ティースラの宵闇
空一面に無数の厚い雲の塊が、斑になって広がっている。鉛色のその輪郭を赤光が縁取り、その様相はさながら巨大な鱗を持つ大蛇がのたくっているようであった。
夕暮れの町は陰鬱で、行き交う人々はうす汚れ、疲れた足取りで家路を急ぐ。頭の上に粗末な野菜の入った籠を載せた、歯の抜けた老婆がこちらを睨み、面倒そうに避けて行った。
建て増しを重ね傾いた古い家屋が密集して並び立ち、大通りには大小の石が敷き詰められ、石畳としての最低限の機能を果たしている。
十字路の角には、気の早い夜鷹が一人、草臥れた薄衣を身に着けて男達に色目を送っている。
「おお、これは立派な戦士様。どうかこの、足の効かぬ哀れな男にお恵みを」
物乞いが足を引き摺りながら目敏く近寄って来て、芝居掛かった口調で言いながら手を擦り合わせる。
見紛うはずもない。そこはディーンの故郷、ザカーテ王国ティースラ公爵領であった。
「……どうしたことだ。俺は、戻って来たのか?」
ディーンは目を見開き懐かしい街並みを見回しながら、信じられぬというように独り言ちた。
「せ、戦士様?」
呆然としているディーンの顔を見上げ、物乞いが恐る恐る声を掛ける。
「……おい、今日は何日だ。いや、それより、エスメラルダ姫はどうなった」
先程までの奇妙な体験が、はたして夢であったのか現実であったのかを確認するため、ディーンは男の肩を乱暴に掴み、勢い込んで尋ねた。
「は、はあ、ひ、日にちでございますか? 翡翠の月の二の杯でございます」
物乞いは怯えた目を大男に向け、震えながら答えた。
日付はディーンがあの世界で過ごしたのと同じだけ経過している。はたと気付き、胸元を探ると、青い石の付いた首飾りがぶら下がっていた。どうやら夢ではなく、本当にディーンは他の世界に移動し、戻って来たようであった。
「姫様は、なんでもバルザーンから救い出された後で、英雄様と駆け落ちなさったと、もっぱらの噂でございます。あの英雄ディーンと」
「なんだと!? 姫は城に戻っていないのか!?」
ディーンは愕然とした。あの後の事は盗賊ジュードが上手くやってくれているものと思っていたが、そうではないらしい。
ジュードが姫を攫い、人買いにでも売りつけたのであろうか? いや、あの小悪党にそんな大それたことはできまい。するとやはり、あの後何事かに巻き込まれたのやも知れぬ。
「すまんな、礼を言う」
ディーンは革のベルトに忍ばせた巾着から銅貨を取り出し、物乞いに渡すと裏路地へ駆けて行った。
後に残された物乞いの男は唖然としてそれを見送り、しばらくしてから手の中の戦利品を確認する。
「ちょ、ちょっと戦士様! これ、贋金じゃありませんか! ……クソ、馬鹿にしやがって!」
見慣れぬ紋様の銅貨を握り締め、男は道端に置かれた木の樽を蹴りつけた。
迷路のような裏通りの中でも特に物騒な一帯の、最も影の濃い一角に、黒猫の印の入った看板を掲げた、心ぶれた酒場がある。
ディーンはその粗末な木の扉を押し開けて店内へ進んだ。
狭く暗い店のカウンターで、痩せた初老の店主が来客を無愛想に眺めている。
ディーンは店主に向けて人差し指を鉤の形に伸ばした符牒を送ると、そのまま奥の扉へ向かった。
ぎしぎしと軋む階段を降りると樽の並んだ酒倉があった。壁際に並んだ樽の一つが隠し扉になっていて、そこを潜り抜けるとランタンの置かれた細い通路と、その先には木のカウンターがある。
この場所こそ、ティースラの裏社会を牛耳る盗賊ギルドであった。
「ディーン!? あんた一体何やってんのさ?」
カウンターに気怠そうに頬杖をついていた女が驚いて立ち上がり、声をかけてきた。
体に密着した、黒く染めた薄手の革鎧に、革手袋。腰に提げた小剣。女は盗賊だった。
「ダリア、『木突つき』はいるか? 奴に会いたい」
ディーンは答えず、用件のみを伝えた。
「不味い事になってるよ。人目に触れたくない。入りな」
女盗賊はカウンターの脇の小さな扉を開け、ディーンを招き入れた。
控室のような小部屋に這入り、扉を閉めるなり、ダリアはディーンにしなだれかかった。
「良かった、ディーン。死んだとばっかり」
目を閉じて分厚い胸板に頬擦りをする女盗賊の細い身体を、ディーンの太い腕が抱き締めた。
「妙な事に巻き込まれてしまってな。心配をかけた」
「……一体、どうしたっていうのさ。バルザーンの奴は仕留めたんだろう?」
ダリアの青い瞳がディーンを見上げている。
「ああ。だがその後、姫と『木突つき』と逸れてしまってな。奴が姫様を王宮に送ってくれているものだと思っていたんだが」
転移の事を話せば彼女は混乱するだけだろう。それを省いたディーンの説明に、ダリアは怪訝そうな表情を浮かべた。
「妙だね。あいつの話では、目の前であんたと姫様が煙のように消えちまったってことだったんだけど」
「……なんだと!? 確かにそれは不味いな」
最悪の事態と言ってよかった。エスメラルダ姫はディーンと共に転移させられたのだ。おそらく、ディーンと同じあの世界に。
「そんな話、もちろん王様が納得するはずもなくてさ。『木突つき』はお尋ね者、勇士ディーンは姫様を拐かした大罪人ってことになってる。王都からも兵隊が大勢来て、血眼であんたを探してるよ」
状況を鑑みれば当然の展開だ。
とはいえ、今はどうする事も出来ない。あの世界にまた転移して、エスメラルダ姫を連れて戻って来るにも、転移の方法など知る由もない。
「……兎に角、『木突つき』に会ってみよう。奴はアジトに?」
「ええ、綿花商の屋敷。まだ人目がある。移動するのは日が落ちてからの方が良いわ」
ダリアが心配そうにディーンの頬に手を伸ばす。ディーンはそこで女盗賊と共に僅かな時間を過ごした。
ティースラ商業区の様々な商店や問屋、組合が裏で盗賊ギルドと繋がっていることは、子供でも知っている公然の秘密であった。盗賊ギルドは彼らから汚れ仕事や荒事を請け合い、見返りとして資金や拠点の提供を受けている。
綿花商の屋敷の地下のアジトも、そうした拠点の一つであった。
倉庫の床の隠し扉から入ったその部屋には人影がなかった。火口箱から火打ち石を取り出しランプに火を灯すと、室内に獣油の燃える臭いが充満する。
その瞬間背後に突然人の気配がして、ディーンの喉元に短剣が突き付けられた。
「……旦那! 旦那じゃねぇか!」
盗賊は驚きの声を上げ、短剣をゆっくりと下ろした。
「ジュード。生きてたか」
ディーンは笑って、盗賊の左胸に突き付けた短剣を下ろすと、ダリアから貰い受けた盗賊の外套の頭巾を外した。
「馬鹿野郎、どこで道草食ってやがったんだよ!!」
無精髭の盗賊も笑みを浮かべ、存在を確かめるようにディーンの二の腕を二、三度叩いた。
「それが、俺にもさっぱりでな。自分でも頭がいかれたのかと不安になる。お前に言っても信じて貰えるとは思えないんだが……」
そう前置きをして、ディーンはこれまでの事を全てジュードに話した。
盗賊は腕を組み、黙ってその話を聞いていた。やがてディーンが盗賊ギルドを訪ねた所まですっかり話し合えると、片方の眉を上げ、難しい顔をしてディーンをちらりと覗いた。
「寝ぼけた事言ってんじゃねえ!! ……と、ぶん殴りたくなる所だわな、旦那と姫さんが目の前から消えた、あれを見てなけりゃあ」
ジュードはそう言いながら、懐から煙管を取り出すと、ランプの火を器用に移して美味そうに吸った。
「話の通りなら、そうだな。姫さんも旦那と同じ所に呼ばれて行ったのかも知れねえ。だとすれば旦那と同じようにひょっこり戻ってくる可能性もあるのか」
「だが、それをただ待っているわけにもいくまい」
「そりゃそうだ。その前に兵隊にとっ捕まって、胴体と首がお別れする方に賭けるね、俺なら」
ジュードは眠たそうな目をしながら、鼻から煙を吹き出した。
「まあ、こういう呪いの類なら、何か分かるかもしれない奴には心当たりが無いでもないよな、俺たちは」
それは酷く曖昧に濁した物言いで、ジュードの本意ではない事が充分に伝わった。そしてそれはディーンの方も同様であった。
「まさか、あの爺か」
思い切り渋い顔をする。
「……しっ!」
その時、ディーンの言葉を制し、突然ジュードが隠し扉に忍び寄った。
音もなく梯子を登り、ほんの僅かに落とし戸を開けて、隙間から様子を伺う。
「旦那、しくじったな。ありゃ多分ザカーテの兵隊だぜ」
梯子を降りて来たジュードが壁のランプを手に取り、言った。
「裏口からずらかろう。こっちだ!」
部屋の奥の棚をずらすと、這いつくばってようやく通れるほどの通路が現れる。埃まみれになりながら通り抜けると、建物の裏手の川縁の土手に出た。
「いた!! 兵隊さん、こっちだよ!!」
駆け出したディーンが振り返って見ると、女盗賊が衛兵に大声で知らせている。
ディーンは苦笑した。
「おや、おやおや、これはこれは、誰かと思えば、ディーン様! 英雄ディーン、ならず者ディーン! よくぞご無事で、くたばり損ない! 歓迎いたします、とっとと消え失せな!」
森の小径。腰程の身長の木の人形が、カタカタと関節を不自然な方向に動かしながらぺこりとお辞儀をした。
「喧しい。さっさと主人の所に案内しろ、木偶人形」
ディーンは不機嫌そうにその人形を蹴り飛ばした。
人形は見えない糸で吊られているかのように、重力を無視した動きでカタカタと立ち上がる。
「もちろんでございます、貴様のような奴は、ご主人様もお喜びに、糞爺は面も見たくねえとさ!」
支離滅裂に喋りながら、人形は奇妙な動きで歩き始める。
「さっさと歩け、がらくた」
「ああ、嫌だ嫌だ。頭がおかしくなっちまうよ」
ディーンとジュードはうんざりした表情でその後に続いた。
『森の魔術師』と呼ばれる老人が、ティースラ郊外の森の中に住んでいる。
怪しげな魔術を用い不幸を齎すだとか、人々を攫い蛙にしてしまうといった悪い噂が真しやかに囁かれており、好き好んで老人を訪ねる酔狂な者は殆どいない。
ディーンは以前、バルザーンの手下の蛇女を倒すための策を授かるため、この森の館を訪れた事があった。
「それではこちらでお待ちを、糞野郎ども」
人形はそう言い残し館の中に這入って行く。暫くの後、
「なんだと、ディーンだと? デルベッキオ、この馬鹿者が! 何だってあんなウドの大木の朴念仁を連れて来る!? どうせまた儂の玩具でもくすねに来たんだろうよ、追い返せ、追い返せ、馬鹿者が!」
老人の甲高い怒鳴り声が中から聞こえてくる。
ディーンとジュードは顔を見合わせると、ため息をつき館の中へと這入って行った。
廊下の壁には棘のある蔦が這い回り、所々に毒々しい紫色の実が生っている。その実には大きな一つ目と裂けた口がついており、奇妙な言葉でぺちゃくちゃと噂話をしている。猫ほどの大きさの赤い斑模様の茸が、列を作って行進している。
天井には鈴蘭の花が幾つも咲いていて、そこから放たれる光が廊下を照らしていた。
居間に出ると、幾つもの奇怪な調度品の犇く部屋で、青いゆったりとしたローブに身を包んだ老爺が、手に持った杖で先ほどの人形を殴りつけている。
「爺、久しいな。遊びに来てやったぞ」
「おお、これはこれは、人攫いのディーン! よくぞ無事で戻った、恥知らずよ! そっちの小汚い盗賊も生きていたのか。どちらでも良いが。まあ、残念ながら石になっていない所を見るに、蛇女は首尾よく退治出来たようだな」
どうやら町の噂はこの老人にまで届いているようであった。
「世話になったな。お陰でバルザーンの野郎も片付けることが出来た」
「それで肝心の姫君はどうした? 間抜けな英雄様もいたもんだ。なあ、デルベッキオ」
「ご主人様、客人に失礼でございますよ、この死に損ないめ!」
返事をした人形を、再び老人の杖が打つ。
「それが、厄介な事になっていてな」
「ああ、待て待て待て、その品の無い口を閉じろ! 分かっておる。儂には全て分かっておるのだ。お主が何も言わずともな。だが、生憎今は立て込んでおる。また日を改めて……」
老人の言葉を遮って、ディーンは音を立てて硝子瓶をテーブルに置いた。
「おお、葡萄酒、それもフィデル地方産の上物ときた! 味のわからぬ蛮族には過ぎた品だ!」
「取り込み中だったか? 残念だ、それではこいつは俺と『木突つき』で片付けてしまうか」
「馬鹿な事を言うな。多少酒が入っていたほうが、口の滑りも、呪文の出も良くなろうというもの。なあ、英雄ディーンよ、さすれば助言の一つや二つは口から零れるかもしれんぞ? 分かったら早くそれをこちらに寄越さんか、鈍間」
老人は舌舐めずりをしながら酒瓶にわなわなと手を伸ばしている。ディーンが苦笑いを浮かべて葡萄酒を渡してやると、老人はそれを引ったくり、大事そうに懐に抱え込んだ。
「……それで、お前は一体何を知っている。何か手立てはあるか?」
「だから言っておるだろうに。儂には全てわかっておる……だが、まあいい、手土産に免じて、ちと真面目に見てやるか。おい、デルベッキオ、儂の眼鏡は何処だ」
「ご主人様、眼鏡はもう掛けているじゃありませんか、耄碌しやがって」
「おお、そうか、そうか。どれどれ、その不細工な仏頂面を見せてみい」
老人はそう言ってディーンの頭を掴み、上目遣いにじっと見詰めた。
「……これは面白い! おい、デルベッキオ、この間抜け面を見てみろ、この凶相を! 混沌と秩序、生と死、戦乱と和平がお互いに押し合い、引き合っておる! 沼底の屁泥が、水面の水鳥を引き摺り込むようにな!」
老人は手を振るわせながら興奮して捲し立てた。口の端に唾が溜まり、泡になっている。
「成程、麗しの姫君はこれに巻き込まれたのか。だとすれば、この薄鈍が迎えに行ってやらねば戻って来れまい」
老人はぶつぶつと呟いている。
「やはり、姫はあちら側にいるんだな!?」
ディーンは鋭い視線で老人の目を見据え、訊いた。
「左様。生きておるかどうかは知らぬがな」
「それで、どうしたらまたあの場所に行ける?」
ディーンの問いに、老人は顎髭をさすり、考え込む素振りをした。
「ふーむ、混沌と秩序、生と死、静と動。ならば……いやいや……おお、そうか、そうか、簡単な事ではないか。よし、分かったぞ。おい、デルベッキオ、能無しの案山子や。風呂を沸かせ、うんと熱いやつを。それから石鹸、石鹸を持って来い、あるだけだ!」
「おい、爺。風呂に浸かっている場合ではないぞ」
ディーンは憮然とした表情で老人に話しかけた。
その前には湯が張られ、泡立った浴槽が湯気を立てている。
「物知らぬ乱暴者よ、馬鹿は馬鹿らしく一丁前に疑問など持たず、さっさと風呂に浸かれ。なに、体も少々臭っておるし旅の疲れもあろう、丁度良いではないか、まさに渡りに湯舟というやつだ、愉快、愉快」
老人は手にした杖でディーンを小突きながらからからと笑った。
「だ、旦那、一体何が始まるんだ?」
戸惑ったジュードが堪らず訊いた。
「身体でも清めろということか? 相変わらずこの爺は訳がわからんな」
不機嫌そうに言いながらディーンが湯舟に入ると、泡と共に湯が溢れ、流れた。
「ほれ、しっかり浸かれ、肩まで浸かれ。後は間抜け面でじっとしておれ」
老人は木の杖でディーンの身体を突付き、鼻歌を歌う。
「混ざれ混ざれ、水と油、水と炎。混沌と秩序、産湯に湯灌。混ざれや混ざれ、水面に水底。愚者に賢者、人間と人形。定められし者に、定めし者……」
ディーンは上機嫌な老人を訝しげに眺め、両手で髪を掻き上げる。
「……!? 何だ、これは!?」
驚愕の声を上げたディーンの両手が、硝子細工のように透き通っていた。
「やはり引っ張られておるな。それでは英雄ディーン殿、放蕩姫君を見つけ出し、連れ戻して来い。幸運ぐらいはまあ、祈っておいてやろう」
楽しそうに笑う老人に、ディーンは慌てて訊ねる。
「待て、待ってくれ! 向こうに行けたとして、どうやって戻ればいい!?」
身体と意識が急速に薄れていく中、ディーンは老人の最後の助言を聞いた。
「おお、うっかりしていた、帰りの事を考えておらなんだ! まあ、困ったら神頼みでも何でもしてみろ、愚か者」