第18話 月詠の審問官
ユエは口角をわずかに吊り上げ、言葉を続ける。
「ふふ……あの教師がどんな人間か。君が知ったら、さっきみたいな偉そうなセリフ、吐けないと思うよ」
「どういう意味?」
警戒しながら問う藍良に、ユエは今度こそ冷たく吐き捨てた。
「自分で調べるんだね。あの藤堂こそ、君が言う正真正銘のクズだよ」
ユエは、にたり、と冷たく笑う。
藤堂はやはり、とんでもないことをしているのだろう。なんとなく察してはいたが、だからといって黙っているわけにはいかない。藍良は息を吸い込み、真正面からユエを睨んだ。
「千景は絶対にあんたを捕まえる!これ以上、うちの学園で好き勝手させないから!」
言い切った藍良の声は、凛としていた。だが、ユエは芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「捕まえる?僕を?」
そう言うと、ユエは黒装束の懐から何かを取り出した。それを見て、藍良の心臓は凍りついた。ユエが手にしていたのは、あの「虚映ノ鏡」だったのだ。
藍良がこっそり鞄に忍ばせていた、神気を持つ者を映さない特殊な鏡。
ユエはそれを、まるで戦利品のように掲げて見せた。
「すごいねぇ、この鏡。神気を纏った存在が映らないなんて。ね、見てよ。僕もちゃんと映らない」
そう言いながら、ユエは鏡を自らに向けて傾ける。鏡には、確かにユエの姿は映っていなかった。藍良はその様子を見ながら、唖然とする。
「君が単純で、助かったよ」
「は?」
顔をしかめる藍良に、ユエは悪びれもせず続けた。
「何度も鞄からこれを出そうとしてたよね?バレバレだったよ。まずは、親友で試してた。そのうち、僕に突きつけるつもりだったんでしょ?そうはさせない」
言い終えると同時に、ユエは手の中の鏡を乱暴に床へと叩き落とした。
──パリンッ。
「やめっ……!」
藍良が叫ぶよりも早く、ユエは黒いブーツで、鏡を思いきり踏み砕いた。粉々になった欠片が、鈍く僅かに漏れる光を反射し、藍良の視界を眩しく照らす。目を見開く藍良を見て、ユエは薄く笑った。
「僕はね、絶対に捕まらないよ。さっきも言ったけど、こんなに邪気に満ちた居心地のいい場所、そうそうないからね。さて……君との会話にも飽きたし、そろそろ死んでもらおうかな」
ユエは藍良に向き直ると、にやりと笑った。冷徹な光を、その瞳に宿しながら。
「今の君、さっきより邪気を感じるよ。相当僕に腹が立ったのかな。いいんだよ、もっと怒ってくれても。その方が僕としても都合がいいから」
放たれた絶望的なひと言に、藍良は一気に青ざめる。ユエは、もうすぐ目の前まで迫っていた。藍良は床に尻をついたまま、じりじりと後退する。
「逃げ場なんて、どこにもないよ」
ユエの声が氷のように冷たく響く。すると──。
カランッ
ポケットから滑り落ちたスマホが、床に転がった。画面が点灯し、はっきりと表示される「録音中」の文字。ユエの目がそれを捉えた瞬間、空気が張り詰めた。
「……油断も隙もないね、君」
小さく吐き捨てるように言ったその刹那、ユエの体に大蛇が巻きついた。音もなく、ぬるりと絡みついた白蛇は彼の右手へ移動する。大蛇は牙をむき、大きな口を藍良へと向けた。
喉の奥から悲鳴が上がりそうになるのを必死に堪えながら、藍良は視線を彷徨わせた。
——そのときだった。
ユエの背後。距離にしておよそ十メートル。旧備品室の扉のその先──廊下にぼんやりと赤い光が浮かんでいるのが見えた。
あの感じ、間違いない。「非常ベル」の明かりだ。
藍良は床に落ちたスマホを手に取り、呼吸を整える。そして、藍良は思いきり非常ベルの赤いボタン目がけて、スマホをぶん投げた。
一秒にも満たない間。
藍良の脳裏に、これまでの情けない記録が蘇る。
体育の成績はずっと1。スポーツをやらせればいつも空回り。
この前の体育祭でも、足が攣って醜態を晒したばかりだ。
──それでも、お願い。今だけは!
「当たって!!」
気づけば、藍良は叫んでいた。
願いを乗せたスマホは、弧を描いて飛ぶ。そして──。
パリンッ…!……ガンッ!
扉のガラスが割れ、乾いた衝撃音が響く。スマホが非常ベルのボタンに、奇跡的に命中したのだ。
ウウウウウウウウ!!
けたたましい警報音が、空間を切り裂くように鳴り響く。
「ちっ……!」
ユエが舌打ちし、振り返ったまま怒りに満ちた目で藍良を睨む。右手を高く掲げたその腕に大蛇が絡みつき、さらに牙を剥き出しにする。
殺気が走った。
逃げられない。
叫んだって、助けなんて来るかわからない。
──それでも。
藍良は目をぎゅっと閉じ、最後の望みを込めて声を張り上げた。
「千景ぇぇぇっ!!」
次の瞬間、けたたましい非常ベルの音に混じって、風の音が耳をかすめた。藍良とユエは同時にカーテンを見る。窓ガラスは割れ、強風が吹き荒れていた。だが、どこかおかしい。風が強すぎる。気付けば、教室内の紙や筆記用具、なんだったらモップといった重たいものまで浮かんでいる。
そんな光景を見ながら、藍良は自分自身の異変に気付いた。身体が浮いている。地上から約一メートルくらいだろうか。ふわふわとバランスを保ちながら宙に浮かんでいるのだ。
「えっ……!?えええ……!!??」
戸惑ったのも束の間、ふわりと誰かが藍良を抱き寄せた。顔を上げたとき、黒髪が藍良の肌をそっと撫でる。
「やっと見つけた」
「ち……」
──千景。
藍良は半泣きになりながら、千景の首に両手を回し、しっかりと抱きついた。千景はユエを鋭く睨みつけながら、そのまま月詠を──月の力が込められた言葉を唱えた。
──
我が身の影よ 刃となれ
力を纏い 空を舞え
月の光よ 我が手に集い、
虚ろの者に 裁きを与えよ
──
次の瞬間、千景の周囲に風が渦巻き、そこから淡い光が立ち上る。光は先端鋭く、まるで刃のような形を成した。千景は右手を掲げると、そのまま勢いよく振り下ろす。まるで、光の刃に「ユエを貫け」と命じるかのように。
刹那、轟音とともに土埃が舞った。
藍良は千景にしがみついたまま、彼の顔を見上げる。その顔はいつになく鋭く、真っ直ぐ前を見据えていた。その真剣な眼差しに、藍良の頬が僅かに染まる。だがそのとき、千景の表情が曇った。
土埃が収まって、藍良はその理由がわかった。
ユエがいない。
光の刃をかいくぐり、ユエはこの場を逃れたのだ。
邪気に満ちた人間を襲い、己の目的を遂げるために。




