「い」茨の王は彼女を手放せない(童話)
昔々あるところに、勇敢な国王様と美しい王妃様の治める王国がありました。
ある春のはじめのこと、王国に嬉しい出来事が起きました。
王妃様が身籠られたのでございます。
そして、可愛らしいお姫様が誕生されました。
お姫様は国王様と同じ空のような青い瞳を。王妃様と同じシルクのような黄金の髪を持っていました。
頬はピンクにそまり、両手は小さく可愛らしく、その微笑みは民衆を虜にしました。
お姫様の誕生祝いとして、国中の貴族たちが城を訪れ、様々な祝の品を贈りました。
キラキラと輝くサファイア。
黄金のネックレス。
古今東西あらゆる植物が描かれた本。
古くから伝わる魔除けの腕輪。
美しい色鮮やかなドレス。
めったに咲かないという珍しい白い花。
そして、最後に王国の魔法使いがお姫様に祝福を与えようとしたその時、一人の男が現れました。
漆黒の毛皮のコートを着た、赤い目の大男。
髪も黒く、ゾッとするほど美しい顔をしたその男は、両手に一杯の薔薇をたずさえて、国王様と王妃様の前にやってくると、こう言いました。
「ああ、なぜ、我を呼ばぬのか。其方の子の誕生に、なぜ我を呼ばぬのか」
その男の声のなんと甘やかなこと。
その顔のなんと美しいこと。
そして、体全体から滲み出る強さは、王妃様の目を釘付けにしました。
しかし、同時に王妃様は震え上がりました。
国王様も、青ざめて男を見下ろします。
男はやがてお姫様に近づくと、薔薇をお姫様の周りにばら撒きました。
そして、低く美しい声で言いました。
「この娘が16の誕生日を迎えたならば、その時バラの棘に刺されて永遠の眠りを迎えるだろう」
王妃様はあまりのことに倒れ伏し、国王様は怒り兵士たちに命令します。
「そのものを捕らえよ!」
しかし、どこからか黒い茨が現れ、男を覆ってしまいました。
だれも近づけないまま、気づけば男は茨の中から姿を消しておりました。
シンと静まるその瞬間、魔法使いが言いました。
「ならば私は姫様に祝福を与えましょう。『多くのものに愛され、幸福に生きられるように。多くを慈しむ、美しい心の持ち主になるように。そして、どんな害意をも跳ね除ける幸運をもつように』」
こうして不幸にも呪われてしまったお姫様を救うため、魔法使いは祝福をかけたのでした。
国王様は王国中から薔薇を集めて燃やしてしまい、お姫様はその後大事に大事に隠されました。
──それから……年……。
地響きのような、あるいは悲鳴のような、どちらともとれる不協和音が空を駆け、大地に轟く。
耳を劈くかの如きその声に、人間たちは慄いて身を低くした。
地に這いつくばり、恐る恐る盾の間から上空の見上げた人間たちは、一様に剣と盾を持ち、銀色に光る鎧を身に纏っている。
白い花をあしらった軍旗を掲げ、隊列を成す人間たち。しかし今ではただの烏合の衆となった。
それを作したモノが再び叫び声を上げる。
人間たちの瞳に映るのは、巨大な影。
上空を旋回しながら咆哮をあげる、巨大な翼手をもつ漆黒の竜の姿であった。
竜は銀に輝く鎧を標的にして、灼熱の炎を吐き出す。
地表は焼かれ、あらゆる生物が息絶えていく。
ただ一つ……赤い華を咲かせる茨だけを残して。
その様を、じっと見つめる姿があった。
瞳は真紅。
髪は漆黒。
黒いロングコートの上からでもわかる分厚く鍛え上げられた肉体。
その身体を漆黒の茨が彼を守るように蠢く。まるで生き物のように。
彼は、竜が焦がした大地を城の窓から眺めて、ため息を吐き出した。
あの場所には、小さいが美しい庭園があった。男が愛した女性が慈しみ、育てた庭園が。
しかし、それも今は焼き尽くされてしまい、おそらくは今後何年も植物が芽を出すことはないだろう。
知れば、彼女は嘆くだろうか。
そんな憂いを男は瞳に浮かべる。
男の心には庭園のことばかりが浮かんだ。
竜が燃やし尽くした人間たちのことなど、どうでも良かった。
「お前も、そう思うだろう」
言って、男は振り返る。
その部屋は、かつては美しい部屋だった。
しかし今は微細な装飾が施された家具や調度品などは全て時とともに朽ち、メッキは剥がれ、銀はくすんでいる。
かつての美しさはすべて失われたが、唯一大きなベッドだけは、かつての姿を残していた。
そのベッドに一人の娘が眠っていた。
男はベッドに近づいてそっと娘の頬を撫でる。
暖かな頬はただ眠っているだけのように思えて、しかし彼女の眠りは永遠に近いものだった。
長いまつげが顔に影をつくり、物言わぬ唇は、しかしふっくらしていて柔らかさを感じさせる。その美しい面差しを彩る頬は薄いバラ色に染まって、ベッドに広がる長く美しく豊かな髪は、まるでシルクのような黄金色の光沢を持っていた。
今にも目を開けて、その青い空のような美しい瞳で男をみる。
そんな予感を感じさせるほど、彼女はおだやかに眠っていた。
男は眠れる美しい彼女の、ほっそりとした傷一つない手を取る。
その手もまた、温かい。
「目をさましてくれ」
苦しげな声で男は言う。
彼女が眠りについて、すでに××年が過ぎた。
男はこれ以上、数分であっても、この城にいたくはなかった。
一人でいたくはなかった。
かつては、どれほどの長いときであっても、一人であることになにも問題はなく、むしろ一人であることを望んですらいたというのに、今ではそれすら遠い記憶となってしまっていた。
男はいつからか一人に苦痛を感じるようになっていた。それはおそらく、ただ一人、目の前の娘を愛してしまったその時から。
男が自ら呪った相手であった。
生まれたその時に呪いをかけ、その後ながく彼女は呪いにむしばまれ、美しい薔薇を愛でることすらゆるされなかった。
彼女は薔薇を知らずに育った。
だからだろう。
男がまとう茨を彼女は美しいといった。
彼女は薔薇を好きだと言った。
そんな薔薇に守られた男を愛しいと言った。
はじめは、近づくつもりなどなかったのに、邪気なく話しかけてくる彼女を遠ざけることができなかった。
わかっていたのだ。
これは祝福だ。祝福という呪い。それが彼女をそうしてしまったのだと。
決して彼女自身ではないのだと。
己の感情すらもその祝福のせいなのだと、わかっていた。
『多くのものに愛されること』
だから男は彼女を愛した。
『多くを慈しむ、美しい心の持ち主になるように』
だから男を蔑まず、慈しんだ。
『んな害意をも跳ね除ける幸運をもつように』
だから、男は彼女を害することができなくなった。
これは祝福。
祝福という名の呪い。
姫は茨の王に魅了され、そして魅了した。
それでも、男は彼女を愛してしまった自分を抑えられなかった。
だから、姫のそばを離れる決心までしたというのに。
男は目を閉じる。
浮かぶのはかつて目にした力強い美しい青の瞳。
小鳥がさえずるかのような美しい声。
光輝くような稟とした姿。
「貴方が茨のひとならば、私をどうか眠らせて。未来永劫、あなたのものでいるために」
その言葉。
愛していた。
愛していた。
愛していた。
愛していた。
愛していた。
だから。
害する以外の愛という呪いが彼女を眠りに落とした。
それから姫を救うためにやってくる多くの者たちがいる。
けれども姫は眠り続ける。
彼女の願いを叶えるために。
永遠に男のものであるように。
いばらの王は彼女の目覚めを願いながら、彼女の眠りを妨げるものを排除し続ける。
長い長い眠りから、姫が目覚めるその時まで。
「それで、そのお姫様はどうなったの?」
「さあ、王子様がきて、目を覚まさせてくれたのかな」
「あら、そんなの茨の王様が可愛そうだわ」
「そうだな。でも、お姫様は眠りから目覚めた時。自分のせいでたくさんの人が死んでしまったことをどう思ったと思う?」
「……かなしいと思うわ」
「そうだ。だから彼女は王子様と一緒に行くことにしたんだよ」
「……わからないわ。それに、やっぱり王様が可愛そうよ」
「でも彼女はひとつだけ茨の王に贈り物をしたんだ」
「それはなあに?」
「なんだと思う?」
「またそれ? もうどうしてお父様はいつもそうやって教えてくれないの?」
「大事なことだから。言葉にしてはいけないこともある」
「やっぱりよくわからないわ」
「わからなくていい。お前が大人になって、あの薔薇の庭園がもっともっときれいに立派に育ったら、その時教えてあげるよ」
「そんなのずっと先よ。だってあの庭園はずーっと花が咲かないってお父様言ってたもの」
「咲くよ」
「本当に?」
「咲くとも」
「それなら、もし薔薇が咲いたら私に薔薇をたくさん頂戴! お屋敷にいーっぱい飾るの」
少女の無邪気な願いに、男は小さく頷いた。