「き」君に名付けるそのとき
その娘は、おそらくずっと一人だったに違いない。
誰かに助けを求めることも、誰かに何かを頼まれることも、誰かと共にすごしたこともなかったに違いない。どうしようもなく、孤独だったに違いない。
自分が孤独だということすら知らない、哀れな娘だった。
引き取ったのは、ただの気まぐれだった。
慈善事業でもしてみろと、学生時代からの友人が会うたびに言ってくるもんだから、体裁だけ、そう見えるようにだけ、と思ってしたことだった。だからとてもどうでもいい気まぐれだった。拾うなら、誰でも良かった。周りが「稀有なことするのね」なんて言ってきそうな相手ならなんでも。ただ、変に生意気なのは嫌だった。かといって頭のいいやつは簡単に扱えないし、子供はきらいだ。
それで、やはり柄にもないことはしないほうがいいかと諦めた頃に、たまたま目に入ったのがその娘だった。
磨けばそれなりに美しいかもしれないが、泥だらけでがりがりに痩せていて、目だけがぎょろぎょろとしていて、気味が悪いのに目が離せない、奇妙な娘だった。
俺を見て、ただ見ているだけなのが、さらに奇妙だった。
パンをよこせとも言わないし、逃げるわけでもない。じっと見つめてくるばかりで、なにも要求してこないのに、目は爛々と何かを語っている。
奇妙で、そして……やはりただ奇妙な娘だった。
拾ったのは、気まぐれだ。
娘は一見十代の初め頃だろうという見た目だった。けれど年齢をきくと、両手で数えてたっぷり時間をかけてから「じゅうなな」と答えた。
その間の俺はというと、組んだ腕の人差し指で腕を叩き、眉をひそめ、青筋を浮かべていた。
だって、あまりにも答えが遅いのだ。
こいつを拾ったのは間違いだったに違いない。そう思ったのはそれが最初。
さて、娘がいっぱいいっぱい使った時間の末に言った答えは、俺を困惑させるには十分だった。
「数え間違いじゃないのか」
思わず口をついた本音に、娘は瞬きを繰り返して、また数え始めた。先ほどよりはずいぶん早く数え終わって、「じゅうななです」とまた答えた。
「ああそう」
俺は追求するのが面倒になった。
俺は娘をメイドとして家に置くことにした。
他にもそれなりに使えるメイドがいたから、そいつらに面倒を任せた。
拾ったのだから、もういいだろう。というのが、俺の本音。ところがすぐにそううまくはいかないことに気がついた。
物を壊す。客には無礼を働く。掃除はろくにできないし、食事の準備をさせれば芋が生のまま出てくる始末。
「こんなもの食えるか」といえば「いもなのでたべられます」とつたない言葉で返された。
そういう意味じゃない。
仕方なく、教育することにした。
まず言葉を教える。それから人間らしい生活の基本を。
「朝は顔を洗え」
「風呂には入れ」
「机に立つな」
「ベッドに土足で上がるな」
「手で食べるな、カトラリーを使え」
「朝は『おはようございます』だ」
「違う。夜は『おやすみなさい』」
「ちょっと待て、なんで人のものを勝手にとる」
「それは雑巾じゃない。服だ。なんで着方もわからないんだ。こうするんだ。こう」
「靴ひもくらい結べるようになれ」
「ほら、また口の周りに食べ物をつけて……」
「そんな隅に座ってないで、こっちにすわれ。違う、俺の膝じゃない」
「お前、なんか楽しそうだなぁ」なんて、友人に言われてハッとした。
言われてみれば、ここのところ毎日娘のことばかりだった。事業はしっかりやっている。仕事に不備はない。プライベートは……そういえば本を読むのも最近は絵本の読み聞かせとかしかしてない。
愕然とする俺に、友人はからからと笑った。
「まぁ、たのしいならいいよ。でもあの子前見たときよりずいぶん可愛くなった」
「そうか?」
「そばで見てるからわからないのか? 前はもっとこう、みすぼらしい感じだったけど、今は娘らしい体型になってきているし……なんだよその顔。セクハラしてるわけじゃないぞ」
「そんなこと言ってないだろう」
「いいや、言ってるね。顔が。自分の娘を性的に見られて複雑って顔」
「性的に見てたのか」
「見てないよ。でも見られる年齢だろう?」
「嫌なこと言うな。まだガキだ」
「……もしかして娘じゃなくて恋人にしたいのか」
神妙な顔で言われて、俺は言葉を詰まらせた。そんなつもりがあるか。と反論しようとして、しかしそれをする前に、開いたままの扉から、娘がこっちを見ていることに気づいて、何も言えなくなったのだ。
「お前、なにしてる」
固い声だった。思った以上に。顔も怖い顔をしていたかもしれない。でも娘は気にした様子もない。
「旦那様が、とても楽しそうにしていらっしゃいましたので……声をおかけしようか迷っておりました」
いつの間にやら流暢にしゃべるようになっていた。
「何の用だ」
「お手紙を……。旦那様」
「なんだ」
「こいびと、とはなんでしょうか」
ああ、面倒だ。聞かれていた。しかもその言葉は教えてなかったかもしれない。だって絵本に出てこない。
「……まだ、知らなくていい」
「そうですか」
素直な返事がいたたまれない。友人がニヤニヤしているのが見えて、机の下で脛を蹴り飛ばす。
まさか、そんな、そんなわけないだろうが。
こんなひょろっこい、変な娘を……親心だ。多分。きっと。
「旦那様」
友人が帰った後に、いつもの勉強の時間に、娘が俺に話しかけてきた。
「なんだ」
いつものようにぶっきらぼうに答える。
娘はずいぶんと長い沈黙をしてから、おずおずと俺に話しかけてきた。
「先ほどのお客様が……わたしに、その……尋ねられて……」
「なにを」
「な、まえ」
「は?」
「名前は何かと」
そこではたと気がついた。あれ、この娘の名前はなんだったか。
忘れたというのはいいづらい。だってずいぶんここにきて長いのに、名前で呼んだこともないことに気づいてしまったのだし。
「なんて答えたんだ」
なんて、阿呆な質問を返すと、娘は困ったように眉を寄せた。
「わたし」
「うん?」
「わたし。名前ありません……ので、お答えできないと、お答えしました」
ああ。
ああ。
そうだったのか。
そう、だったのか……。
「バカか」
バカだ。
バカは俺だ。
拾ったときに名前を聞いたとき、答えなかったのは、答えられなかったからなんだ。
それからずいぶん経つのに、なんてことだろう。名前を知らず、与えてやることもしなかったなんて。
「それで……」
娘が言いづらそうに言葉を紡ぐ。
無言で促すと、娘は悩んだように目をあちこちにやって
「そうしましたら、名付けて貰えばいいと、いわれて……」
「……ああ」
「あの、旦那様に、わたし、名前、いただいても、いいのでしょうか」
「…………」
ああ。
うん。
わかった。
その後、なんて答えたかは実は覚えていない。
でも娘が見たこともないくらい嬉しそうに笑っていたのは覚えている。
そしてその顔を見てから、俺はずっとずっと変なんだ。変だ。
この気持ちはなんだろう。
胸が苦しい。
変だ。
……変だ。
それから数日後、あの友人が訪ねてきた。
庭で娘が来客である友人と話しているのを部屋から見下ろす。
娘が、嬉しそうに何かを囁いて、友人が目を丸くしてから、楽しそうに笑うのを見た。
友人は部屋へやってきて、開口一番にこう言った。
「ずいぶん気障な名前つけたんだな」
うるさい。
だって、仕方ないじゃないか。
素敵な名前をつけたくなったんだから。
予想以上に、美しい娘になっていたんだから。
拾ったのは間違いだった。そう思ったのは、これが最後。