「あ」荒れ狂う海のアリア(ファンタジー)
船乗りの間には、こんな話がある。
どんな優秀な船乗りでも、海の魔力に飲み込まれたら生きては戻れない。しかし、処女航海に少女を乗せると、その船は絶対に沈没しない、と。そんな迷信じみた話がある。
「夜の航海に危険はつきものだ」
と船長は言った。
船長の目に何が写っているのかはわからないが、その目はまっすぐ船の進行方向を見つめている。
まだ年若い、この船で下っ端として働き始めて幾日も経っていないアダムは、船長の横顔を見ながらゴクリと唾を飲み込む。
船長の視線を追っても、真っ暗な海と空が見えるばかりだった。
アダムが乗っている船は、この荒れ狂う海で貨物を運ぶ仕事をしている中型船だ。船首に古びた女神の像を乗せていて、船体は所々塗装が剥げて元の木の色をみせている。
その外観を見れば、いくつもの嵐を乗り越えることができるほど立派な船には見えないだろう。
しかし、巷では【海の女神に愛された船】と呼ばれているほど、何度も困難な航海を乗り越えた不思議な船でもあった。
アダムはそうした背景を知って、水夫として雇われることにした。
理由は、この船がそう呼ばれるようになった経緯を、そして真実を知りたかったから。そんな理由だった。
アダムが働き始めて数日、港からずっと離れた場所で船は大きな嵐に遭遇した。
荒れた天気のまま夜に招かれ、黒い雲が上空を覆い尽くして居た。相当強い風が吹いているにもかかわらず、空は景色を変えないところを見るに、随分と分厚い雲が空を覆っているらしい。
いつもなら見える美しい星空すら姿を隠している。
アダムは闇に対する本能的な恐ろしさに震え上がりながらも、だからこそ大人しく眠っていることもできず、甲板で周囲を見渡していた。
不意に、アダムの隣に一人の男が並んだ。
船の船長、キースだ。
右手に双眼鏡を、左手にくたびれたタバコを持っている。しかし双眼鏡を使うそぶりはなく、視線は船首のその先をひたと見据えていた。
わずかに凪いだ風が、アダムとキースの間を通り抜けていく。
「船長……」
アダムは思わず呼びかける。
「海に危険はつきものだ」
船長が言った。
アダムはキースの横顔を見ながらゴクリと唾を飲み込んだ。
さらに続けて、キースが言う。
「だが、心配はいらない。この船は沈まない」
「どうしてですか?」
アダムは間髪入れずに尋ねた。
まるで幼い子供のような純粋なアダムの問いに、キースが小さく笑う。
「船乗りの間には、こんな話がある。処女航海に女を乗せると、その船は絶対に沈没しないという。まあ女ならなんでもいいわけではないらしいが、この船ははじめにそうして海に出たから、沈まないのさ」
「……女神から愛されているのではなく? 迷信によるものだと?」
「そうだな。迷信だ。それだけなら、迷信だろうさ」
【海の女神に愛された船】の船長であるキースは囁くように言う。
キースの囁きは波にさらわれていく。その途中でアダムの耳朶をそっと撫でていく。
アダムは納得のいかない気持ちで、彼の横顔を見上げ、その横顔を凝視した。
再び強い風が吹き始めた。
どんどん嵐は激しくなっていく。
まるで怒りをぶつけるように、船体に波がぶつかって弾けた。水飛沫は、ときに雹のように甲板を打ち付け、ときに風にあおられてアダムの頬を叩いた。
冷たい風か吹き荒ぶ。
キースの黒い髪も、アダムの茶色の髪も、あちこち滅茶苦茶な方向になびいて、顔や首にまとわりついて、アダムは髪を抑える。キースも煩わしそうに前髪をかき上げた。
そうして、互いに沈黙したまま風に当たっていた二人は、後方から大きな声が聞こえて同時に振り返った。
船内から顔を覗かせていたのは、ガタイのいい副船長。普段からその大きい体と大きな声で凄まじい存在感を持っている人物だ。
その彼が、自前の大きな声で船長を呼ぶ。
「船長! 下っ端どもを中に入れやした! 船長も中に! そろそろ大きく揺れ始めますぜ!」
「ああ!」
副船長の声に対抗してか、それとも嵐の鳴らす轟音にか、キースも叫んで返事をする。そしてアダムを促して室内に戻ろうとした。アダムも下っ端だ。早めに避難させようとしているのだろう。しかし。
そのキースを、アダムは呼び止めた。
「船長」
「……なんだ?」
唐突な呼びかけを受けて、怪訝そうに振り返る。
「船長は、いつからこの船の船長なんですか?」
キースに不思議そうに見つめられながら、アダムは「答えてください」と語気を強めた。
アダムの様子がおかしいことに気づいたのか、キースが神妙な顔をしてアダムに向かい合う。
「3年前だ」
「3年前……。やっぱりそうですか。ねえ船長、聞いてもらえますか。僕がこの船に来た理由」
聞かなければ許さない。そんな強い視線がキースを射抜く。
船長は激しくなる嵐を気にしながらも、頷いて見せた。
アダムには母がいなかった。
物心つく頃にはもう母の姿はなく、あったのは厳格な船乗りの父だけだった。兄弟もおらず、ただ、父の帰りを家で待つ生活をしていた。
アダムが15になった時、父が死んだ。
その父の葬式で、父の知人からこんな話を聞かされた。
アダムの母は、アダムがまだずっと幼いころ、父の船の処女航海に同行したのだと。
それからだ。それから母は帰ってこないのだと、アダムは確信した。
アダムは母を捜すことにした。
死んだと思っていた母が、生きているかもしれないと、根拠なく思ってしまった。
そしてその唯一の手がかりは、母が処女航海に同行したという父の船だった。
父の死後、船は父の弟に渡されたという。
アダムは、船を探していた。探して、探して、3年の時が経っていた。
アダムは呟くようにキースに話聞かせた。
掻い摘んで話したが、それでもなお強い感情を含んだ話をキースは無言で聞いていた。
しばらくの間キースは沈黙を保っていたが、やかで重い口を開いた。
「それで、お前はその船を探しているのか」
「いいえ」
アダムは即答した。
「もう、みつけました」
言って、キースを見つめる。
キースもアダムを見た。
同じ青い瞳が重なって、アダムはゴクリと再び唾を飲み込む。
「叔父の名前は、キース。キース・ボルドーです」
淡々と告げた言葉に、キース・ボルドーは一つ瞬きをして、すっと顔を背けた。
再び海へ視線が注がれている。
アダムは、キースが何を見ているかなどどうでもよくなっていた。ただ、避けられた視線に苛つくばかりだ。
「あなたは、何か知っているじゃないですか? 母のこと」
アダムはキースを睨みつけて言った。
目をそらしていてもその視線に気づいていないわけではないだろうに、キースは無言を貫く。
アダムにとってはキースは最後の希望だ。
母を見つけ出すための。
船が大きく揺れる。嵐が近づいている。それでもアダムはキースから目を背けない。
逃がさない。そんな思いがアダムの心を占めていた。
再びぐらりと船が揺れる。
今度は立っていることもできないほどの揺れだった。
さすがに体制を崩したアダムは、そのまま転がりそうになって、やむを得ず視線をキースから外す。しゃがみこんで揺れを凌ごうとした瞬間、パッと腕を掴また。
おかげでなんとか体制を立て直すことに成功する。
アダムは自分の腕を掴んだキースを見上げて、礼を言うでもなくただ苛立ちに歯ぎしりをした。
その時だった。
歌だ。
歌が聞こえる。
「船長、これって……」
思わず尋ねる。
アダムの呆然としたつぶやきに、キースはタバコの煙を吐き出しながら小さく笑った。ようにアダムは感じた。
そして、ずっと無言を通していたくせに、ここにきて簡単に口を開く。
「この船には、たしかに女神がいるのさ」
言って、キースが船の先を指差す。
船首の先、突き出した小型の帆を支えるための弥帆柱の先端に、一人の女が座っていた。
透けるように美しい、まるで女神のような。
しかし、どこかで見たことがある。とアダムは思う。
どこか……。
アダムはハッとしてキースを仰ぎ見た。
アダムの表情はひどく硬く、そしてキースの表情も硬かった。
「女を乗せるだけじゃダメなんだ。船首で無事航海が終わるように、祈り続けなきゃいけない。雨の時も、嵐の時も、飢えていても。するとああして……」
船を守ってくれる。
「そんな……」
アダムは言葉を失った。
そんな馬鹿な話があるか。
まさか、つまり彼女は、その迷信のためにそうして祈ったというのか。
もしそれが本当なら、ほんとうならば。
「……かあさんは………」
泣きそうな声で、アダムは言葉を絞り出す。その声は、波と歌にかき消されてしまう。
絶望に似た感覚。
どこかでわかってはいたのだ。母は、もういないのだと。それでもすがりついてきた一縷の希望が、船が、そして叔父が、その希望をボロボロにしてしまった。
否、そうではない。
希望を粉々に砕いたのは……。
「……お前、オヤジは好きか」
アダムは浮かべた涙を振り払うように、勢い良く首を振る。
「そうだよな、あいつは、兄貴は最低な奴だったよ」
ああ、かあさんは、かあさんはそうして死んでしまったのだ。
寒さと飢えの中で。
父が、母をこの船のために犠牲にしたのだ。
アダムのほおを涙がつたい落ち、キースがそれを乱暴に拭ってくれた。
滲む視界に、苦悩を浮かべたキースの顔が映る。
「お前の母親は、義姉さんはもういない。けど、この船の守り神になってくれた。迷信なんかじゃない」
キースは再び視線を船首に向け、アダムもそれに習った。
アダムの唇から、音もなく声が漏れる。
風はいつの間にか凪いでいた。
伸びやかに、高らかに、美しく、朗朗と紡がれていく歌。
嵐の中で響き渡る歌。
これは、アダムの母の歌。
荒れ狂う夜の海で、船を守り続ける、祈りのアリア。