士だったよね。バレたらヤバいんじゃない?」
田中は一瞬だけ懇願するように竜崎を見つめるが、彼女は表情ひとつ変えずに田中を見下した。田中は観念したように、ゆっくりと財布を取り出す。それを見た竜崎は、口元を歪めてほくそ笑んだ。
「いくら頭が良くてもねえ。あんたみたいなのを“クズ”って言うんだよ」
竜崎がそう言い放った、次の瞬間──。
バンッ──!
乾いた音が響く。
二人の間に割って入った水無瀬藍良が、勢いよくほうきを振り下ろしたのだ。
風が吹き荒れ、ボブまで伸びた藍良の茶髪がふわりと揺れる。右の耳には、小さなシルバーのピアスがひとつ。黒く澄んだ瞳は、真っ直ぐ竜崎を射抜いていた。その目には、媚びも恐れもない。炎のような強さが宿っている。
藍良は構えるようにほうきを握り直すと、竜崎を真っ向から睨みつけた。
「わたしから見たら、あんたの方がクズだけど」
「……あんた、A組の水無瀬?関係ないでしょ。邪魔すんな」
「そういうあんた、B組の竜崎だっけ。さっきのやり取り、録画しちゃった」
藍良はスマホを取り出し、再生中の動画を竜崎の前に突きつける。そこにはカツアゲの一部始終がしっかりと記録されていた。
「どうする?別に送っちゃってもいいんだよ。例えば……先生とか。あんたたしか、X大学の推薦決まってたよね?推薦担当にバレたら、ヤバいんじゃないの?」
この言葉に、竜崎は黙り込んだ。そして、藍良と田中を交互に睨みつけ、舌打ちをする。
「…このことバラしたら、殺すから」
竜崎はそう吐き捨てて、足早に去って行った。藍良はその背中を見送りながら、ふうっと小さく息を漏らす。
「あんたも、とんだ女に目をつけられちゃったね」
藍良は田中に向き直る。彼女は顔を伏せたまま、肩を微かに震わせていた。大人しめのショートヘアが風に揺れ、目元が見える。その目にはうっすらと涙が滲んでいた。藍良は思わず、彼女にそっと手を伸ばす。だが……。
──バンッ!
田中は藍良の手を勢いよく振り払い、駆け出していった。一瞬呆気に取られる藍良。肩を落としてため息をつく。
そのとき、とびきり大きな声が飛んだ。
「藍良!」
振り返ると、そこには木の影から藍良の親友──遠藤咲がぴょこっと顔を覗かせていた。
緩く巻いたセミロングの茶髪に、ちょっと濃いめのメイク。目元はぱっちりしていて、一瞬派手だけど、笑ったときの顔はとびきり無邪気だ。気取らないサバサバした性格の咲と、藍良は高校一年生の頃からずっと親友だった。
咲は焦った表情を浮かべながら、藍良に駆け寄る。
「今の、竜崎でしょ?超性格悪いって有名なんだから!関わっちゃダメだって!」
「だって、あんなに堂々とカツアゲしてんだもん」
「そうだけど!そういうときは先生を呼ぶの!あんたが先陣切っていく必要ないんだから!ほんっとにもう!」
咲はブツブツ文句を言いながら、藍良の手をグイっと引っ張る。
「ちょ、何!?どこ行くの?」
「買い物!今日付き合ってくれるって言ったじゃん。週末、うちの彼氏の誕生日だからプレゼント選ばなきゃ」
ほうきを握ったまま、ずるずると咲に引っ張られていく藍良。
その様子を、遠くから“影”が見つめていた。黒装束に身を包み、風にそよぐ白銀の髪が、陽を受けて煌めいている。
微笑を携えたその“影”は、藍良の背中をなぞるように視線で追うと、不気味に微笑み、静かに姿を消した。
☽ ☽ ☽
翌日の朝。教室内は普段と変わらず賑やかだった。
藍良は高校三年生で文系クラスに所属している。クラスは男女合わせて四十人ほど。高等部と中等部は校舎が同じ敷地内にあり、ほとんどの生徒は中等部からそのまま高等部に進学している。一方の藍良は、高等部から入学した少数派の外部生だった。
高校はさほど校則も厳しくなく、全体的にのびのびとした雰囲気が漂っている。たまに竜崎みたいな不良も混じってはいるものの、藍良は咲という親友もいて、比較的充実した高校生活を送っていた。
今はホームルーム前、皆それぞれの机を囲んで、クラスメイトと談笑している。ブレザーの制服は先週から夏仕様に変更。男子はノーネクタイ、女子は半袖のシャツ姿が多く、一気に夏の雰囲気だ。
そんな中、「バンッ!」と勢いよく教室のドアが開いた。姿を現したのは、血相を変えた咲だった。
「ちょ、ちょっと藍良!!」
息を切らしながら、藍良に駆け寄る咲。いつもと違う声のトーンに藍良は首を傾げた。
「なに、どうしたの?」
「ヤバい話、聞いちゃった!」
「えっ?」
咲は息を整えもせず、早口で畳みかける。
「昨日、B組の子が……自殺したって」
「……は?」
藍良の手がピクリと止まる。
「さっきトイレの前通ったとき、B組の女子がひそひそ話してて、聞いちゃったの!」
「どうして?ってか、誰が!?」
「わかんない。もしかしてあの子じゃない?昨日藍良が助けた、田中っていう…」
藍良の脳裏に、一瞬で昨日の出来事が蘇る。彼女の震える肩を思い出して、背筋に冷たいものが走った。
「まさか」
「でもあの子、ずっといじめられたらしいよ。あの竜崎に」
「でも——」
そう言いかけたそのとき──。
──ガラガラッ。
教室の扉が音を立てて開く。入ってきたのは担任の犬飼だった。
四十代の男性教諭で担当は国語。普段は物静かで、感情を大きく揺らすことは滅多にない。だが今日に限っては、様子が明らかにいつもと違っていた。眉間にはしわが寄り、表情は険しい。犬飼はクラス全員を見渡すと、低い声で静かにこう告げた。
「突然のことで、驚くだろうが……B組の竜崎玲奈が、昨晩亡くなったそうだ」
この言葉が発せられた瞬間、藍良と咲は同時に顔を見合わせる。
竜崎……?
死んだのは、あの不良の竜崎玲奈?
一瞬の静寂のあと、教室がざわつき始める。
「え、マジで?」「嘘でしょ?」「竜崎ってB組でいじめしてた……」
犬飼はすかさず、手を叩きながら語気を強める。
「静かに!」
その声に、再び全員が押し黙った。張り詰めた空気の中、犬飼はゆっくりと言葉を続ける。
「通夜は今晩、場所は……水無瀬の寺だ」
次の瞬間、全員の視線が一斉に藍良へ向いた。
「え……うちの寺!?」
「告別式も同じく、そちらで行われるそうだ。通夜は今晩六時から、告別式は明日土曜日の九時からだ。……できれば、顔を見せてやってくれ」
ざわ……ざわ……。
再びクラス中が小さくざわめく。
それと同時に、藍良は胸の中に冷たいものがじんわりと広がるのを感じていた。
それは、言葉にできない“違和感”。
クラスに響く小さなざわめきは、嫌な胸騒ぎとなって、藍良の心にいつまでも残り続けた。