プロローグ
月影の、星さえ黙る闇の中──。
生ぬるい夜風がそっと肌を撫でていく。
青年“ユエ”は、肩まで伸びた白銀の髪を揺らしながら、雑居ビルの屋上でひとりの女性の手を握っていた。二人は無言のまま、屋上の縁へとゆっくり歩を進めていく。
ここは十階。
縁から見下ろした先に広がるのは、せわしなく交差するネオンやヘッドライト。車のクラクションや人々のざわめきが、微かに耳に届く。
その光景をしばらく見ていた女性は、顔をひきつらせた。肩が小さく震え、それは次第に大きくなる。ついに女性は立っていられず、その場にうずくまった。
「どうしたの?怖いの?」
そっと問いかけるユエ。その声は、とても穏やかではあったが、氷のように静かだった。
女性が震えながら頷くと、ユエは安心させるかのように柔らかく肩に触れ、微笑んだ。
「怖がることないよ。前を見て」
そう促された女性は、ゆっくりと前を向いた。すると、女性の目の間に、白い翼を広げた天使が浮かんでいた。天使は白装束に身を包み、少年のようなあどけない姿で、女性に向かってふわりと微笑むと、そっと両手を差し出した。
女性はうっとりしたような眼差しで天使を見つめた。そして、その怪しい魅力に引き寄せられるように手を伸ばす。だが、女性の手が天使の手に触れる寸前、ふっと天使が消えた。
次の瞬間、女性の目の前を空虚な闇が覆う。女性はそのまま、恐怖を叫ぶ間もなく、屋上から底のない絶望へ、風を裂くように落ちていった。
──ガンッ!
鈍く響く衝突音。
「きゃあああ!」という叫び声が闇に反響する。
屋上の縁に立つユエは、それを見届けたあと、満足げに微笑みながらゆっくりと両手を空にかざした。
上空には、曇り空から微かに月の光が差し込んでいた。
闇の中、その一点の輝きに向かって、ユエは神に祈る巫女のように囁く。
「今宵も、罪人の魂があなたの元へ還りました。願わくば、あなたが再び力を示さんことを──」