第10話 神のしるし、蛇のしくじり
「……行った」
だが、千景が藍良から手を放した拍子に、藍良は膝から崩れ落ちる。千景は慌ててしゃがみ込むと、心配そうに藍良の顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫?!」
「……だ、大丈夫じゃないっつーの!」
顔を真っ赤にしながら藍良は地面にへたり込む。
「怪我はしとらんかの?」
黒い鱗の蛇が、まるで旧知の友のように親しげな声で語りかけてくる。その瞬間、藍良は「ヒッ」と短く悲鳴を上げ、反射的に千景の胸に顔を埋めた。千景は少しだけ目を見開き、あからさまに頬をぽっと赤らめる。
「も、もうなにがなんだか……」
藍良が混乱気味に呟くと、千景はふわりと笑って彼女の頭をポンポンと優しく撫でた。
「大丈夫、大丈夫。この子は敵じゃないよ」
「敵じゃないって……それにこの子ってなに!?」
「正真正銘、神蛇──つまり神獣だよ。高位の存在に仕える、神格を持った生き物。彼はその蛇バージョンってわけ」
誇らしげにとぐろを巻き、蛇がどやっとした様子で藍良を見上げる。くりくりした瞳。つやつやと光る鱗。ぴょこぴょこと出入りする小さな舌……。
じぃっと見つめる藍良の顔が、ふと和らいでいく。
呼吸も落ち着いてきて、不思議な感情が胸の奥に芽生えていた。
──今、私の胸、きゅるんっていった……
藍良は小さく頭を振って、千景を見る。
「ちょい待ち!あんた今、この蛇が神蛇って言ったけど、昨日この蛇、私の髪に邪気ってやつ付けてたんでしょ!?それって悪いもんなんじゃないの!?」
問い詰めるような目でにらみつける藍良。
千景は肩をすくめて、くすりと笑った。
「うん。悪いものだよ」
「じゃあ、やっぱり悪い蛇じゃん!」
ぷくっと頬を膨らませる藍良に、蛇はしゅるんととぐろを解き、申し訳なさそうにあとずさる。どこかシュンとして見えるその姿に、ちょっと罪悪感が芽生えてしまう藍良。
そんな空気を察して、千景は蛇に向かってやんわりと語りかけた。
「正直に謝ろう。君がしたことを」
「う、うむ……驚かせてしまったのう。すまなんだ。その、あれじゃ……ちょっとした出来心というか、本能というか……」
「はあ?」
藍良が眉をひそめると、蛇は急に饒舌になる。
「その、じゃな。お散歩中に、妙にひんやりとした心地よい空間、いわゆる浴室を見つけたんじゃ。ふと天井を見上げたら、ぽっかりと隙間が空いておってな?隙間があれば入る、それが蛇の性じゃろう?」
「……ふんふん?」
「で、そのまま休んでおったらのう……年頃の娘がふらりと入ってきてしまったわけじゃ。とはいえ、わしも礼節をわきまえた蛇。ここで無理に動けば驚かせてしまう。ならば、その場に留まり気配を消すのが、蛇としてのマナーではないかと!」
堂々と胸を張るように語る蛇。だが……。
──……なんか、すっごい口上つけてるけど、つまり……。
藍良は、顔を引きつらせながら尋ねる。
「まさかとは思うけど、わたしの裸が見たくて浴室に隠れてた……とかじゃないわよね?」
「そ、そんなことは……な、ないとも言い切れ……いや!いやいやいや!それは違う!た、たまたまじゃ!」
蛇はしどろもどろになり、首をふるふると振って必死に否定。
図星確定だ。すると千景がくすくす笑う。
「まあ、スケベ心も邪気の一種だからね」
「コラーッ!千景!余計なことを申すでないわ!!わしの品格が地に落ちるじゃろう!!」
「もう落ちてるっつの!」
藍良の冷たいツッコミが、さっくりと蛇の胸に刺さる。
藍良は鋭い目つきで蛇を睨みつけ、むぎゅっと掴み上げた。
「ぎゃっ、あいたたたたっ!」
「反省しろ、この変態蛇ジジイ!」
「じ、ジジイではないわい!わしはまだピチピチの九十五歳じゃ!」
「ジジイじゃん!!」
ブンブンと勢いよく蛇を振り回す藍良。
ぐるぐる回された蛇は、ついに目を回したのか、裏返った声で叫んだ。
「わ、わしにはちゃんと名前もあるのじゃ〜!」
ぴたっと手を止める藍良。ぐにゃりとした蛇の顔をじっと見つめながら、にやり。
「へぇ〜、その顔で名前ねぇ?」
すると、千景がそっと口を挟む。
「彼の名前は『タマオ』。もともと死神界の高官に仕えてた神蛇なんだよ。その高官が転生しちゃって、今は休職中。ひと休みしようと思って人間界に遊びに来たみたい」
「……って!さらっと『温泉旅行に来ました~~♪』みたいなノリで言うな!」
すると、タマオが頭をふらふらさせながら藍良に向き直る。
「すまなかったの、藍良。この通りじゃ」
ぺこり、ぺこり。
タマオは頭を何度も下げる。どうやら反省しているふりではなく、ちゃんと心から謝っているらしい。
藍良は渋々ながらもタマオを見つめ、小さく笑う。そのとき、あることに気付いた。昨日も見た、タマオに刻まれたある模様だ。
「ねえ、これ……模様?」
タマオの艶やかな黒い鱗に、白く光るひとつの印。それが、まるで夜空に浮かぶ三日月のようだったのだ。
「これは?」と藍良が指をさすと、千景が優しく答えた。
「月印だよ」
千景はタマオの鱗にそっと指を触れた。
するとその白い模様が、わずかに淡く、呼吸するように光った。
「これは神蛇である証なんだ。同じ印、僕にもあるよ。見て?」
そう言って千景は制服の襟元をくいと下げ、自分のうなじを見せる。そこには、タマオと同じ小さな三日月の印が、白く刻まれていた。
「これはね、死神界で月の契約を結んだ者に現れる印。一定以上の位階を持つ者だけが持てる証なんだ。僕たちは月から力を借りて、昨日みたいな術を使うことができるんだよ。昨日僕がやったのは月詠みっていうんだけど」
「へぇ……」
藍良は自然と目を見張り、二人の印を交互に見つめた。
昨日、千景が浴室で唱えていた、あの不思議な呪文。あれは、月の力を借りた月詠みというのか。
するとタマオが、藍良の首に巻きつきながら、くるんと体を回す。そして千景の方へ、ゆっくりと目を向けた。
「ところで千景よ。……お主、あの男を怪しんでおるのか?」
「あの男って、藤堂先生のこと?」
藍良の脳裏に、さっき目撃した光景が蘇る。
藤堂と用務員の男のやりとり。
あの封筒、現金。そして……何かを受け取った藤堂の手。
「……お金、もらってたよね。藤堂先生。それに、何か小さな物も受け取ってた」
すると千景が静かに口を開く。
「あれは鍵だよ。封筒と引き換えに、あの男から受け取っていたのは」
「鍵……?」
「タグが付いてた。マスターキーって書いてあったよ。この学園内の教室、職員室、倉庫、倉庫裏、機械室……あらゆる場所に自由に出入りできる鍵じゃないかな」
ギョッとする藍良。
「ちょ、ちょっと待って……よくそんな小さな文字見えたね!?」
「ふふ。死神は目がいいんだ。特に僕は、審問官の中でも視力検査は毎回トップ。見直した?」
胸を張って笑う千景。
だが、その表情はすぐに引き締まり、瞳に警戒の色が戻る。
「これは僕の仮説だけど──」
千景はそう言って、藍良とタマオを見据えた。
「藤堂先生がわざわざマスターキーを手に入れた理由は、『いつでも』『どこでも』『すぐに』複数の場所に入る必要があったから。つまり、入るべき場所を特定できていないんじゃないかな。もしかしたら藤堂先生は、この学園のどこかにある『なにか』を探すために、マスターキーを手に入れたのかもしれないね」




