0章 ③ 突然記憶が戻りました
ゆうに20畳以上はある広い室内を、天井から吊り下がった小型のシャンデリアが上品に照らしていた。
板張りの床の中央にはアラベスク柄に似た幾何学模様が描かれた緋色の絨毯が敷かれていて、その上には白を基調にした豪華なソファーセットがコの字型に置かれていた。クリーム色をベースに草木柄が描かれた壁には芸術品のような鏡や風景画が品良く飾られていて、目を楽しませてくれる。部屋の南側一面はほとんど窓になっていて、蔦柄刺繍が施されたレースカーテンがゆるりと下がっていた。柱部分に嵌め込まれた鮮やかなモザイクタイルや、円形の柄が描かれた天井、ソファ傍に置かれたモザイクガラスのランプは、いつか雑誌で見たイスタンブールの雰囲気を思い起こさせる。
この贅沢を極めた豪華な部屋は、ヴィルヘルミーナの為に用意されたものである。
イルマタルの案内に従って寝室から居間へ足を踏みいれた私は、内装を見渡し、その威風に一瞬気圧された。
前の世界で染みついた庶民根性が心の中で叫び声を上げる。こんな豪華な部屋で当たり前のように生活していた今までの自分が恐ろしい。
豪華なのは部屋だけではない。今袖を通しているゆったりしたドレスもまた、一見して最高級品と分かる。深い緑色の衣は肌触り滑らかで、広がった袖口や大きく開いた首回りには銀や金の糸で美しい刺繍が施されている。──これ一着が一体おいくら万円なのか考え出すと、今すぐプチプラワンピースに着替えたくなる衝動に駆られる。
私は内心の動揺を何とか抑えつつ、部屋の中央に立つ人物へと視線を止めた。
サラストス連合国宰相、ラーファエル=アルムクヴィスト。
彼こそが、私をアディンセル王国まで迎えに来てくれた人であり、現在の私の後見人でもある。
夏の空を切り取ったような水色の双眸に、太陽のような黄金の髪。長いストレートの髪は後ろで緩く一つに纏められていて、彼が動くと空気に乗ってふわりと揺れる。20代後半ほどの外見だが、実際の年齢はずっと上であることを私は知っている。端正で美麗な顔立ちは、整い過ぎていて冷たささえ感じるほど。ただ、私に向けられる表情は柔らかく、口元に仄かな微笑を浮かべている。
彼が身に付けているのは、サラストス連合国の文官お決まりの服だ。襟の詰まったシャツにゆったりした長衣を羽織り、腰を帯で締めた形である。宰相という官位の高さから、長衣には銀や白の糸で美しい刺繍が施され、黒の腰帯も金糸銀糸を使った豪華で美しいものだ。
彼の背後には、同じような文官服を着た男性がもう一人立っている。
宰相補佐官・エルネスティ=ラウティオラ。
背はラーファエルさんより頭半分ほど小さく、体つきも華奢に見えるが、れっきとした男性だ。
彼の顔立ちも非常に美麗だが、ラーファエルさんよりも中性的な印象を受ける。長い睫毛に彩られた緑色の大きな瞳は木漏れ日に輝く新緑のようだし、肩の辺りで切り揃えられた緩やかに波打つホワイトブロンドは、シャンデリアの光を反射して柔らかな光を放つ。
緑の瞳や明るい色の髪、そして長く先の尖った耳は、“森人族”という種族の特徴だという。いつか映画で見た、エルフと呼ばれる架空の存在を彷彿とさせる姿だ。
ラーファエルさん達は私を見止めると、ゆっくりと頭を下げた。
私は、“少し前の私”とは違う種類の緊張を全身に漲らせながら、イルマタルに案内されるまま部屋の中央にあるソファの隅にちょこんと腰を下ろす。
そのタイミングを見計らったように、部屋に待機していた少年が私の前にカップに入った香草茶を出した。
オリヴェル=ヘイスカリ。
イルマタルと同じく、私の護衛兼執事のような役目を担っている。
赤茶色のミディアムヘアに、理知的で端正な顔立ち。年齢は確か私やイルマタルより一つ上で、背は私より頭半分ほど高い。成長期に入りつつあるのか、ほんのり鋭さの見え始めた顔周りからは子ども特有のあどけなさが消えかけている。確か、彼は鬼人族と呼ばれる魔人と人間の混血だったと記憶している。
服装はイルマタルとお揃いの配色で、詰襟のシャツに前合わせの黒い上着、黒のズボン姿だ。
オリヴェルに礼を言おうとした時、静かな声が降ってきた。
「ヴィルヘルミーナ様、お加減はいかがでしょうか」
ラーファエルさんだ。
彼は、背後に従えたエルネスティさんと共に、私の斜め前の少し離れた位置に立ったままである。
私は何をどう答えたものかと考えながら、ラーファエルさんの顔をそろそろと見上げて恐る恐る口を開いた。
「あの」
瞬間、ラーファエルさんとエルネスティさんが揃って目を見開いた。
ラーファエルさん達だけではない、イルマタルも、そして傍らに控えているオリヴェルも、驚愕の表情で私を凝視している。
何故そんなに驚くのだろうかと怪訝に思ったところで、頭の中に過去の自分の態度が蘇ってきた。
サラストスに来てからの私の行動といえば、泣き、寝室に駆け込み、引きこもる、というのがお約束。誰かが少しでも近づけば怯えて逃げるし、まともに喋った記憶はほぼ無い。
その中でも、ラーファエルさんには特に酷い反応を示していた気がする。
目が合えば凍り付き、声を聞けば震え、近くに寄られただけで失神すること数回──今ラーファエルさん達が不自然なまでに距離を取っているのも、そうした数々の前科があったせいだ。
そんな繊細極まる精神の持ち主が、突然自分から話そうとしたのだ。驚かれるのも無理はない。
私の従者がイルマタルとオリヴェル二人だけなのも、そうした私の態度に原因がある。同じ混血であり年齢もそれほど変わらない二人だけを、私は信用し──と言っても他の魔人達と比べればという条件つきだが──、僅かではあったが会話も交わしていた。
「……だ、大丈夫、です」
恥ずかしさと申し訳無さでぎこちなく返した私に、ラーファエルさんはゆっくりと頭を下げた。
「…この度は、御身を危険に晒すような事態を招き、誠に申し訳ございません。この責任は全て私共にございます。つきましては──」
「い、いいえっ、そんなことは!今回のあれは、全て私の軽々しい判断によるものです。こちらこそ、皆さんにご心配とご面倒をおかけして…申し訳ありませんでした」
そもそも、あの事態を招いたのは、私の我儘が原因だ。
サラストスとエングルフィルドの関係を考えもせず、感情的になって彼らの謁見許可を求めたのは私。責任というなら、皆を振り回した私こそにある。
謝罪の意味を込めて深々と頭を下げると、背後にいたイルマタルとオリヴェルが息を飲むのが分かった。
エルネスティさんもエメラルドのような緑の目を丸くして私を見つめている。
ただ一人表情に変化が無いのはラーファエルさんだけだ。
「お気持ち、有り難く頂戴致します」
ラーファエルさんの空色の瞳が私を見つめる。
「ところで、ヴィルヘルミーナ様は先日の謁見の間での事件について、その後の対応や方針について関心はございますか?」
「教えてもらえるんですか?」
「少し長くなりますが」
「かまいません、お願いします」
私が食い気味に答えると、ラーファエルさんはほんの少し笑みを深めた後、ゆっくりと話し始めた。
「一昨日、サラストスはエングルフィルド王国に対する非難声明を関係各国に発信しました。エングルフィルドとの国交正常化交渉は無期限で凍結致します。サラストス国内においては開戦を望む者が少なくありませんが、国交断絶の方向で調整しております」
冷えたものが背中を走る。どうやら事態は一触即発だったらしい。
前に生きた世界では、某国の皇太子夫妻の暗殺事件が世界大戦にまで発展したことがある。
この世界での私は、サラストスでただ一人の魔王後継者──らしい。もし私がエングルフィルドの使者に殺されていたなら、今頃戦争に突入していたことは想像に難くない。
前の私も今の私も、戦争など望まない。最悪の事態は免れた事に安堵する。
「次にウィルフレッド第一王子につきまして。彼は現在事情聴取の為、貴賓牢にて軟禁しております。実際は“保護”と言った方が正しいでしょうか…ヘルマンニ騎士団長によればヴィルヘルミーナ様が“穏便に”とご希望されていたそうですので、現行の対応となりました」
貴賓牢──知識でしか知らないが、確かそう悪い環境では無かったはずだ。
私が頷いたのを見て、ラーファエルさんが話を続ける。
「実は、国内では彼を牢に監禁しいずれは極刑を、という厳しい声が上がっております」
「きょ、極刑!?それって、処刑するってことですか!?」
私は謁見の間でのやり取りをしっかり覚えている。彼は自国に裏切られ殺されるところだったのだ。そんな不幸な、しかも未成年者を処刑するなど考えられない。
「だ、駄目です!彼は何も知らない様子でした!今回の来訪も友好の為だと本気で信じていたんです!私を斬った使者の人の事も、本気で怒っていました!それに、彼も私と一緒にエングルフィルドの使者に殺されるところでしたし、彼の立場を考えれば責めるのは酷というか…道理に反するというか…あ、その、別に何か理由があって庇っているのではなく…事実で、あの、決して嘘ではないのです…本人に聞けば…分かります…」
勢い込んで声を上げたものの、ラーファエルさんから真っ直ぐに見つめられる居心地の悪さから、だんだんと尻すぼみになってしまった。彼が何も言わないのは、やはり私の話を疑っているからだろうか。それとも、既に刑が執行されると決まってしまっているのだろうか。
そんな不安を打ち消したのは、エルネスティさんだった。
「ご安心下さい、ヴィルヘルミーナ様。今のお話に関しての確認は済んでおります。ウィルフレッド王子の供述内容に虚偽が無い事も確認済みです」
「ヴィルヘルミーナ様のお気持ちは理解致しました。ウィルフレッド王子については当面は現状の待遇を維持することに致します」
エルネスティさんの言葉を、ラーファエルさんが継いだ。
彼等の言葉に、私は胸を撫で下ろす。これであの少年が処刑される危険は回避されたと見て良いだろう──あくまでも今のところは、だろうが。
「ありがとうございます…」
「ところで、ヴィルヘルミーナ様。ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「?はい」
「貴女とウィルフレッド王子ですが、我々が保護した時のお二人の着衣は、大変酷い状態でした。付着した血液の量や布の裂け方から推測するに、即死でもおかしくないほどの深手を受けたと思われます。ところが、お二人とも揃って全くの無傷。ウィルフレッド王子に確認しても、従者に斬られたところまでは覚えていましたが、その先については記憶がないそうです。ヴィルヘルミーナ様は何かご存じでしょうか」
私は、当時の自分とウィルフレッド王子の姿を思い出す。
あの時の私の姿は斜めにザックリと裂けた布とそれに付着した大量の血がゾンビ映画の被害者Aのようだったし、ウィルフレッド王子は時代劇に出てくる切腹完了した武士状態だった。見た人はさぞ驚いたことだろう。
ふと気づくと、ラーファエルさんが私を探るように見つめている。
何故そんな目で見るのか少し戸惑いはしたものの、別に隠す事でもないので、素直に回答することにした。
「……私、かもしれません。どうしたのか覚えていませんが、状況からするとその可能性が高いと思います」
それは、あの後改めて考えて出した結論だ。確証はないが、そうでもないと説明がつかなかったからだ。
「ヴィルヘルミーナ様は治癒魔法をお使いになれるのですか?」
「分かりません。実は、アディンセルでは魔法の練習はしたことがなくて…。ただ、ウィルフレッド王子の肩に手を触れて助けたいと願ったら、彼の怪我が癒えました。その後倦怠感に襲われたので、おそらく魔法が発動したのかと思っていたのですが…」
そう、確証が無かったのは、私が魔法を使ったことがなく、どういう感覚で行使し何がどう作用するものか全く知らなかったからだ。
座学では学んでいたから基礎知識はあるものの、私は未だに自分が実際にどういう魔法が使えるのかさえ分からない。魔人と人間の魔力量はかなり差があると聞いた事があるので、お祖母様は私の出自を怪しまれないよう、意図的に魔法を使わせなかったのだろう──今となっては推測しかできないが。
「あ、もしかしたら私の魔法ではなく、ウィルフレッド王子が無意識に魔法を使ったとか?治癒魔法が自動的に発動する道具を持っていた可能性もありますよね」
「いいえ。ウィルフレッド王子は治癒魔法を使えませんし、護身の類の魔道具も所持していませんでしたので、ヴィルヘルミーナ様が魔法で治したとみてほぼ間違いないでしょう。それにしても、まさか治癒魔法をお使いになれるとは夢にも思いませんでした」
治癒魔法とは、数ある魔法の種類の中でも稀だと言われている。
実践経験の無い自分がそんな稀有な魔法を発動させられたなど、正直なところ未だに信じられない。しかし本当に私が治癒の魔法を使えるとするなら、例え偶然であってもあのタイミングで発動したのは幸いだった。
もし私に何の力も無ければ、私もウィルフレッド王子も死んでいたのだから。
「…あの、ラーファエル、さん…」
名を呼んだ瞬間、ラーファエルさんの口元に浮かぶ微笑がほんのり深まる。
私の記憶が確かなら、“ヴィルヘルミーナ”が彼の名を口にしたのはこれが初めてだった。
「名前だけで構いませんよ」
「でも、ラーファエルさんは年上ですし…宰相様ですし……あの、色々とご心配をおかけしました。私は大丈です。それからエルネスティさんも、ありがとうございました」
すると、エルネスティさんの端麗な顔が花のように綻んだ。
ラーファエルさんは空色の瞳を僅かに細めるのみだったが、この呼び方で了承したということだろう。
「ご報告は以上です。お時間を頂き、有り難うございました」
「いえ、こちらこそ。わざわざありがとうございました」
私は挨拶を返しながら、ごくごく自然にソファから立ちあがった。半ば無意識である。どうやら前の人生で培ってきたビジネス対応は、私の魂──そんなものがあるかどうかは分からないが──にまで染みついているらしい。
「何かございましたら、今まで通りこの2人へお申し付けください」
ラーファエルさんが視線を向けた先には、オリヴェルとイルマタルがいた。私が振り返ると、2人はまるで示し合わせたように揃って私に目礼する。
目鼻立ちの整った美しい2人がこうして並んでいると、対の人形のようだ。
彼らはこの一年、“私”のそばでずっと身の回りの世話をし続けてくれていた。嘆き続ける私を気遣い、なるべく触れず、きめ細やかに接し続けてくれたのを、私はしっかりと“記憶”している。
「オリヴェル、イルマタル。よろしくね」
名を呼んだ瞬間、二人の目が大きく揺れた。
この一年、私は一体何を見てきたのだろう──オリヴェルの瞳がこんなに綺麗な橙色だったことも気付かなかったなんて。
「「はい」」
そう言って破顔する二人に、私もまたサラストスに来て初めてとなる笑顔を返した。