1章-4 勉強の開始
この世界の暦は前の世界とほぼ同じで、1年は12カ月で一巡する。そしてサラストスは、それぞれの月を色で例える。
私が謁見の間で襲われたのは“灰の月”1の週の初め──人間の世界で言うなら、2の月の第1週。季節はまだ肌寒い頃だった。
桃の月──3の月の3週目、勉強を見てくれる先生が決まった。
トゥーリッキ=ヴァリラという名の竜人族の女性で、アイノア城のすぐ傍に建つ国立文化研究所という施設の副所長だ。
きりりとした碧の目が印象的な凛々しい顔立ちの美人で、艶やかな黒髪は後頭部で一つにまとめている。頭部から生えた鹿のような角は、瞳の碧と同じく竜族特有のものだ。角の大きさがバイナモ様のものより二回りほど小さいのは女性だからだろうか。
前合わせの白い上着に踝丈の紺色のスカートをはき、腰に幅の広い帯を巻いている。和洋折衷のような装いは、黒髪のトゥーリッキ先生に良く似合っていた。
「私の授業では、基本的な学問と並行してサラストスの言語や文化・風俗を中心に講義していく予定です。ただ、授業計画を組む前にヴィルヘルミーナ様の学力水準を確認する必要がございますので、最初は試験をさせて下さいね。点数の良し悪しではなく進度を見たいだけですので、気負わず、自然な形で取り組んで頂ければと思います」
先生の優しい申し出に飛びついたのは言うまでもない。
アディンセルにて、私は貴族の子女が学ぶべきとされる教科を一通り学んできた。科目は10種。歴史、地理、文化、主要な文学、修辞学。それから算術と幾何に古代語、天文学。これに“共通語”と呼ばれる各国共通の言語が加わる。
この共通語は、アディンセルやエングルフィルドといった人間国だけでなく、サラストスやヴァイゲル帝国でも使われているので、外国の要人を招く式典や条約の締結等は専ら共通語で行われる。その為、王侯貴族は自国の言葉と共通語を同じくらい扱えるのが最低限の嗜みとされるし、商人などは自国の言葉よりも共通語の方が堪能な事すらある。
私もそれらの例に漏れず、共通語はアディンセル語と同じくらいの水準で扱う事ができる。お蔭でサラストスに来てから言葉で困る事はない。
ただ、いくら共通語で済むからと言っても、魔王となる立場でサラストス語が扱えないのは外聞が悪い。トゥーリッキ先生と相談した結果、まずはサラストス語を優先的に学ぶ事になった。
幸い、サラストス語は共通語と古代語をかけ合わせたような言語である。表音文字で文字の形も似ているので、覚えるのにそれほど苦労はしなさそうだ。これがもし日本語と英語くらい異なる言語だったら、お手上げだったかもしれない。
サラストス語以外の教科については、トゥーリッキ先生お手製の試験を受けた結果、教科ごとの習熟度にかなりの差があることが分かった。
まず、算術と幾何に関して。これらは前の世界で学んだ事をそっくり生かせた為か、水準以上でお褒めの言葉を頂いた。また、古代語はアディンセルで学んだものが十分通用したのでこちらも良くできていたようだ。
一方、歴史や地理、文学、天文学は、ほとんど学び直しになりそうだ。これは別に私がサボっていたとか苦手教科だとかいう理由ではない。
この世界では、他国の歴史や地理を学ぶ機会はなかなか無い。一国の王やその周囲の者ならまだしも、一貴族の娘程度ならせいぜい同盟国周辺が関の山である。
アディンセル出身の私は、当然ながらサラストスの歴史や地理など欠片も知らなかった。
「そういえば、魔力測定の日が決まったそうですね」
サラストス語の授業がひと段落したところで、トゥーリッキ先生が思い出したように言った。
「はい。来週の月の日に。魔術師団の団長様が直々に見て下さるそうなので緊張します」
「エサイアス様はお優しい方ですから、ご心配いりませんよ」
「そうなのですか?」
「ええ。甘いものとお昼寝とお酒が大好きな、とっても楽しいお爺様です」
「お爺様ということは、かなりの御高齢なのですか?」
「確か200歳近いはずですよ。バイナモ様と同じくらいだと伺った事があります」
「私のお祖母様よりずっとずっと年上でいらっしゃるんですね。200歳だなんて想像もつかないわ…」
この世界の人間の寿命は短い。60年も生きれば長寿扱いだ。
対する魔人はというと、200年は生きる。成人までの成長速度は人間と変わらないが、その後の身体的黄金期が非常に長い。大体20代半ばくらいから160歳前後くらいまでは外見上の年齢差がほぼ無く、それを過ぎると少しずつ老化していく。
バイナモ様は190を超えているし、ラーファエルさんだって若いように見えても私よりずっと年上だ。私の父は100年生きずに亡くなったそうだが、魔人の寿命に鑑みれば早世である。
「エサイアス様には、文化研究所の仕事の一環で何度かお話を伺った事があります。エサイアス様の子供時代…180年ほど前になるでしょうか、その頃は今あるような魔道具は存在していないとか一般に普及する前で、生活様式が現在とは全く異なっていたそうですよ」
電化製品が一般化する前と後のようなものだろう。
「魔道具を普及させたのは、ヴィルヘルミーナ様のお祖父様にあたる第8代魔王・カレルヴォ=ラウリカイネン様です。彼の御方は魔道具作りに大変熱心で、様々な種類の魔道具を開発なさいました。今の魔術師団に魔道具開発専門の部署を創設したのもカレルヴォ様ですのよ」
私の父方のお祖父様は、まさかの発明家だった。
改良した農機具は食料生産量を大きく増やして国を豊かにし、家事を助ける道具は女性の社会進出に大いに貢献した。また、開発した魔道具を国外に輸出したことで、莫大な外貨を獲得したそうだ。
ちなみに、この世界の水回りが前の世界とほぼ変わらないのも私の祖父による魔道具開発の成果である。祖父のお蔭で、私は盥の水を被るとか濡れ布巾で体を拭くような原始的な生活を送らずに済んだのだ。有り難過ぎて、感謝してもしきれない。
トゥーリッキ先生の説明を聞くうち、私は話の中で一つ気になることを見つけた。
「先生、魔道具を輸出というのはどういう事でしょう。サラストスと国交を結んでいる国があるのですか?」
アディンセルの教師は、サラストスは人間の国とは全く交流を持たない魔人だけの国だと教えてくれた記憶があるのだが。
「ヴィルヘルミーナ様は、ヴァイゲル帝国はご存じですか?」
「勿論です。この大陸でもっとも大きい国で…え、まさか」
「はい。サラストスの貿易相手は、ヴァイゲル帝国です」
「え!?」
ヴァイゲル帝国と言えば、この世界では誰もが知る大国で、その威はエングルフィルド王国を凌ぐほど。
ただ、アディンセルではヴァイゲル帝国について深く学ぶ機会はほぼ無かったので、私が知っているのは、人間の皇帝が治める強大な軍事国家であり、エングルフィルドを始めとするアディンセルの同盟国とは文化や政治体系が異なるという程度。有名どころの皇帝の名は覚えているものの、どのような文化が形成されているのかといった具体的な事はほぼ知らない。
サラストスとの関係については、勿論触れられなかった。
「ヴァイゲル帝国はご承知のとおり人間が統治する国ですが、サラストス連合国建国時より長きにわたり同盟を結んでいる友好国であるとともに、人間国の中では稀な、魔人に対する偏見の少ない国でもあります」
トゥーリッキ先生はそう言って、持ってきた資料の中からA2サイズほどの大きさの地図を取り出して机上に広げた。
地図の中央には、私達が住まう大陸が描かれていた。その東側、大陸全体の5分の1ほどの領地がサラストス連合国である。対する西側海沿い一帯には、サラストス連合国に負けず劣らず広大な領地が広がっている。これがヴァイゲル帝国だ。
両国は北部地域で国境を接しており、その一帯が交易の最重要拠点とされるという。
そして、二つの大国に挟まれる形で残った5分の3ほどの領土を治めるのが、エングルフィルド王国を始めとした人間の国々だ。
こうして見てみると、サラストスとヴァイゲルの大きさが際立っている。アディンセルであれほど褒めそやされたエングルフィルド王国すら、国土の大きさはその半分にも満たない。
「ヴィルヘルミーナ様は、このように大陸全土を描いた地図は見た事がございましたか?」
「いいえ、今初めて見ました。アディンセルで見た地図はどれも自国と周辺の同盟国しか描かれていませんでしたので、関係主要国の位置関係くらいしか知りませんでした…」
アディンセルのような人間を至上とする国にとって、魔人の国の領土が自国よりも遥かに広大であるというのは、国民にあまり知られたくなかったのだろう。また、魔人の国が強大なヴァイゲル帝国と交流しているのも不都合な事実。
どうやらアディンセルの王国政府は、国民にかなり強い情報統制を布いていたようだ。
「ヴァイゲル帝国の始まりは約500年前。初代皇帝であるゴットフリート=ヴァイゲルは、傭兵として建国に貢献した魔人に敬意を払い、国内での魔人の地位は保証されることとなりました。そしてその50年ほど後、第3代魔王・カレヴァ=ラウリカイネン様が魔人達の小国家群を一つに纏め、サラストス連合国を創り上げました。直後、サラストス連合国とヴァイゲル帝国は友好条約を締結。背後には、ゴットフリート=ヴァイゲル皇帝と第3代魔王・カレヴァ=ラウリカイネン様の友情があったと言われます」
私は、初めて聞く歴史物語にじっと耳を傾ける。
「ヴァイゲルはサラストスの豊富な資源や魔道具を元に国を発展させ、サラストスもまたヴァイゲルの成熟した文化や高度な学問に大きな影響を受けました。約450年もの長きに渡り、二か国は互いに手を取り合いながら繁栄してきたのです」
アディンセルでは人間主体の歴史しか学んでこなかったので、トゥーリッキ先生の話はとても新鮮だ。
私はずっと、人間の国家は全て魔人を嫌っていると考えていたのだが、どうやらそれは完全なる思い違いだったようだ。もっとも、アディンセルでの人間至上主義の歴史観や文化がそう思わせたとも言える。
「先生。ヴァイゲルでは共通語が使われていると聞いた事があるのですが、事実ですか?」
「よくご存じですね」
私の質問を受けて、トゥーリッキ先生がほほ笑んだ。
「ヴァイゲル帝国は、各地に散らばる小国を次々と併呑したことで現在の広大な領土を手に入れました。それらの国々は独自の言語や文化を持っていたため、国を支配し政治を纏めるのには困難を伴ったそうです。そんな中、第2代皇帝・バルトロメウス=ヴァイゲルは国家への帰属意識を高める為に、中央が使っていた言語を共通語として定めました。言語が異なるため起きる問題を解消する意味合いもあったと思われます。皇帝は各地に国営の学問所を設けて国民に共通語を学ばせました」
「つまり、共通語というのはそもそもヴァイゲル帝国の言語だったということですか」
「その通りです。今でこそ“大陸共通語”という呼び名が使われておりますが、元は“ヴァイゲル帝国内共通語”というのが正式名称でした」
トゥーリッキ先生の解説は続く。
「ヴァイゲル帝国は設立時より人間の国家の中でも非常に影響力の強い国でした。その為、関係を持ちたいと願う国も多くあったのでしょう、人間国の王侯貴族はこぞって共通語を学ぶようになりました。また、言語の浸透には商人の動きも後押ししました。人間国の多くはサラストスを厭い直接的な交流を避けていたので、サラストス産の製品はどうしてもヴァイゲル経由で手に入れることになります。少しでも多くの商品を仕入れる為に、商人達は我先にと共通語を学んだそうですよ」
ヴァイゲルが共通語を設定してから200年も過ぎる頃には、共通語は市井にもすっかり定着したそうだ。多少の方言はあれども、意思疎通に苦労は無いため、国同士のやり取りは非常にスムーズになったという。
「ちなみに、サラストス国内で共通語が普及したのは、第四代魔王であるヴォイット=ラウリカイネン様のお蔭です。ヴォイット様は、ヴァイゲルの学問所の話を聞いて非常に感銘を受け、サラストス国内の各地に同じような学問所を設立しました。そこでは簡単な読み書きや計算に加え、共通語も学ばせました。結果、国民の識字率は各段に上がり、両国間の取引も一層盛んになりました。そして学問所は現在では“初等学校”と名前を変え、国営のものは出自を問わず無料で通う事ができます」
教育というのは非常に金のかかる先行投資だ。
私も以前の人生では当然のように“義務教育”なるものを享受してきたけれど、改めて考えると、よほど金銭に余裕のある国でなければ教育を義務付けさせるなどできやしない。
少なくとも、アディンセルでは庶民が通える無償の教育機関など聞いた事は無かった。一方このサラストスやヴァイゲルには国営の無償教育機関がいくつも存在するというのだから、国力の差は歴然である。
「すごいですね…学問所一つ作るのだってものすごく多くのお金が掛かるのに」
国営ならば、施設の維持費や講師料もかかる。講師を教育する機関も必要だ。また、学習内容だって更新していくだろう。そして、投資が形になるまでには数年から数十年という月日がかかる。
それだけの手間と金を使っても得るものは多いが、国力の無い国はそれだけの手間と金を使うことすらできないのだ。
「サラストスは高い国力を持っていたんですね」
「その通りです。よくお気付きになりましたね」
トゥーリッキ先生が満足げに微笑む。
「サラストスは豊かな土壌と豊富な資源に恵まれております。各代の魔王様方は、それらの潤沢な資源を元に様々な改革に取り組んでまいりました。詳しい内容はいずれ御紹介するとして、今日はこちらを」
トゥーリッキ先生はそう言って、私に一冊の本を差し出した。植物紙製で、和綴じに良く似た装丁の本である。薄紅の表紙には共通語で『ようこそ コカイスタへ』と書かれていた。
「これは?」
「ヴァイゲルからの観光客向けに発行した紹介本です。発行元はコカイスタの商店ですが、サラストス政府が監修しているので中身は折り紙付きです」
表紙をめくると、まずはサラストスについての簡単な紹介文が載っていた。
二ページ目以降にはコカイスタの大通り周辺の簡単な地図が描かれており、更には宿や食事処、名所、名物や土産物、季節の祭りや行事など、観光客が興味を持ちそうな事柄が項目ごとに書いてあった。簡単なイラストまで付いている。
(すごい。まるで観光地のガイドブックだわ。しかもこれは印刷…版画みたいね)
一枚一枚頁をめくりながらまじまじと観察していると、トゥーリッキ先生が声を掛けてきた。
「よかったら差し上げますわ。実は私も監修に携わっていて、試し刷りした分がまだ数冊手元にあるんです」
「本当ですか!?ありがとうございます!」
「ええ。まずはこうした簡単な冊子でサラストスのことを少しずつ知るところから始めましょう。そのうち、サラストス語の基礎を習得したら大図書庫もご案内しますわ」
「だい、としょこ?」
「はい。魔術師塔に併設してある書庫で、サラストス国内で書かれた貴重な書物や資料が保管してあります。ただ、入館や書物の貸し出しにはサラストス語の署名が必要ですし、資料も大半がサラストス語なのですよ」
成程、サラストス語が分からない状態で行っても意味が無いというわけか。
図書庫で書物を閲覧できるまでは少しばかり時間がかかりそうだ。
先の事を考えて少しばかり難しい顔をしていると、トゥーリッキ先生が言った。
「文化や言葉を学ぶと言っても、堅苦しく考える事はありません。何事も、知れば自ずと理解は深まるものです。焦らずゆっくり進んでいきましょう」
トゥーリッキ先生の優しい言葉に、私は奮起するように顔を上げた。
引きこもって魔人やサラストスを忌避し続けた私は、もうどこにもいない。まだ不安は多いけれど、今こうしてここで生きていく以上、立ち止まり続けるわけにはいかないのだ。
「ありがとうございます。頑張ります」
気合十分でそう答えた私を見て、トゥーリッキ先生がくすりと笑った。