0章 ② 突然記憶が戻りました
日本生まれの日本育ちの生粋の日本人。そろそろ30代も半ばに差し掛かるくらいの年。
兄と弟の3人きょうだいの真ん中で、家族仲はそこそこ良かったと思う。
大学を出て不動産関係の企業に就職して、平凡だがそれなりの人生を送ってきた。
人付き合いはそこそこに。これといった趣味は特に無し。今年に入ってからグループ会社と合併する話が立ちあがり、最近はその事務処理で残業が続いていた。
お蔭で毎日夕飯はインスタントやコンビニばかり。
自炊もできない不健康な生活で疲労は溜まる一方。私は猛烈にストレスが溜まっていた。
その日、たまたまネットで見つけて気になっていた東北地方のご当地グルメで有名な某店が会社近くのデパ地下に初出店することを知った私は、財布とスマホが入った小さなバッグを手に必死に走っていた。
今考えると、どうしてあんなに食べたかったんだろうと思う。無性に食べたくて我慢できなかった。寝不足と疲労で変なテンションになっていたのかもしれない。
休憩時間は少ししかないから焦っていた。
百貨店の前の大通りに繋がる道手前に建つ遊技場から誰かが出てきた。この道は看板の位置が悪くて見通しが悪い。たまにスマホを見ながら歩く人にぶつかられることもある。
急いでいたけど、ちゃんと避けたんだ。
最後に覚えているのは、右脇腹に受けた強い衝撃と痛み、誰かの悲鳴。
あれ、もしかして最後じゃなくて、“最期”だったのかな───。
*****
私は、ずっと自分を人間だと思って生きてきた。
アディンセル王国でも名門とされる上位貴族・スウィングラー家。その女主人に深い縁のある娘『ヴィルヘルミナ=スウィングラー』──それが一年前までの私だった。
髪の栗色も目の青色も、お母様譲り。この色は私のお気に入りだったけれど、癖のあるくるくるした髪は手入れが面倒で、お母様の肖像画を見る度、どうして真っ直ぐな髪質まで似なかったのだろうと残念に思っていた。
スウィングラー家での生活は、今考えれば少し奇妙だったように思う。
私が生まれ育ったのは、アディンセル王国の東に位置するスィングラー領。その更に東にある、ディブレイクという小さな田舎町だ。
そのはずれにあるスウィングラー家の別荘の一つ──と言ってもそれはそれで大変立派な屋敷だが──に、前家長夫人であるお祖母様と共に住んでいた。
お母様は私が幼い頃に亡くなっていて、お祖母様が母替わりになって育ててくれていた。お母様の事はよく会話に上ったが、お父様のことは何も教えて貰えなかった。それどころか、お父様の件には触れてはいけないような雰囲気さえあった。
私の左手の中指にはいつの頃からか黄金色の石のついた指輪がはめられていて、お祖母様は常々「これは貴女を守るもの、決して外してはなりませんよ」と繰り返していた。
お祖母様は厳しかったけれど、とても優しい方だった。
貴族にしては非常に珍しく、私の世話を乳母や侍女に任せきりにしなかったし、時に自ら率先してマナーや音楽を教えてくれた。おてんばな私のために、外遊びや剣の真似事にまで付き合ってくれた。夜、お母様に会いたいと寂しがって泣けば、めそめそしてはいけないとたしなめながらも、結局は私を抱き締めて一緒に寝てくれた。
鳥籠のように社会から隔絶された田舎の別荘で、私は静かにのびのびと、ただ平穏に、基本的な学問や貴族としての教養を学ぶ日々を送っていた。
たまに耳にする使用人達の噂話は、変わらない日々に彩を与えてくれる良い暇つぶしになった。彼女達はディブレイク出身の平民で、貴族の婦女が口にしないことまで屈託なく話題にするのだ。
ちょっとした生活の知恵や、誰が誰と付き合っているといった色恋沙汰。それから、老齢の教師では教えてくれないような、魔人の恐ろしい話など──。
刺激の乏しい平坦な日々だったが、それでも私は、お祖母様と二人で幸せだった。
これからも穏やかな日々が続いていくのだと思っていた。
あの日までは。
まだ冬なのに、日差しの暖かい穏やかな日だった。
その日は何故か朝食の後に使用人全員が暇を取らされ、屋敷には私とお祖母様のたった2人きり。午前中はお祖母様のリクエストで鍵盤楽器を弾いていた。お祖母様が私にお願いするなんて稀なことだったから、嬉しくて一生懸命頑張った。
昼餐には少し早い時間、誰かの来訪を知らせる玄関ベルが鳴ったので、私はお祖母様と一緒に玄関ホールへ向かった。お客様が屋敷に来ることも、知らない方を出迎えることも初めてだったので、とても緊張したのを覚えている。
現れた客人は一人。屋敷の扉が閉まると、彼は人目を気にするよう目深に被っていたフードをゆっくりと外した。
見事な金の髪と空色の瞳を持つ、壮絶なほど美しい青年だった。けれど、彼の容貌に見惚れたのはほんの一瞬。私はすぐに彼の、人間のものとは違う先の尖った耳を見て目を瞠った。
魔人。人間の敵。恐ろしい存在。
魔人の中には、人間には持ち得ない美しさを持つ者がいると聞いた事があった。てっきり大袈裟な作り話だと思っていたが、この美貌を見れば事実であるのは疑いようもない。
だが、如何に美しかろうと魔人は魔人。この屋敷に一体何の用があるというのか?
狼狽する私をよそに、お祖母様は落ち着いた様子で金色の髪の魔人を応接間に案内すると、手ずから茶を入れてもてなした。顔色一つ変えず応対するお祖母様が、まるで見知らぬ誰かのように感じた。
二人は暫く何か話していたが、恐怖と動揺で混乱状態だった私は、どのような会話がなされたのか何も覚えていない。私はただ部屋の隅で、息を殺して立っていただけだ。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう、ふと会話が途切れたところで祖母様が立ちあがって私を振り返り、静かに言った。「その指輪を外して御覧なさい」──と。
戸惑いながらも言われた通り指輪を外すと、金の光がキラキラと立ち上って体の何処かが変化したような奇妙な違和感を覚えた。
お祖母様も、金色の髪の魔人も、私を無言で見つめている。私は不安で視線を泳がせた先、壁に掛かった大きな飾り鏡に映った自分の姿を見止め、愕然とした。
人間と同じだった耳の形は魔人のものに。
大好きだった栗色の髪は漆黒に。
そして青いはずの瞳は、人間ではあり得ない黄金色に──。
「ぃやあああああ!!!」
喉が裂けるほどの悲鳴を上げて、そこから先の記憶は曖昧だ。
気が付けば、馬の背で揺られていた。これから魔人の国・サラストス連合国へ行くという。
道すがら、金色の髪の魔人が経緯を説明してくれた。
私の父は第9代魔王・ヴァルデマル=ラウリカイネン。
そして私の本当の名はヴィルヘルミーナ=ラウリカイネン。魔王の血を引く唯一の者だそうだ。
一年前に父が亡くなったため、私を後継者とすべく迎えに来たのだという。
二人きりでの移動は、私にとって恐怖であり苦痛であった。おぼろげにしか覚えていないが、起きている間は泣き続け、疲れ果てて眠る、その繰り返しだったと思う。
金色の髪の魔人は私にもう一度指輪を嵌めて、人間の姿を偽装させた。彼も同じように姿を変化させていたと思うが、正直記憶に無い。
移動にはおそらくひと月ほど掛かったと思う。その時の私にとっては、永遠にも等しい時間だった。
魔人と共に過ごす恐怖と初めての旅の疲れで、サラストスに到着した時の私はすっかり憔悴しやつれきっていた。
それからの私は、用意されていた素晴らしい部屋にも、最高級の衣服にも、料理にも、人々の存在さえも目に入れず、ただただ毎日を泣いて過ごした。怖くて、寂しくて、堪らなかった。お祖母様に会いたい、国に帰りたい、そればかりを繰り返して悲嘆に暮れて、悲しみがようやく落ち着いた頃には魔人に対してすっかり心を凍てつかせていた。
サラストスに来てから、私は何度か金色の髪の魔人から式典や儀式等への出席を問われたような気がする。だが私は詳細を聞くこともなく拒否をし、強引に出席させられる場合には体調不良を装いすぐに退席してしまった。
私は、魔人が怖かった。
お祖母様や慣れ親しんだ家から引き離したサラストスが嫌だった。
誰にも会いたくなかった。
魔人の血が流れる自分自身が嫌でたまらなかった。
部屋に籠り続け、ほとんど口を利かない日々。
そんな折、人間国から使節団が来ると聞いて、私は否もなく飛びついた。国の為でもなんでもない。ただ“人間”と話をしたかった、それだけの理由で。
使節団のことを教えてくれたのは、またしても金色の髪の魔人だった。彼はきっと形式上報告しただけであって、まさか私が反応するとは思いもよらなかっただろう。
聞けば、使節団はエングルフィルド王国のものだという。
エングルフィルド王国は、故郷アディンセル王国の盟友であり、人間国の雄。恐ろしい魔人達の悪行にも退かず、人間の為に戦う勇敢な正義の王国。
エングルフィルドはきっと、道を誤る非道な魔人達を諭す為に使節団を派遣したのだ。直接会って話せば、彼らはきっと私の境遇を気の毒がり、理解してくれる。きっと笑顔で相対してくれる。
魔人の国に来て初めて、私は強く願った。
エングルフィルド王国の者と直接会いたい、できれば話もしたい、そうでなければ二度と食を口にしない、今すぐに死んでも良いとまで言い切って。
そして、結果はあの通り──。
*****
目を開けると、ベッドの中だった。
頭の芯がズキリと痛む。
会社勤めをしていた頃によく体験した偏頭痛に良く似ていると思い、小さな笑いが込み上げてきた。
今寝ているベッドは、キングサイズより更に一回りは大きい立派なものだ。
お布団はふかふか。シーツはサラサラ。四方は薄いカーテンで囲まれていて、上を見上げると美しい星空の絵が描かれていた。このベッド、大変立派な天蓋付きだ。四方を支える柱の細工の見事な事。
これほど豪華なベッドは、前の人生でも見た事がない。今までは与えられるままただ使ってきたけれど、この素晴らしさを感じられるだけでも庶民の記憶を思い出せて良かったかもしれない。
私はぼんやりと天蓋の絵を眺めながら、自身の記憶を一つ一つ整理していく。
ここはサラストス連合国。人間ではない者達──いわゆる“魔人”の国だ。
対するエングルフィルド王国は人間至上主義を掲げており、サラストスと長年にわたる因縁の間柄だった。
ところが先日、エングルフィルドは両国にとって初となる国交正常化交渉を提案してきた。その代表が第一王子であった為、サラストス側はエングルフィルドの申し出を信用し、受諾。そして謁見の間にて私が現れ一通りの挨拶を終えた瞬間、私はエングルフィルドの使者らと共にあの白い壁の中に囚われ、直後、斬りつけられた。
死を覚悟したあの時、私は前の世界の事を思い出した。
遠ざかる意識の中で、私は確かに“私”と目が合った。
表と裏がくるくる回るように、前世の記憶は今の意識と混じり合い、溶けていく。
異世界と異世界。大人と子ども。平凡な庶民の女と、魔王の娘。
相反する2つがどう作用したのかは分からない。
とにかく私はその二つの記憶、魂、感情がぶつかった瞬間、“私”になったと思う。
日本での生活。家族。友人。学校。就職してから始めた独り暮らし。パズルの断片のようだった知識達は、今はすっかり過去の自分の人生の記憶として完成していた。
今の私は過去の私の延長であるような不思議な感覚だが、違和感は無い。もしかすると、眠っている間に頭の処理が済んだのかもしれない。そこまで考えてふと、自分は果たして一体どれくらい眠っていたのだろうかと思い至る。
そういえば喉がカラカラだ。ついでに貧血のような目眩が酷い。
ふらふらと定まらない体を腕で支えながら何とか身を起こし、天蓋から垂れ下がる薄いカーテンへ手を伸ばそうとした矢先、悲鳴のような声が飛んできた。
「姫様!気がつかれましたか!」
現れたのは、西洋人形のような美しい容貌の少女だった。
抜けるような白い肌に、目尻が垂れ気味のくりくりお目目。ピンクゴールドの髪は内側にカールしたショートボブで、彼女にとても良く似合っている。人間には持ち得ない尖った耳と、宝石のような美しい真紅の瞳。
詰襟の白シャツに、前合わせの黒の上衣とひざ下丈のスカート、幅の広い灰色の帯。東洋と西洋をごちゃまぜにしたような服は、確かここでは侍女が着る制服のようなものだったと思う。
私はこの少女を知っていた。
私専属の護衛兼侍女であり、私と同じ混血児の──。
「イルマタル=ヤルヴェラ…」
「は、はい、姫様!」
イルマタルは一瞬戸惑いを見せた後、喜色満面で瞳を潤ませる。
「姫様、どこか痛むところはございませんか!?」
「あ…ケホッ」
咽た瞬間、イルマタルがグラスに入った水をすかさず差し出してきた。
水を口に含み、ゆっくりと飲み下す。思ったよりも喉が渇いていたようで、私はあっという間にグラスの水を空にしてしまった。
「ありがとう、助かったわ…」
その途端、イルマタルの人形のような可愛らしい顔がくしゃりと歪んだ。
「ひ、姫様……っ!」
「え、あ…え!?」
「うあああああん!ひっ、びめざまぁあぁ…!ごぶじでっ、よくっごぶじでぇぇ…!ごのいるばだるぅぅっ、づぎば!づぎばぜっだいにぃぃぃおぞばをばなればぜんんん~!!」
ベッドの端に突っ伏して号泣し始めたイルマタルを見て、私は驚きのあまり固まってしまった。
何故なら、今までの彼女はほとんど表情を変えず言葉も滅多に発しない、等身大の人形のようだったから。
彼女の大きな泣き声が部屋の外にまで漏れ聞こえて、私が目覚めた事を知った人達が動き出したのは、そのすぐ後の事だった。