第15話 狙われた藍良
週明けの教室には、変わらぬ日常の空気が流れていた。一見は。
藍良の後方に座り、冷静に授業を受けるのは死神審問官の千景。そして、天井裏からは、神蛇であるタマオがしゅるりと身を潜めつつ、教師・藤堂の様子を密かに監視している。その様子はわたしと千景が確認することはできないが、千景の様子を窺う限り、とりあえず今のところ、大きな動きはないようだ。
藍良はふと、机の横のフックにかけた自分の鞄を見る。この中には、「虚映ノ鏡」がそっと仕舞われていた。チャンスがあれば、この鏡を使って黒標対象を探そうと思ったのだ。
だが、これが意外と難易度が高いことに、藍良と千景は気付いた。
この鏡に、藍良と千景は映らない。それを誰かに見られたら、それこそ大パニックになる。
つまりこの鏡は、皆の注意がこちらに向いていないときを見計らって、こっそり使わなければならないのだ。
そんなとき、軽快な声が飛んだ。
「ねぇ、藍良。鏡持ってない? アイメイク崩れてないか見たくて」
咲がふいに声をかけてきた。
絶好の機会だ。練習がてら、藍良は鏡を取り出す。
「うん、あるある~」
できるだけ自然な動作で、藍良はそっと咲に鏡を手渡す。
咲は鏡を覗き込むと、自分の目元を確かめる。鏡には、ちゃんと咲の顔が映っていた。
──よし、咲は問題なし。
虚映ノ鏡を覗き込みながらメイク直しをする咲を見て、藍良は考える。
本当は、この鏡を堂々と掲げながら廊下を歩いて回りたいぐらいだ。
だが、それはさすがに目立ちすぎる。
何より、本当に黒標対象が潜んでいるのなら、こちらの動きに気付かれてしまうだろう。
そんな中、チャンスは思わぬ形でやってきた。
体育の授業前、女子更衣室での着替えの時間。全員がロッカーや体操服の準備に気を取られている、ほんの数十秒の隙。
藍良は、周囲の動きを窺いながら、さりげなく鏡を手に取りすっと掲げた。誰にも気づかれないように、けれど女子全員が視界に入るような角度で。
鏡には、藍良を除いたすべての女子の姿がはっきりと映っていた。それを見て、藍良はホッと胸を撫で下ろす。とりあえず、黒標対象は藍良のクラスの女子にはいない。それがわかっただけでも、大きな進歩だ。
そうして始まった体育の授業。
今日はバスケットボール。
足の速い咲は、コートを縦横無尽に駆け回り、大活躍だった。
笛をくわえながら試合を見守るのは、体育教員の藤堂。
長身・爽やか・イケメン枠で、女子生徒の間でも人気が高い。
そんな藤堂が一体なぜ、用務員の男に金を渡し、マスターキーを受け取っていたのだろうか。この藤堂に、どんな秘密が……?
そう思った瞬間だった。
ドンッ!
ボールが思いきり藍良の顔面に直撃。
見事なスピンを描いて、藍良はバタンとコートに倒れ込んだ。
「ちょ…ちょっと!大丈夫!?」「藍良!!」
複数人の声が響いたと思った矢先、今度は黄色い歓声が湧き起こる。薄れゆく意識の中で、藍良は重たい瞼を一瞬だけ開けた。視界に飛び込んで来たのは、藍良を心配そうに抱きかかえる千景の横顔だった。
☽ ☽ ☽
──パチ。
目を開けた藍良に飛び込んで来たのは、真っ白な天井と蛍光灯。
どうやら、保健室のベッドの上のようだ。
「起きた?」
声の方を向くと、そこには文庫本を持った咲が心配そうに藍良を見つめている。倒れた自分を心配して、ずっとそばにいてくれたのだと藍良は瞬時に察した。
「……う、うん。ちょっと痛いけど」
すると、咲は唐突ににやりと笑った。
「な、なに?」
「もお〜藍良ったら!進展してるなら報告しなさいよって!」
「はぁ!?」
「千景君、藍良の彼氏なんでしょ?」
「はあああ!?!?なに言ってんの!?!?」
突然の発言に、思わず藍良の顔が盛大に歪む。
「え?違うの?だってさっき、倒れた藍良を千景君がすっ飛んで来て、お姫様抱っこだよ?あんなの、彼氏じゃなきゃ出来ないって!しかも顔、超真剣だったし!」
藍良は大きくため息をつき、枕に顔をうずめた。
「勘弁してよ、もう……」
そのとき、咲がちらりと腕時計を見た。
「やばっ、もう四限目始まっちゃう。教室戻らなきゃ」
「あ、わたしも……」と藍良が口を開いた瞬間、ぐらりと上半身が揺れた。
「わっ、大丈夫!?」
咲が慌てて肩を支える。藍良は眉をひそめながら、苦笑いを浮かべた。
「無理しちゃダメだって。あんた、さっきまで完全に失神してたんだから」
咲は軽く怒ったような口調で言いながらも、どこか心配そうに柔らかく笑う。
「四限目は休みな。ノート、あとで見せてあげるから」
「……ありがとう」
咲はひらひらと手を振って、軽やかに保健室を出ていった。
途端にしんっと静かになった室内。その空気を破るように、保健の先生、佐藤洋子がカーテンの向こうから顔を出した。
「大丈夫?水無瀬さん」
「あ、はい。まだちょっとクラクラしますけど……」
「じゃあ、これで冷やそうか」
佐藤は棚から冷えピタを取り出し、そっと藍良に手渡す。
受け取ったそれを額に貼ると、ひんやりとした感触がじわりと広がった。
──……気持ちいい~!
藍良は目を閉じ、深く息をついた。考えてみれば、昨日はしっかり眠れなかった。色々な考えが巡って、夜中に何度も起きてしまったのだ。こうして保健室で横になるのはサボっているようで気が引けるが、ゆっくり休めるチャンス。そう思って静かに目を閉じる。
そのとき、不意に「バタン」と扉の閉まる音が保健室に響いた。
佐藤先生が出ていったらしい。
空間を、静寂が包む。
身体の力が程よく抜けたところで、微かな雑音が響いた。
ざわざわ……ざわざわ……。
何かが擦るような音。
藍良は反射的に目を開け、天井を見上げながら視線を隅から隅まで動かす。だが、何もいない。
藍良は再びまぶたを閉じる。
数分後、意識が沈みかけたそのとき……。
——ざわ……ざわ……
また、さっきの音がした。
風の音とも違う、耳の奥をなぞるような、低く濁った不気味なざわめき。
藍良はゆっくりと目を開けた。
その瞬間、一瞬で目が覚めた。
目の前に、それはいた。
天井からぶら下がるようにして、藍良を食い入るように見る巨大な大蛇。
蛇の胴は直径二メートル近く、丸太のように太く、鱗は黒く艶めき、ところどころに瘤のような斑点が刻まれていた。
見慣れたタマオとはまったく異なる、見るからに禍々しい存在感。
藍良は震え、声を上げようとする。
だがそれよりも早く、蛇の顔が藍良の首元に迫った。
「ッ……!」
チクリ、と鋭い痛み。噛まれたような衝撃が肌に伝わる。
「がッ……!」
声にならない声が漏れたあと、全身に痺れが走った。
足の力が抜け、腕は重くなる。
意識はある。だが、自分の身体が思ったように動かせない。
淀んだ意識の中で、藍良は自分の身体に冷たい鱗の感触が巻きついてくるのを感じた。大蛇は生きた縄のように藍良に絡まると、ゆっくり天井裏へ引き上げていく。
指一本動かせないまま、藍良の視界はゆっくりと、闇に呑まれていった。




