1章-9 遠い世界
人間の国の高位貴族は通常、一人にされることは無い。その年齢を問わず四六時中侍女や使用人が傍や隣室に控えていて、逐一世話を焼くのだ。私もその例に漏れず、アディンセルの自室には使用人用の続き部屋があって、常時侍女が待機していた。
一方サラストスの場合、魔王やその後継者であろうと、側仕えや侍女侍従を常時置き続けるという人間の王侯貴族的習慣はあまり無い。格式より自由を重んじた結果なのか、必要なら都度呼び寄せれば良いというおおらかな雰囲気がある。
サラストスに来た当初、私には専属の使用人が何人も付けられた。おそらくアディンセルで生まれ育った私に配慮してくれたのだろうと思う。しかし私が魔人を極端に恐れたため、使用人は一人また一人と数を減らし、最後はオリヴェルとイルマタルの二人だけになってしまった。
年齢が近く、しかも同じ混血である彼らにだけ、私はほんの少しだけ心を開く事ができた。警戒心や怯えはあったものの、一日に二言三言程度の最低限の会話は交わしていた記憶がある。
しかし、それは本当に最低限であって、到底まともな関係とは言えないものだった。
私は毎日泣いてばかりだったし、ちょっとしたことで倒れるし、ろくに食べない日が続くこともあった。
イルマタルとオリヴェルは、そんな私を見捨てるどころか、毎日甲斐甲斐しく世話をしてくれた。そのうち、二人は昼だけでなく夜間も日替わりで私を見守り続けてくれるようになった。当時はそれを疎ましくも思っていたが、今改めて考えると、アディンセルの貴族の生活形式に合せようとしてくれたのだろう。もしかすると私の状態があまりにも酷すぎて目を離せなかったのかもしれない。
謁見の間での事件後、二人が夜も交代で待機しているのを知った私は、エルネスティさんにお願いしてすぐに止めてもらった。成長期に不規則な生活をさせて体を壊して欲しくなかったからだ。
ところが、当の二人は私の提案を何故か拒否。今後も是非夜間待機を続けたいと言う。
困った私が再度エルネスティさんに相談すると、小さなベルを用意してくれた。持ち手に瀟洒な細工が施された黄金のそれは呼び出し用の魔道具で、イルマタルとオリヴェルに音が届く仕組みになっている。夜間はこのベルを傍に置くというのを条件に、二人には何とか夜間勤務を止めるのを納得してもらった。
そして現在、二人は私の起床時間に部屋を訪れ、就寝支度が終わると退出する。
本音を言えば、この広い部屋でたった一人夜を過ごすのは少し寂しいが、一人暮らしの経験を思い出してやり過ごしていた。
夜、イルマタルとオリヴェルの二人が退出した後、私は暫く寝室のベッドでゴロゴロしていた。
仰向けに寝転ぶと、天蓋に描かれた美しい星空が目に入る。金や銀で描かれたその絵は、サイドテーブルに置かれた魔導灯に淡く照らされて、昼間よりも一層幻想的に見えた。
私は星空の絵を眺めながら、最近の出来事を振り返る。
部屋に閉じこもるのをやめてから、もう二ヶ月は経つだろうか。
このところ、トゥーリッキ先生の座学では学問的な授業をする割合が増えてきた。当初は文化や風俗といったサラストスの常識に関するものを教わることが多かったが、イルマタルとオリヴェルが机を並べるようになって以降は、全体の三分の二くらいがいわゆる“勉強”だ。オリヴェルはそつなくこなしているが、勉強が苦手なイルマタルは毎回半べそで取り組んでいる。
魔法と剣に関しては、相変わらずの地獄コース。ヨウシア先生は笑顔で鬼のような練習を指示してくるし、ティルダ先生にはまるで狙いすましたように魔力切れギリギリまで追い込まれる。正直とてもきついが、実際自分でも分かるくらい剣の扱いも魔法の操作も上達しているのだから、文句のつけようはない。
しかし、どんなに上達が自覚できても訓練がきついのは事実。もし私一人でこの練習内容だったら、早々に音を上げていたかもしれない。今も継続して頑張っていられるのは、イルマタルとオリヴェルが一緒に取り組んでくれているお蔭だ。
私はごろりと寝返りを打って、真鍮製の置時計に目を向けた。
もう随分遅い時間だ。
この世界、一年の日数や時間、数字の概念が前の世界とほぼ同じなのでとても分かりやすい。
「明日も早いのになあ…」
眠らなければと思えば思うほど、目が冴えてしまう。
どうにも眠れそうになかったので、私は仕方なくベッドからのそのそと起き上がった。
季節はもう春も終わる頃だが、夜の風はまだ少し冷える。私はゆったりした襦袢のような形の白い寝間着の上に、光沢のある薄手のガウンを羽織った。足元は、ふかふかした布で出来た突っ掛けのような室内履きのお蔭で温かい。
寝室から出て居間に入ると、部屋の中はバルコニーに続く窓から差し込む薄い光に柔らかく照らされていた。夜に慣れた目には、灯りを付けなくても十分なほどである。
窓を開けると、花の香りをのせた風がふわりと髪を揺らした。
この世界の夜は、電気のような強い光に溢れていた前の世界よりもずっとずっと濃い闇が支配する。
私はバルコニーに出て、眼下に広がる景色を眺めた。
暗がりを照らすのは、庭園のあちこちに立つガス灯に似た柔らかな灯りと、たまに城の窓から零れる小さな明かり。魔導灯と呼ばれる魔法による灯りは、電気のような強い光とは違って目に優しく、何故かどこか懐かしい気持ちにさせる。
ふと空を見上げると、丸い月がぽっかり浮かんでいた。
知っているはずなのに、知らない月だった。
この世界で学んだ星座と前の世界で覚えた星座は、前の世界のものと並びも名前も何もかも違う。お月様の中には餅つきするウサギなんていないし、“お父さん”が昔教えてくれたWみたいなカシオペアも、ひしゃくみたいな北斗七星も、この世界には存在していない。
同じような形の花はあっても、それはきっと違うモノ。
私のいた世界とこの世界は、宇宙の果てよりも遥かに遠いところにあるのだろう。
ここでもやっていけるのだ、大丈夫、死んだのかな、夢かもね、なんだか分からないけどきっと私は大丈夫──夢と現を曖昧にして心の何処かを逃避させても、こうして事実を目の当たりにするたび打ちのめされる。
この現実は、紛れも無い現実なのだと。
夜、部屋に一人きりになると、過去の私が顔を出す。
お父さん。お母さん。兄さんと弟は元気にやってるかな。
やり残した仕事もあった。友人もいた。連絡途中の知人もいた。小さいけど、積み重ねてきたものが確かにあった。
───あの日、全部消えてしまった。
分かっている。
自分は死んだ。あの人生は既に終わったのだ。
なのに、一人になってふと気を緩めた瞬間襲ってくる焦燥感。家族への思慕。
「………意外ときついわ…」
自分の精神は大人なのだからこれくらいきっと耐えられると思っていたのに。
突然外国に嫁入りしたようなものだと思えば大丈夫、などと高を括っていたのに。
もしかして、子供のヴィルヘルミーナの精神と合わさって幼くなっているのだろうか?
「……ぅ」
知らない空が怖かった。
知らない世界にただ一人放り込まれてしまったような孤独感で、押しつぶされそうだった。
頼れない。大人だから。でも、子どもなの。分からない。ねえ、聞いてよ。
縋りたいと思い出した人は、昔の家族とお祖母様──それに矛盾すら感じない自分は、やはり頭のどこかがおかしいのだろうか。
刺された時は、痛かった。
斬られた時は、熱かった。
あの恐怖を、唯の夢だとは思えない。
あの世界は実際にあって、だから今自分は此処に居て──でも、前の自分が確かに存在していたと証明するのは、一体何?
誰かに打ち明けて、この孤独の欠片でも分かってもらいたいと思ったことはある。
しかし、前世がどうのという荒唐無稽な話を一体誰が信じるというのか。この世界が前の世界にとって幻想世界であるのと同じく、前の世界はこの世界の者から見れば不可思議に違いない。
瀕死の重症から復活して引きこもりから脱却した矢先だというのに、気が狂ったなどと思われたら目も当てられない。イルマタルやオリヴェルを心配させるのも、ラーファエルさん達に迷惑を掛けるのも、もう沢山だ。
「…言えないよね、さすがに」
呟いて、もう一度天を仰ぐ。
また痛い思いはしたくない。
また死ぬのは御免だ。
生きたいなら、その為に努力するだけだ。
「……だいじょうぶ。だいじょうぶ」
私は大丈夫。
目を閉じて、繰り返す。
イルマタルがいる。オリヴェルがいる。エルネスティさんもいるし、ラーファエルさんもいる。先生達も良くしてくださる。
私の毎日は充実している。
だから大丈夫。
「さびしく、ない」
右手の平を胸に当てて、深呼吸を繰り返す。
ざわざわと波打ちかけた心が少しずつ鎮まっていくのを感じながら、私は最後にもう一度深く息を吸い込み、吐いた。
「───よし。明日も早いし、いい加減もう寝ないとね」
わざと明るい調子で独りごちて、無理やり気分を上げる。
部屋に戻るため踵を返した私は、自分の背を誰かが遠くから見つめている事に、最後まで気付くことはなかった。




