「お」王様の青(異世界恋愛)
空は雲一つなく。
どこまでも高く、青く、透き通っていた。
城の中庭から見上げるその景色は、ミラにとっては一番のお気に入りだ。
ミラは人目も憚らず伸びをして、大きく深呼吸する。
離れた場所に控える護衛の女騎士ルネリアが機敏な動作で周囲を見渡したのが横目に映った。
このような気の緩んだ姿、見られてはならぬのだ。
何故なら、ミラはこの国の王の妻であり、王后であるから。
ミラは深呼吸を終えたその身で今度はため息を吐き出した。
足元に広がる青々とした芝を踏みしめて中庭の中央へ歩みを進める。
王后としての役目を厭うたことはない。
決して楽なものではないが、必要なことであり、国の民のためにしなければならない責務が山ほどある。
さらに、本来王后が持つことのできないあらゆる権限を王から与えられているが故に、ミラの毎日は多忙を極めた。
それはミラが望んたことで、なにもわからずに王后になったわけでもなければ、覚悟がなかったわけでもない。
責務があるが故に二人の逢瀬が減るであろうことも理解の上ではあった。
理解はしていたのだが。
だからといって、会えないことが寂しくないわけではない。
「アルフォンスは、寂しくないのねきっと……」
と、ミラは小さくつぶやいた。
本当は毎日顔を合わせたいし、時間の許す限り二人でくだらない話で盛り上がりたい。でも自分勝手な願いで公務を邪魔してはいけない。
そんなことを思いながら歩いていたからだろうか。
薔薇の生け垣の影にあった何かに、ミラは盛大につまずいた。
間一髪、倒れるのを回避する。
「王后様!」
「だ、大丈夫」
ルネリアの驚いた声になんとか言葉を返し、ミラは足元に転がっているそれに目を向けた。
──一体なに……。
「アルフォンス?」
そこにいたのは、先程からずっと焦がれていた人物。
幼い頃からともに育った大切な友人であり、今は夫であり、そしてこの国の王であるアルフォンス・リドナーその人であった。
なぜここに?そう驚くと同時に、芝の上に横になっているのだと気づき、どうやら自分がアルフォンスの足に引っかかったらしいと理解する。
「痛いぞ王后」
と憮然とした声がした。
「……陛下、何をなさっているのですか」
アルフォンスは王后とミラのことを呼んだ。
あくまでも、立場を重視した呼び方に、ミラも陛下、と呼びかける。
ルネリアがいるからということもあるし、おそらく近くに王の護衛騎士もいるのだろう。相変わらず気配のない人だ。
しかしその二人に気をつかうアルフォンスもめずらしい。
「見てわからないか? 昼寝をしている」
「はあ……」
そうなんですか。とミラは気の抜けた返事を返す。そのくらいにはアルフォンスの返答は意外なものだった。
「陛下、今は公務中では?」
「それは其方もではなかったか」
「それはそうですけれど……」
どうにも冷たいアルフォンスの返答にミラは戸惑う。
久しぶりに会うというのに、どうしてこうも冷たい言い方をしてくるのだろう。王らしくあろうと心がけているのは知っている。威厳は重視せねばならないことも重々承知の上。
だとしても、ミラの心はあまり穏やかではなかった。
王の足元、芝の上に直接座り込んで尋ねる。
「……何かあったのでございますか?」
「いや」
「では、気に触ることを申しましたでしょうか」
「……いや」
「……昼寝の邪魔をしたことを、お怒りですか?」
「…………」
返答がない。
それは肯定と、そういうことなのだろうか。
それはあまりにもひどい話だ。
ミラだって息抜きにきて、躓いて転びかける羽目になった。それはこんなのところで寝ている王が悪いのだというのに、躓いたミラを責めるつもりなのか。
ミラは涙が出そうだった。
王后としての誇りだけがそれをどうにか押しとどめている。
いつもならこれほど涙腺がもろくなったりはしない。会えない。会いたい。と思っていた矢先、会えたと喜んだ矢先にこのような態度をされて、気持ちが大きく揺らいでしまった。
「……そんな、そんな理由でお怒りになるなんて……ひどいわアルフォンス」
涙は抑えられても、本音を言うことは抑えられなかったらしい。
ミラの心の内からそんな言葉がポツリと溢れる。
瞬間、バッと音を立てる勢いで、アルフォンスが上体を起こした。
「!?」
「そんな理由で怒るか!」
詰め寄られ、ミラは顔を歪める。
「怒っているじゃないですか!」
「怒ってない!」
「怒ってるわ!」
「怒ってないって言ってるだろう!」
こうなると護衛騎士たちにも、誰にも止めようがない。
「怒っている」「怒っていない」というやり取りが中庭に響き渡る。おそらく非常に居心地悪く感じているだろう騎士のことなどお構いなしである。
しかし。
この言い争いもそう長くは続かなかった。
ぽろりと涙が落ちた。
ミラの瞳からぼろぼろと、一度落ちた水滴は止まることなく流れはじめる。
ぎょっとしたアルフォンスをおいて、ミラは顔を両手で覆った。
「なによ! 会えないから寂しかったのに! 怒らなくたっていいじゃない! どうして冷たいこと言うのよ! 優しくしてくれたっていいじゃない! バカ! アルフォンスのばか!」
あまりにもひどいではないか。
みっともないとわかっていても、ミラは涙を止めることも、嗚咽を飲み込むこともできず、声を震わせる。
おそらくミラを知る社交界の貴族たちが見たら目を疑うだろう。それほど普段は毅然とした態度を崩さないミラが、大きく肩を震わせて泣いてしまっている。
そのミラの両肩を、アルフォンスが優しく抱きしめた。
「……すまん」
「……」
「わるかった、ミラ」
「……何に対して?」
「……本当に、その、昼寝を邪魔されたとかそういうことを怒っているのではなくてだな」
歯切れの悪いアルフォンスの言葉に、ミラは小さく頷く。
しどろもどろな時ほど、アルフォンスは本当のことを言ってくれているときなのだと、幼い頃からうく知っていた。
そっと顔を上げると、目の前にアルフォンスのきれいな蒼い瞳が見えた。
「では、何を怒ってらしたの?」
ミラの問にアルフォンスはそっぽを向いた。
口をヘの字にして、これはおそらく口を割らない。そんなふうにミラは思う。またもや声を張りそうになった瞬間。
さっと身を引いたアルフォンスが、無言でミラの膝に頭を載せて寝転んだ
「ヘア!?」
いわゆる、膝枕である。
「へ、へ、陛下!?」
「アルフォンスだ。いつもそう呼んでるだろう」
──最初に王后と呼んだのはアルフォンスのほうなのに。
一瞬文句を言いそうになって、しかしこの状況がそれを許さない。
硬直するミラを気にせず、アルフォンスは一言「寝る」とつぶやいた。
そんな馬鹿な。
まさかこのまま有耶無耶にするつもりではあるまいな。そんな予感がミラの頭の中をよぎるが、しかしどうも切り出しにくい。
結局何に怒っていたのか、ミラにはわからないではないか。
「アルフォンス──」
「俺だって寂しいときもある」
さえぎって、アルフォンスが言った。
──それって……。
『アルフォンスは、寂しくないのねきっと……』
誰もいない。そう思って、そんなふうに、つぶやいたのではなかったか。
どうやらそれを聞かれていたらしい。
と知るやいなや、ミラは顔を真っ赤に染めた。
散々寂しかったと泣いた今、まったくもって今更ではあるが、独り言を聞かれていたということの方が恥ずかしい。
なによりも、アルフォンスの態度だ。
つまるところ、ミラの一言を聞いてふてくされていた。と、そういうことではないか。
ウロウロと視線を彷徨わせていると、気づけば膝の上から、すーすーという寝息が聞こえて来た。
そっと前髪を避けると端整な御顔がそこにあった。
「寝てる……」
──もう?
早すぎると半ばあきれてミラは呆けた顔を隠せなかった。
「まったくもう」
『俺だって寂しいこともある』なんて、かわいらしいことを言ってくれる。どうして愛しいと思わずにはいられるだろう。
ミラはそっとアルフォンスの前髪をなで、その寝顔を見ながらつぶやいた。
「起きたらたくさんお話しましょうね、アルフォンス」
見上げた空には雲一つない。
高く、どこまでも高く、青く美しく、そして透き通っている。
まるで王の瞳のように。
ミラはこの空がなによりも好きなのだ。