第100話 虚映ノ鏡は真を映さず
自分を見つめる千景の眼差しを受けて、藍良は確信した。真白がこの鏡を持って来るように言った、その本当の意味を。そして千景が、虚映ノ鏡を自分に託してくれた理由を。
一斉に集まる視線に、藍良の足は思わずすくんだ。体は小さく震え、指先からじわじわと冷えていくのがわかる。
だが、そんな藍良に向けて、千景は柔らかく微笑んだ。
「大丈夫。いつも通りの藍良で」
そう言って、千景は鏡を握る藍良の手を、ぎゅっと包み込んだ。
「僕もいる。タマオも、兼翔も。それに……真白さんも」
藍良はそっと首元に視線を落とした。そこには、くりくりと目を輝かせたタマオが、真っ直ぐこちらを見つめている。そして兼翔も。彼がいなければ、自分はここに立つことすらできなかっただろう。
藍良はすくんだ足をポンっと軽く叩いた。
それから顔を上げ、めいっぱいの笑顔を向ける。
「いってきます」
自然と、そんな言葉がこぼれた。
藍良は胸元をぎゅっと掴むと、一歩、また一歩と前へ進む。
そのとき、カグヤがゆっくりと藍良へと向き直った。やがてその視線は、藍良の手にある鏡へと落ちていく。
鏡の力を見極めようとするように、カグヤは目を細め、虚映ノ鏡をじっと見据える。
この鏡が何なのか、どんな力を秘めているのか、知らないのだろう。
すると、審護席でうなだれていた蘭丸が、むくりと顔を上げ、声を絞り出した。
「水無瀬さん……それは?その鏡は、いったい何なのです?」
藍良は目を泳がせながら、蘭丸に向かって声を張り上げる。
「えっと、これは……うちに伝わる、由緒ある鏡で……その……とにかく凄いの!」
説明になっているようで、まるでなっていない。
しどろもどろに言葉を続ける藍良に、会場の視線が一斉に突き刺さる。ただでさえ張り詰めた空気の中。緊張で、声がどうしてもうわずってしまう。
すると、蘭丸はきょとんと首を傾げた。
「凄いとは……どういう意味ですか?見たところ、割れているようですが」
「えっと……それはその……ユエが割ったからで……とにかく、この鏡はほんと、すっごくて……」
あまりに頼りない受け答えに、蘭丸はしばしの間のあと、くすりと笑った。
そして次の瞬間、突然ぴしりと背筋を伸ばす。
藍良はギョッとした。先ほどまで半べそをかいていた蘭丸が、急に生気を取り戻した。まるで、目の前の相手なら、いくらでも言い負かせるとでもいうように。
蘭丸は小さく息を吐くと、鼻で笑った。
「水無瀬さん。ここは特別最高審問会です。あなたの家宝自慢をする場ではありませんよ」
「そんなこと、わかってるってば」
「では、その鏡が何だというのです?」
「だからそれを今から言おうと……」
「見たところ、随分品のない落書きが施されているようですが……」
この言葉が放たれた瞬間、藍良の中で何かが切れた。
「落書きじゃないっての!!」
──静寂。
藍良の怒号に、蘭丸はぴたりと口をつぐんだ。しまった、と思った。つい、言葉が強くなってしまった。
小さく咳払いをしてから、藍良は胸元に鏡を引き寄せ、ゆっくりと口を開く。
「この絵は、小さい頃わたしが描いたもの。縁に沿って描かれた線は、お母さんが描いたもの。わたしにとって大切な鏡なの。だから……品がない、なんて言わないで」
蘭丸は目を大きく見開いた。
やがてゆっくりと、頭を下げる。
「……大変、失礼いたしました」
藍良はひとつ瞬きをして、周囲の死神たちを見渡した。
「この鏡は、うちの寺がまだ神社だったころから、代々祈りを捧げてきた家宝です。ご先祖様たちをずっと守り続けてきた、大切な鏡でもあります」
藍良は一度息を整え、さらに続ける。
「うちの先祖は元々、霊感が強くて悪霊退治をしていたそうです。でも、退治すればするほど、恨みを買うことも多かった。だから、自分たちの身を守るために、この鏡を使っていたんです」
「その鏡で……どうやって?」
蘭丸の問いに、藍良は鏡を高らかに掲げた。
「この鏡は、神気を宿す者を映さない。つまり、人間以外の者は映さない」
藍良の声が、張り詰めた会場に真っ直ぐ響く。
「鏡そのものはユエに割られてしまったけど……まだ一片だけ、その力が残ってる」
このひと言に、カグヤの表情がはっきりと強張った。この鏡はなぜ、今この場に持ち出されたのか、その意味を完全に悟ったのだ。
藍良はカグヤを見据え、はっきりと言い放つ。
「虚映ノ鏡は真を映さず……あんたが本当に人間なら、この鏡に映る。けど、人間じゃなくてカグヤなら……あんたの姿は映らない!」
すると、カグヤの身体からぞわりと殺気のようなものが立ちのぼった。
けれど、藍良は怯まない。押し負けまいと足に力を込め、しっかりと踏み締める。
そして、虚映ノ鏡を、カグヤに向けてかざした。
次の瞬間、鏡面を見た蘭丸と幻道が、ほとんど同時に目を見開いた。藍良もまた、息を呑みながら鏡を見る。
そこに、カグヤの姿はなかった。
彼女が神気を宿した存在であることを、この鏡が今証明したのだ。
決定的な証明を突きつけられ、カグヤはがくりとうなだれた。
藍良はようやく張り詰めていた息を吐き出し、胸を撫で下ろす。
追い詰めた。
ちゃんと、自分の手で。
安堵が込み上げ、藍良はほっと笑みを浮かべながら、ゆっくりと振り返る。
「千景!わたし……」
だが、振り向いた藍良の目に飛び込んできたのは、すでにこちらへ向かって駆け出している千景と兼翔の姿だった。その真剣な表情に、藍良は思わず息を止める。
千景は険しい顔のまま、手を伸ばして叫んだ。
「タマオ!藍良を!」
次の瞬間、首に巻きついていたタマオは、口を開いて鋭い光線を放った。光は空中でしなやかに弧を描き、藍良を守るように広がっていく。
その直後、轟音と土埃が舞い上がった。
タマオではない。
目の前にいたカグヤが、藍良に向かって月詠を放ったのだ。
藍良は反射的に目を閉じる。すると、背後から千景の声が鋭く飛んだ。
──
我が身の影よ 刃となれ
力を纏い 空を舞え
月の光よ 我が手に集い
虚ろの者に 裁きを与えよ
──
「これって、千景の……」
──光の月詠。
藍良の後方から、無数の光の刃が一斉に放たれる。
それと同時に響いた高らかな笑い声。それは、かつて花倉だった女の声だった。
彼女は千景の攻撃を軽やかにかわすと、すでに自らがいた審護席の位置まで後退していた。
その瞬間、小さな舌打ちが響く。兼翔だ。
彼は右手を真っ直ぐカグヤに掲げると、迷いなく炎の月詠を唱え始める。
──
我が身の影よ 炎となれ
この掌に 力を纏え
紅き炎よ 虚を喰らい
我が意に従い 焔となれ
──
兼翔の掌に灯った炎は、まるで松明のように揺らめきながら、周囲の空気を喰らって膨れ上がっていく。やがて炎は焔へと化し、一直線にカグヤへと放たれた。
だが、カグヤは微動だにしない。
ただ静かに目を閉じて、低く詠う。
──
我が身の影よ 氷刃となれ
冷たき力を この手に纏え
白銀の氷よ 虚を裂いて
我が意に従い 舞い踊れ
──
次の瞬間、カグヤの身体から放たれた氷の刃が、兼翔の炎を相殺した。そしてそのまま軌道を変え、兼翔へ襲い掛かる。
前方や後方……斜め上から、まるで舞うように、そして鋭く。
「兼翔!!」
藍良が叫ぶのと、土埃が激しく舞い上がるのは、ほとんど同時だった。
命中だ。
カグヤはまるで勝ち誇るかのように笑う。その笑みに、藍良はぞっとした。全身から力が抜け、その場にへたり込みそうになる。だが……。
「大丈夫じゃ、藍良。前を見るんじゃ」
タマオの声に藍良は顔を上げる。土埃がゆっくりと晴れていく。
それに合わせて、兼翔の姿が少しずつ露わになる。それを見た瞬間、藍良は息を呑み、逆にカグヤは苛立たしげに舌打ちをした。
兼翔の身体を、光の膜が包み込むように守っていたのだ。
「千景……」
藍良は小さく呟いた。
千景は不敵に笑うと、前を見据えたまま背後にいる兼翔に言葉を投げる。
「兼翔、油断しないで。カグヤの月詠は氷と闇。転生して力はほとんどないと思ってたけど、そこそこやるみたいだ」
「まったく……氷だと?聞いたことないぞ。そんな月詠は」
兼翔は立ち上がり、自らのローブについた埃を軽く手で払った。
そして、周囲を見渡しながら、低く呟く。
「それにどうやら……今でもカグヤが使えるのは、月詠だけではないらしいな」
藍良も改めて、周囲を見渡す。
そこでようやく、異変に気が付いた。
先ほどまで前方にいた幻道が、いない。
それどころか、この場にいた死神審問官たちの姿も消えている。
内装そのものは変わらないのに、この空間だけがまるごと“別物”になっているのだ。
藍良の脳裏に、ひとつの記憶が蘇る。
それは、以前体育教師である藤堂を追っていたときのこと。
彼は黒標対象ユエによって、空間をそっくりに模した“別世界”に放り込まれた。
つまりこれは、ユエの禁術──空間転移。
「ユエの禁術で挑むか、カグヤよ」
タマオが静かに言う。カグヤは不敵に笑いながら千景を睨みつけた。
「まずはお前が持っているユエを……返してもらうよ。千景」




