~ 星は額と記憶の中で瞬く ~
思っていたよりも早くに上げられました。良かった…。
文中にライトですが嘔吐表現あります、ご注意を。
最近私の側を知らない女たちが囲っている。
話しかけてくるが殆どは人語を解しているようで全く話が通じないのだ。
とても恐ろしい、一体どうしてこんなことになった…。
とにかく家に帰りたかった。
だが、時々ここから抜け出しても気が付けばまたこの真っ白なベッドへ戻される。
何度抜け出しても罰を与えられることがないことが唯一の救いだが、これではいつまで経っても帰れない。
近頃は脱出する体力すらない日の方が多いのだ。
時間ももうないことはわかった。
早く、早く、ここから抜け出して、会いに行きたい人がいるのだ……。
***
折り返すようになっているレンガ造りの階段をひたすらに登る。本来正式な入口は階段ではなく機械仕掛けのエレベーターで日々地上と地下の橋渡しをして多くの人々を運んでいるのだという。
「あの、ヒリューさん、いいですか?」
「なんだい?…といっても想像にかたくないがね。セシリアとの合言葉の件だろ?」
軽く笑い飛ばしながらヒリューは語った。ただ、シエルには笑えるような気分にはなれなかった。
「その、本当に言ってしまってよかったんですか?俺たちが言うことでは無いかもしれないですけど……」
「……いいんだよ。こんなことより、君たちの安全の方が重要だ。ユーヤくんの問の件もあったしね」
「………」
ヒリューはユーヤの方をちらりと見たが、ユーヤは変わらず無言を貫くのみであった。
「こんな場所で申し訳ないが、改めて自己紹介をしたい」
ヒリューは階段の途中で立ち止まり、くるりと反対を向いてシエルたちと向き合う。そのまま帽子をとり、恭しくお辞儀をした。
「俺の名前はピーター・リューズ。世界で最も高名な作家グレイ・リューズの一人息子だ」
シエルは何も言えずに先程のセシリアとのやり取りを反芻する。
✧
「そりゃそうだ、世に出されてないんだから。この自伝は人の目に触れることなく主人、いや『父親』と共に滅びるはずだった…。でも、生き延びた、こうしてね」
セシリアはカウンター前で荷物を整理しているヒリューの背中を指さしながら答えた。
「『ピート我が星よ』。グレイにしては大して練られても無い在り来りなタイトルだ」
「それは、え?もしかしてヒリューさんのことを指してます…?」
「もしかしても何も無い、あの人の事だよ。まぁ、ピートは愛称で本名はピーターだけど」
セシリアは話の途中にもかかわらず、本がぎっしりと詰まった小さな本棚をグイグイ押してずらした。
本棚の裏に隠れていたのはさらに小さな隠し扉だった。ポケットから取り出した小指ほどの鍵で金庫を開ける。
中から取り出したのは装丁もされていない手書きの原稿用紙の束。
「それ……」
表紙となる部分には先程のタイトルがお世辞にも綺麗とは言えない字で記されている。
「グレイ、字汚いでしょ。これくらい暴れてないとあれだけの本出版できないからね。これは中でも1番の暴れ馬なんだ」
セシリアはそれをぎゅっと抱きしめてから元のとおりに戻していく。
「ウチはあの原稿が大好き」
「どこが好き…なんですか?」
「父親からの愛を一心に受けているところ」
その時のセシリアの表情は愛する人を思うような、大切な人を思い出すような、まさに恍惚とした笑顔だった。
✧
まず口を開いたのはユーヤだった。
「なぜ偽名を?いいえ、一番聞きたいことは“そこ”ではない。あなたは“何故死んだことに?”」
ピーターは諦めたように息をついて頭をかいた。
そう、セレラルで出発する前にヒリューが尋ねていた墓には彼の本名が刻まれていたはずだ。
確かに、死んだことになっているというのはどういうことなのだろうか、とシエルも深く頷く。
「………俺が軍の人間だったことは知ってるか?うん、ある時そこで命令違反をしたんだ。下された処分は極刑、殺されるはずだった」
「ただの命令違反で極刑…?どんな命令違反をしたんですか…」
「俺の一存で命令を反古にして、とある人への恩返しをしたんだ。……それが上官の神経を逆撫でしてしまったのさ。死を覚悟していた。けれど、レナードがそこを救ってくれたんだ」
突然現れた父の名前にシエルは目を見開いた。
「親父が………」
「ああ。背格好が似ている死体を利用して首を切り落として死を偽装してくれた。“俺の墓”に首がないのは、そのためだ。全く、今も彼には頭が上がらない」
「それが、親父とヒリュー…ピーターさんの出会い……?」
「いいよ、ヒリューのままで。ピーターは既に死んだ人間だ」
ヒリューはくすくすと笑う。
「うん、そうだね、レナードとマトモに会話したのはその時が初めてだったな」
「あ、そうか、年代がひとつ違うって母さんも言っていました」
「年代は確かに違っていたけれど、どちらの意味でも彼は目立っていたからな。まぁ、レナードの名はあそこの学校出身者は大体知ってる」
そんなにも有名人だったとは、シエルは父のかつての姿を思い返すと想像が出来なかった。
しかし、実家の場所自体が、まるで世間から隠れているような場所だ。理解が深まったようで、なんだかより溝が深まったような気がするのは何故だろうか。
「サラちゃんの前では誤魔化してしまったけど、この際だから言ってしまうか。ギルバート氏はね、俺の父とは知己で、その関係でよく家に尋ねてきていたんだ。逆に尋ねることもあったかな。俺にもとても仲良くしてくれた」
ヒリューはゆっくり階段をあがり始める。それに続いて、シエルとユーヤも止まっていた足取りをようやく動かし始めた。
「『ピーター』が死んだ今、俺に残されている価値はギルバート氏とのコネくらいさ」
「グレイの息子と公言してしまえばいいじゃないですか。なぜしないんですか?」
「君たちが産まれる前のことで、しかも他国の話だから、知らないと思うんだけど…アーレットでは大規模な社会的制圧が起こったんだ。『文化廃棄政策』、字のままだよ。戦争に向けて科学や発明といった実学を優先し、娯楽や文化を中心に弾圧したんだ。『グレイ作品』はその最たる対象だった」
ヒリューの言葉と3人の靴音だけが狭い空間の中でただ反響している。
シエルとユーヤは思わず息を飲んでいた。
セレラル出身とはいえ、これでも今はアーレットの辺鄙な場所にある学校へ通っている。この事実を知らなかったのは、偏に勉強に対して精力的ではなかったからだろう。
今思えば、図書室にあるものは小説はほとんどなく、偉人を取り扱った伝記や研究書、専門書、『世界史書』がほとんどだったような気がする。図書室なんてほとんど近寄らなかったから全然気づかなかった。
博識なサラならば、すぐに気が付いていたに違いない。
「一時はみな楽しそうに父の書いた本を読み、語り合っていた。けれど、気が付けば本の行く末は裏路地のゴミ置き場か、公園で大々的に行われた焼却処分だった」
「……ひとつ引っかかります」
口を開いたのはユーヤだった。
「今まで誰もがその作品を読んでいたのに、政府が弾圧政策を行っただけでみな本を捨てるんですか?そんなことありえない」
「まぁ、そう思うよな。ただ、これは単純な弾圧政策じゃない、『グレイ作品』を殺すための政策だ」
「どういう事ですか…?」
「因みにこれは俺の持論じゃないぞ。アーレット人は恐らくどの国民よりも愛国心が強い。逆に言えば、国の裏切り者には容赦がない、ということだ」
その言葉を聞いてユーヤは思わず鼻で笑う。
「まさか、国の裏切り者とする誤報を流し、その地位を貶めたとでも?政府にとってメリットがない。よっぽど精神操作を狙った作品を書かせた方がいいのでは?」
「お前すごくえぐいこと言うじゃん……」
「…誤報じゃない」
予想もしていない言葉が帰ってきて、2人の表情は一瞬で固まった。
「俺の父は国を売ったんだ…これは事実だ。“だからそうなった”。……反響は凄まじかった。当然の事ながら、本人だけじゃなく、家族にも影響が及んだ」
「だから、あなたはセレラルに…」
「まあ、母がセレラル人だからな。衣食住は問題なかったが、やっぱりこの茶髪のせいでセレラルは俺を早々に受け入れることは無かったよ」
シエルは同じような経験を思い出して胸がズキっと痛む。声を絞り出すが、いつもの何倍も苦しい気がした。
「ヒリューさんはどうしたんですか?その、馴染めない世界で…どう生きたんですか」
「……………正直、この茶髪が嫌いだった。俺はアーレットが好きだったから、全てのことが気に食わなくて、夢の中で何度も父親を殺した。黄色に髪を染めて無理やり馴染もうとしたこともある」
今にも破裂してしまいそうなピリピリとした空気が辺りに漂っている。そんな今の緊張を一瞬で緩ませるように、ヒリューはふっと息をついた。
「でもまあ、ある人と出会ってね。そういう人との違いも、父のことも、許せるようになったよ」
「その人って………」
「もう随分前に亡くなってしまった。その人はいつもシンボルマークの赤いマフラーをしていてね」
シエルはそのときふと合点がいき、思わずあっと声を上げた。
「赤色のベストとか、ストールとか、アクセサリーが多いのって……」
ドキッとしたように肩をビクつかせてヒリューは後ろを振り返り、照れくさそうにはにかんだ。
「わかっても言わないでくれよ……」
いつものヒリューの雰囲気に戻ったような気がして、感じていた重厚感から解放される。
「もしかして、セシリアさんと出会ったのってグレイ作品からですか?」
「うん、まあそんなところかな。実家にあった父の遺品を保存する場所がほしくてね。あのパブを用意して保存してもらっている。本人が満足しているからいいのだけど、結果としてセシリアのことを利用している形になってしまった」
「だから自伝のことも、ヒリューさんの本名のことも知っているんですね」
「そういうことだ。あらゆる人が父の作品を捨ててしまってからは、随分“グレイアン”の人口も減ってしまった。アーレットにおいて彼女のような存在は貴重だよ」
ふと気になってシエルは尋ねる。
「そういえば、ギルバートさんとグレイ…さんは昔からの友人って言っていましたよね。ギルバートさんはその政策をどう思っていたんですかね…」
「そのあたりは俺もよく知らない。幼いころのことでもあるし、仕事ばかりの父と交流はあってないようなものだったから。ただ、そんなことがあっても、セレラルに移ってからもずっと俺のことを経済的に支援してくれていたんだ。本当に、言葉にならない程に感謝している」
「それなのに、なぜ最近は会っていなかったんですか?」
ヒリューは顔は振り向かずに頭をポリポリと掻く。
「なかなか、鋭いところを突くよね…」
「えっ、あ、もしかして聞いちゃいけないこととか…?」
「いや、いや…大丈夫。そうだね、理由は簡単だ。ギルバートさんから断られたからだ」
「え、で、でも経済的支援は継続していたんですよね?」
「ああ。その礼もかねて会おうと思っていたんだが…断られてしまった。その理由は…良くは分からないが、俺は瞳が母に、髪色が父によく似ていて、故人を思い出してしまうとか、その辺りじゃないかな」
「まあ、確かにそういう経緯で無くしてしまうと、会いづらくなるのもそうですよね……」
「それか、直接会うと体裁が悪くなる、とか」
少し息を切らしつつ、意地悪そうに鼻で笑ってユーヤがポツリと告げる。慌てたようにシエルはユーヤの肩を小突いた。
「お、おいばか」
「いいや、別に気にしてないさ。いくらでも想像出来てしまうからな。俺は……長い間お世話になった彼を信じたいだけなんだろう……」
「そ、そりゃあそうじゃないですか!!」
思わずシエルは声を荒らげてしまった。声が何度も反響する。
「お世話になったんでしょう!大切な人なんでしょう!なら、信じたくて当たり前、というか……それが人情……というか……」
「はは、そこは、自信もって言ってくれないと」
軽快にヒリューは笑って答えた。きっともう本当に気にしていないのだろう。
「………ありがとう」
ユーヤが放った言葉は、きっともう幾度もヒリューの中で繰り返されたのだろう。見ないようにしてその度に蓋を閉じた回答だったに違いない。
だからこそ、だからこそ最後にポロリと溢れ出た感謝の言葉は酷く重く、安堵に満ちたものだった。
*
はじめは何ともなかったが、流石にここまで長く休まず上り続けていると体力的に厳しいものがある。体力に自信があるシエルで若干呼吸が浅くなってきたころなのだから、年が倍ほど離れているヒリューには厳しいところだろう。いや、むしろここまでよく持っている方である。
「……確かに、こんな長い階段を、昇り降りなんてしてたら、自然に体力付きますね」
シエルが若干息を切らしながらポロリと漏らす。
ほとんど口を開かないので気が付かなかったが、背後から少し遅れてユラユラ無言でついてくるユーヤには限界そうだった。
「………そうだね。でももう、俺も歳だからかなりキツいよ………」
もう俺がここ使うのはコレっきりかな、とついでに呟いている。そうだ、この人はもう38歳で、スポーツマンでも兵士でもなくただの研究者だ。それだけでここを使って何度も通っていたならば相当だ。
シエルは素直に感心してしまう。
「…多分、そろそろだ」
言われて気付く。少し煙たいような匂いが徐々に強くなっているようだった。
元々かすかに匂っていたこれはアーレット特有の蒸気機関の匂いなのだろう。それがはっきりしてきた、ということはつまり地上が近い、ということだ。
「一旦、ここで止まって」
そう制されて立ち止まる。といってもユーヤはまだ後ろの方を歩いているのだが。
「ここからは俺が1人で行く。分かってるね?」
額に汗を滲ませながらヒリューはにっと笑った。
そうだ、忘れていた。列車の中で聞いた3つ目の話、つまりはここから出た後の話だった。
『3つ目は出口から出てからだ。安全かどうかを確認してから君たちを呼ぶ。ここで気を抜いて捕まる、なんてことはごめんだからな。ユーヤくんを見守るためにも、2人でしばらく待っていてくれ』
「はい。ここで待ちます」
「いい子だ。個人カブに声をかけてまた戻ってくる。もし何かあったら…」
「セシリアさんのパブへ戻れってことでしょう?」
「うん、そうだ。俺のことは構わなくていい、自分のことは自分で守れるよ」
それだけ言うとタンタンタンと小走りに階段を上がって行ってしまう。本当に、あとは彼を待つだけだ。
ふう、と息をついて階段に座り込む。歩き通しだったからか、まだ心臓はバクバクと脈を打っている。
「……なに、先に休憩してるのさ……」
階下から恨み言が聞こえてくる。
「なら、お前も早く来ればいいじゃんか」
違うか?とでも言うように笑い飛ばすと、反発するように小さく舌打ちが聞こえてきた。
ユラユラともたつきながらシエルの足元に到着すると、魂でも抜けたかのように座り込み、壁に寄りかかった。
「ハァ……ハァ…………」
「意外だな、てっきり体力とかもあるのかと思ってたよ」
「………ぼ、僕は、体力勝負は…苦手なんだ…」
「ふーん……確かにお前って足は早いし身軽だもんなあ……」
ちょっとの取っ掛りを見つけて木もスルスルと身軽に登ってしまう姿が思わず目に浮かんだ。いつまでも逃げるより、隠れる方が生存確率は上がりそうだ、とシエルも納得する。
「そろそろどうだ、呼吸も落ち着いてきたか」
「……まぁ」
ユーヤはポンチョの下に隠れて下げていた小さな皮のボトルをぐいっとあおる。
「いいな、水…。俺にも分けてくれたり……」
「しないよ」
「ちぇ……」
しばらくヒリューは戻ってこない。特に沈黙が苦になるという訳では無いのだが……。気がつけばシエルはユーヤに問いかけていた。
「お前の親父さん…えーと、セーヤ、さんだったよな。どんな人だったんだ?」
ドキッとしたようにユーヤは肩を震わせるだけで返事が返ってこない。
(話したくないことか…?)
思えば、ユーヤとはそんなことばかりだ。いつまでも確信に迫ることは聞けない。
「俺の親父はさ…」
代わりに自分が話を始める。別に返事を期待した訳ではなかったからどうということはない。
「親父は、いつも誰かのヒーローなんだ」
その言葉に酷く反応してユーヤがコチラをようやく見た。少ししてやったり、という気持ちと共に言葉を続ける。
「よく家を空けて仕事をしに行っていた。よくは知らないけど、時々してくれる話はいつも誰か困った人を助けていたんだ。身近な俺でもサラでも母でもない見知らぬ誰か、だけど俺はそれが嬉しかった」
「……君はそれでいいの?だって、自分じゃない誰かを助けてるんだ。独り占めしたくならないの?」
そうした言葉が返ってくると思わず、キョトンとしてしまう。そしてすぐにぷッと笑う。
「笑うなよ…」
「いや、独り占めしたいよ、したいに決まってるじゃん」
当たり前だ、きっとこの感情はありふれたものだ。
「でも、その気持ちは俺には言えないな。もう、いい加減大人にならないと…」
ユーヤは何か言いたそうにしつつも、小さくふーんとだけ呟いて、また正面に顔を向けてしまった。
「で、ユーヤの親父さんは?俺も話しただろ?」
「そっちが…勝手に話してきたんだろ」
「はは、バレたか……。ま、無理にとは言わねーよ」
そりゃそうだなと思い少し外を見るかと腰を浮かした時、
「父さんは、本当は明るい人だったんだ」
ユーヤから思いがけず話が始まった。浮かした腰を落としてシエルは相槌をうつ。
「そうなのか」
「本当はよく笑えていたはずだった、人から好かれるような人だったはず、嘘が下手で、何をするにも不器用だったんだ…」
ユーヤの言葉に何か、違和感のようなものを感じた。
「………僕とは、違って」
ユーヤは今の自分の姿に納得がいっていないのだろうか。なりたい理想の姿を父に重ねているのだろうか。何となく親近感が湧くような気がした。
ただ、それでも尚違和感は心にしこりとして残り続けている。
「……確かに、お前とは正反対だな。尊敬してるのか?」
「………どうなんだろう」
ぽろり、と漏れ出た一言は何も繕ってなどいない、純粋でまっさらなユーヤの本心だった気がした。
「そういう人だったっていうだけだよ。ただの事実の列挙。それを鑑みて自分は……なんて…考えたこと…」
言葉が尻すぼみになっていく。
「俺は親父のこと尊敬してる。でも、結局親父の代わりにすらなれなかった。ヒーローには…なれなかった」
「………」
「案外、似た者同士かもな、俺たちは」
ゆっくりこちらを振り向いたユーヤと目が合う。
「そ、れは………」
「待たせた!…え、何この雰囲気……」
息を切らして階上からヒリューが顔を覗かせる。彼は無事にカブと合流が出来たようだった。
「ヒリューさん!大丈夫そうでしたか?」
「あ、あぁ、問題ない。ここの出口付近に止めてもらってる。目立つ前に早く」
シエルは立ち上がりながらチラリとユーヤを見た。既に呼吸は落ち着いているようだった。ただ、ヒリューの声に遮られてなあなあになってしまっだが、ユーヤは確かに「それは違う」と呟いた。
相変わらず…というか、彼のことがますますよく分からなくなる。
ヒリューに導かれて階段を駆け上がる。出口の先に大きく、丸々とした乗り物が蒸気機関の音をリズミカルに吹かしながら待機していた。先頭にはカブを運転するために温和そうな中年の男性が座っている。
ヒリューはカブのドアを開けて中へ入るよう誘導する。タイヤのせいで若干高くなっているが、踏み台に足をかければ何とか上がれるようだった。
まずはシエルが入る。
次にユーヤだが、彼は身長が低い分少々難しいように思えた。中に先に入っていたシエルが手を伸ばす。
「ユーヤ」
不意にセレラルの時のことを思い出した。あの時は行き場に迷っていた手をシエルが掴んで引っ張ってくれた。
「別に、助けなんて要らないけどね」
ユーヤは伸ばされた手をしっかりと自分の意思で掴み、カブの中に乗り込んだ。
「助けられてあげる」
最後にヒリューが慣れたように乗り込みドアを閉めた。先頭部分と繋がっている小さな小窓を開ける。
「出てください」
その言葉をきっかけに徐々にスピードが上がっていく。小窓を閉めると狭い車内でヒリューは2人と向き合った。
「さほど時間はかからないで着くよ……って、ん?もしかして何かあったかい?」
隣同士に座ったシエルとユーヤはお互いをちらりと見る。シエルはおかしそうに照れ、ユーヤは気まずそうに視線を逸らした。
「なんでもないですよ」
側面には窓が付いているが、あまり姿を見られることは良くないためカーテンが閉められている。だから、感じるのはガタガタと車道を進む振動だけだった。
この振動音を、ヒリューはどこか懐かしく感じる。思えば、アーレットから抜け出し、セレラルに向かった時はこんな四輪駆動に押し込められたはずだ。
***
人生の一番最初の記憶とは何かを聞かれた時なんと答える?誰もがその記憶が曖昧であり、夢か現か分からないまま答えるだろう。
ただ、俺はしかと覚えている。
自分の身長の何倍もある本棚が四方から俺を睨みつけ、その存在感を誇張してくる狭い書庫の中、自分の名を呼ぶ母の声が聞こえてくる。そういう記憶が俺の始まりだ。
行儀悪く床に腰を落とし、ただ黙々と本を読む。昔からずっとそんな習慣をとっていたからか、今もまだ気がつくと床に座りながら本を読んでいることがある。
息子からの返事もなく、心配に思った母が荘厳な扉を大きく開きながら書庫に顔を出す。
そして、あぁまた、と呆れたような声を出すのだ。
「ピーター、あなたまた床に座って本を読んで」
そんな声を聞いても、いつも俺は本にばかり視線を落とし母の方を見ようともしない。
「あとちょっとだから待って…!今ウォルバーとアレックスがSLに飛び乗ったところなんだ。分かるでしょ?あとちょっとで終わる」
読んでいたものは基本は童話だった。童話といえどあなどれず、まるで伝記のような分厚さのものもある。
「いいこと、ピーター。本を読むのは結構だけれど、誰も床に座っていいなんていったことは無くてよ?これで一体何度目かしら」
「う、ご、ごめんなさい…」
何度繰り返したやり取りだろうか?
ついぞ俺はこの癖を治すことは出来なかったが、それでもはっと我に返るといつもこの言葉を思い出す。
近くに置かれた専用の机に母と協力しながら本を移していく。驚くべきは、その本の半分は童話であったが、あとの半分は大人向けの文芸ばかりだったことだ。
「あら!『カラー』のシリーズついに最終巻まで来たのね。すごいわ!」
「うん!面白くって、つい一気に読んじゃったよ。お母様、あとなにかオススメある?」
「あとは…そうね……。あなたならきっと、もう『虚構のダイヤモンド』も読めるわ」
こうしていつも母へ次に読む本を聞くことが習慣だった。
今考えても、読む本を通してより母のことを知ることが出来ると思ったのか、はたまた母と関わる機会がただ欲しかっただけの幼稚な本音だったのか。もしくは、父が作った本を通して両親のことを知りたかったに違いない。
この狭いながらも実用向きでない狭い書庫に所狭しと収められた全ての本は俺の父が著したものだ。
グレイ・リューズ。
彼の名を知らない者はほとんど居ない。
なぜなら彼の生み出すものはあらゆる人に、あらゆる世代に、あらゆる国に受け入れられた世界的大作家だからだ。
小説、童話、脚本等創作活動では留まらず、古文書翻訳、教科書作成と辞書作成の助力等全てを合わせ、450冊に届くほどの著書と数十冊ほどの学術書を出版している。
いずれの本も大ヒット作からコアなファンを集めるものまで、多岐にわたるせいかゴーストライター説も出たこともある。しかし、信じられない程の執筆速度と本の内容を考えるメモの量、その他諸々の理由からそれは誤報であるという結論でこの些細な論争は幕を下ろした。題材の8割はアーレットのことばかりで、政治批判や体制批判も織り交ぜながらも愛国心だけはどこまでも伝わってくる真っ直ぐな文章だ。
だからこそ、国を裏切ったなどという叛逆者のレッテルを貼られた彼の最期の姿が今でも信じられない……。
一言断っておくが、決して彼は天才などではない。
彼の作家人生は谷と山にありふれ、決して平坦な道を歩くことはなかった。挫折と羨望に溢れ、血の滲む様な努力と全てを慈しむ感性によって生まれた人生の轍は、他者から見ても壮絶なものだった。
しかし、そんな彼が作家として名を挙げ、誰もが著作を手に取るようになったのは彼が40歳の時であったのだから、晩生の人だったのだろう。それとも、彼の進む速度に時代がようやく追いついたのだろうか?
そもそも、多くのファン──『グレイアン』らから切に望まれていながら、彼は1度たりとも自伝を書いたことがない。彼が歩んだ人生の“事実”は多くの著作に見え隠れしているのみで、先程述べたことは全てこれらの事から“おおよそそうだと予想される”ことである。彼自身の意思や感情はもはや知る術はない。ただ、彼が死ぬ間際、走り書きのような稚拙さではありながら1冊の自伝が残され、人の目に触れることなく眠り続けているが、ここで語ることでは無い。
こんな父との関わりは、正直に言ってほとんど無かった。
いつも執筆に追われ、家族を省みたことなど無い。旅行などもしない。せいぜいディナーを共にするくらいだろうか。
朧気な記憶だが、一度だけ母に尋ねた気がする。
「ねえ、お母様」
「なぁに?」
「どうしてお父様と結婚したの?」
「…ピーターはお父様が嫌いなの?」
俺は誤解させてしまったことに衝撃を受けて慌てて大きく首を振った。
そう、俺は父のことを愛していたし、尊敬こそしていた。父との話術を介した対話など無かったが、その分文字を介して理解を深め、対話していたのだから。
「そ、そんなことない!大好きだよ!でも、お母様はどう思っているのか…気になって…」
傍から見れば妻子を放って仕事に精を出す碌でもない男のように見えるだろう。実際、ミドルスクールでの学友は皆家族仲良くというのが一般だったからだ。
何度もそれを学友たちにからかわれた経験があるからこその心配だった。
母は心配そうな俺のことをぎゅっと抱きしめながら、優しく説いた。
「私もグレイを愛しているわ。でもね、あの人が私のことを愛してくれていなくても構わない。この愛を、あの人が受け入れてくれさえいれば…」
幼い頃はその意味がよく理解出来なかったのを覚えている。
俺たちの家族は酷く歪な関係でありながら、絆だけは細く今にもちぎれそうながらも強固に俺たちを繋いでいた。
ただ、この歳になってもなお、俺は両親のことを唯一の点において理解できない。2人の間にある愛とはなんなのか。
母はなぜ父を選んだのか、父は何故それを受け入れたのか……。
結局、気がつけば家族はバラバラだ。俺はセレラルに飛ばされ、父と母は知らぬ間にこの世を去った。
煌びやかな金髪の中に、くすんだ茶髪はヤケに目立つものだ。鏡が嫌い、自分が嫌い、何も救ってくれない世界が嫌い。
この不幸は誰のせいだ?俺のせいではない、どうすることも出来なかった。母のせいか?そんなはずはない。なら、この怒りは、父に向けるしかないのだろうか……。
そんなことはいけない、とあの人は言った。
真っ青な、綺麗な空色の髪の人。水の象徴であるはずのその青色に、世界一の天才的な飛行技術はおかしいくらいに不釣り合いだ。
髪色など、関係ないことを知った。全ての不幸はそこから浮かび上がるためのスタート地点であることを知った。
だから、今はとにかく前を向ける。
きっと最後はハッピーエンドで終われるはずだ。
***
ようやく20何年ぶりにギルバート氏と会えるとドキドキしていたせいだろうか、つい深く考え事をして昔のことを思い出していたようだった。
そのおかげかは知らないが思っていたよりも早く着いていた。連絡を取り合う小さな小窓が開き、着いた旨が伝えられる。
「よし、じゃあ行こうか」
ヒリューは不安を振り払うようにわざと少し気丈に振舞って声を出す。
不安?何が?
自分の感情がわからなくなるのを感じた。
ドアを開けてまず自分が飛び出して周りを確認した。どうやら不審人物はいないらしい。問題ないことを確認して2人に出るように伝えた。
「転ばないようにね」
ユーヤもシエルも問題なく車内から飛び降りる。そして、目的の建物をようやく視界に入れることが出来た。
大きい、とにかく横に広いのだ。美しい装飾がなされた門と柵に囲まれ、中には中心に噴水が添えられ、美しい庭が広がっている。その先、アーチを超えた先にレンガをメインに作られた広い建物が横たわっていた。
アーレットの街並みはどこも煙と管と歯車が目について、どこか脂臭さがあるが、ここは違った。本当に街に蒸気機関を広めた一族の豪邸なのか、よくわからなくなってくる。
思わず2人は圧倒されて言葉が出なかった。
すぐ側でカブの運転手にヒリューが金を握らせていた。口止め料かなにかだろうか?
済んだと思えばすぐにこちらを向いてグイグイと押していく。
「さあ、遠慮しないで入ろう」
遠慮するなとは言うが、しない方が難しいに決まっている。だが、ここは大人しく入るしかない。渋々と自分で歩き出し、門に手をかけてゆっくりと開いた。
大きな音を立てて花の蔦が絡みつく門が開いていく。
全員が中に入ったことを確認して、またゆっくりと門が閉められていった。辺りを見渡せば、知らない花がそこらに咲き誇っており、噴水には小鳥が水浴びに集まっていた。まるで予想とは違っていて、相変わらず何も言えない。
「綺麗だよな。俺が子供の頃もここに来たことがあるが、いつもガーデナーが整えていて花を見ることが出来た。わかってくれると思うが、アーレットじゃ草木は少ない。これだけの庭を持っているだけでどんなステータスになるか……」
どこか呆れるような口調でヒリューはボヤく。そのままスタスタと庭を真っ直ぐと進んでいってしまうあとを慌ててシエルは追った。
大きな玄関の前にようやく立つ。これだけ大きな屋敷なのだから、警備の1人や2人いてもおかしくないはずだが…なぜか誰一人として出てくることは無い。
ヒリューは遠慮もなく玄関にかけられたノッカーを音を確かめるようにゴン、ゴン、ゴン、ゴン、と4度叩けば、その音は重く鋭く辺りに響いていく。
そしてすぐにその扉は開かれた。
目の前にいたのはとても若い女性のメイドだった。
ヒリューは帽子をとってそれを迎えた。
「いらっしゃいませ、本日の来訪歓迎いたします。只今大旦那様不在のためご要件とお名前をお伺い致します」
「…不在?」
少し気にかかるような表情をして、気を取り直してヒリューはメイドに伝える。
「お初にお目にかかります。私はピーター・リューズと申します。ギルバート氏とお話をしたくお伺いに参りました」
「ピーター・リューズ様ですね。かしこまりました。大旦那様は只今療養のため当屋敷を離れております。お時間がよろしければ、どうぞ中へ」
恭しくメイドは一礼をして、ヒリューに手を差し出す。ヒリューは何も気にすることなく自分のケースと帽子を差し出した。するとくるりと引き返して屋敷の中へ進んでいく。
ヒリューは後ろをちらりと見て、顎をくいっとさせると、あとは2人を見向きもせずにメイドの後を追った。シエルとユーヤは格式の高さに驚きを隠せず、戸惑いつつも後ろにピッタリとついて行った。
案内された場所はなんといえばいいのか、どこも気品に溢れた家財や装飾ばかりで酷く緊張してしまう。案内されて腰掛けた赤いフワフワとしたソファは、座るだけで吸い込まれてしまいそうな感じだ。
最初に案内をしてくれたメイドと入れ替わるようにして紅茶と茶菓子をかかえたメイドが入ってきて、3人の前のヤケに低いテーブルに置く。
そして誰もいなくなってから、シエルは思わずほっと息をついてしまった。
「うう、き、緊張した…。それにしてもさすがですね、すごく、なんて言うか」
「少しは様になってたか?」
シエルは大きく首を縦に振った。
本当にこうした豪邸で暮らしたことがなければ、あぁいった行動を慣れたように、しかも堂々となど出来るはずがない。
「そうか、今日のこの服もついこの前仕立ててもらったばかりでね。俺には少し背伸びしたものかと思っていたけど、似合っているならいいかな」
いや、シエルはヒリュー自身のことを言っていたのだが…若干の齟齬があるなと思い口を開いた瞬間、ドアが5度ノックされる。
「失礼致しますわ」
初老の女性の声だった。
入ってきた女性は歳のせいで白くなってしまった髪の毛を全て後ろにまとめ、1本の髪も乱れさせない高潔さと、少しも曲がらない姿勢、そしてなにより凛々しく深い茶色の落ち着く瞳が印象的だった。
彼女は入口で深くお辞儀をすると音を立てずにこちらへ近寄ってきた。それと同時にヒリューも深く腰かけていたソファから腰をあげる。
そして、2人は向き合うと、優しそうに笑った。
「久しぶりだね、アイリーン」
「坊っちゃま、ご立派になられましたわね。グレイ様と見紛う事と存じましたわ」
「お父様と?はは、まだまだ、足元にも及ばない」
「ご謙遜を…。浪漫支持派のヒリュー様の高名であればお噂はかねがね…」
少し気恥しそうにヒリューは頭をかく。
「参ったね…。あなたには全てバレてしまっていたのか…」
「ええ、ええ、もちろんでございますとも。大旦那様にお仕えし全てを捧げる身ではありますが、坊っちゃまのことを忘れた日など一日たりとてありませんわ」
「アイリーン……。ありがとう……」
遠い異国の地であっても、既に死んだ身として忘れられつつある「自分」の身を案じる存在があることのなんと心強いことか。
きっとシエルには分からない、これは彼自身にしかその感情は分からないのだろう。
「あ、いや、再会もそれこそパーティーを開いて1日語り明かしたいところだが、それどころではなかった。氏とお話したいことがあるんだが、場所を案内してもらってもいいかい?」
「大旦那様は……」
彼女は話すことがはばかられるように少し吃ってしまう。そして、意を決したように息をついて話し始めた。
「長いお話になります。どうぞお座りくださいませ」
ヒリューは素直に腰を下ろした。
アイリーン、と呼ばれたメイドは姿勢を崩さないままで話を進める。
「大旦那様は、外部からの来訪者や世間的には当屋敷ではない場所で療養に努めている、と発表しております。しかし、本当は当屋敷にて療養しているのです」
「虚偽の情報を流していると?」
「そうでございます。それは、大旦那様が患っておられる病気に関係がございます」
それは?というように全員が続きの言葉を待った。
アイリーンは凛々しい眉尻を下げ、酷く辛そうに病名を告げた。
「認知症、でございますわ」
「あ………」
ヒリューの表情は硬かったが、恐らく予想の範疇であったのだろう。何せギルバート氏は高齢だ。それだけ歳を重ねれば、多くの人が行き着く病であることは分かっていた。
「それだけではありません。他にも多くの病を併発しております」
「治療は…どこまで?」
アイリーンは首を振った。つまり、芳しくないとそういうことだ。
「それこそ、アーレットのあらゆる医者を呼び寄せましたが、芳しくは…。現ご当主であらせられる旦那様のご指示の元、大旦那様の現状を公表することを控えているのでございます」
「…あ、あの、口を挟んでしまって申し訳ないんですけど…」
口を開いたのはシエルだった。
ヒリューは呆気に取られていたがすぐにハッと我に返る。
「そうだ!ケアーマンの血を引く君なら何か手立てがあるんじゃないのかい!?」
「え、いえ、他の病気ならともかく、認知症の完全な治療は不可能です」
キッパリと言い放ったシエルにヒリューは呆然としてしまった。ケアーマンがそうだと言えばそう、不可能だというならば本当に不可能であることを知っていた。
「完全な治療は、です。まだ軽度であれば進行を遅らせることは可能です」
「ほ、本当かい…?」
「はい。とにかくご本人の状態を見てみないことには判断つきませんけど…」
「今すぐ!ご案内いたしますわ」
アイリーンは物凄い剣幕でシエルに迫ったかと思うと、すぐに身を引いて腰に吊るしていたベルを鳴らした。美しい鐘の音が響き渡ったかと思えばすぐにノックがする。
「失礼致します」
玄関で案内をしてくれたメイドとはまた別の若いメイドだった。
「アン、お客様を病室へご案内なさい。私は旦那様と奥様へご報告に参ります」
「承知致しました」
メイドへの指示を終えるとアイリーンは再びこちらへ向き直して深く深くお辞儀をした。
「御足労頂いたにも関わらず、満足に歓迎を出来ぬどころかご助力を賜る不始末、不徳の致す所と存じます。しかしながら我が主は一刻の猶予もなく、救うことが出来るのは最早あなた一人でございます。どうか、どうか敬愛せし主人をお救い下さいませ……」
シエルには先程会ったばかりの女性であった。しかし、老齢ながらも言葉には芯があり、瞳には意思があり、自信と誇りを胸に飾って凛と佇む清廉高潔な女性だと感じていた。
ただ、この時ばかりは違った。肩は震え、声は弱り、背中は丸まっている。
人はあらゆることに無力であると、そう訴えているようにさえ感じた。
「もちろん、俺に出来ることならなんでも!」
胸元を手のひらでぎゅうっと握りしめて声を張る。ただの強がりだ。ケアーマンといえど治せないものは治せない。
特に人の緩やかな死への下り坂は、必然であり、抗いようもない自然現象だ。
顔を上げ、目に涙を湛えたままアイリーンは心底嬉しそうに微笑んだ。
「なんと感謝を申し上げればよろしいか…」
この空間に一切交わろうともせず沈黙を貫く少年が1人。誰にも聞こえないほだ小さく、いやもしかすれば言葉にすらなっていなかったのかもしれない。
「死から人を救えるものか」
否定の言葉は誰の耳にも入ることなく消えた。
*
アイリーンが部屋を出ていき、アンと呼ばれたメイドから話を聞く。どうやら部屋はここから存外遠いらしかった。
「どうかお声を大きく立てないようご配慮を何卒…」
「……少々聞きたい。氏の容態はどうなっている?」
「……恐れ多く、口にするのもはばかられます。それは、御自身の目でどうかお確かめを。さあ、参りましょうか」
戸惑いを隠せないままアンの後に続いて部屋を出る。シエルは改めて屋敷の内装をぐるりと見渡した。
廊下には点々と花が生けてあり、廊下を鮮やかに飾っていた。その途中でシエルは額縁に入れられた絵にふと目が留まって立ち止まった。
「これ……セレラルのトゥールだ……」
「大旦那様はセレラルを大変お気に召しておりましたから。トゥールだけではありませんよ」
アンはシエルに合わせてその場で立ち止まり、優しく微笑んでそのまま廊下を進んでしまう。シエルは意味がわからず首を傾げたが大人しくその後を追って歩き始めた。
そして、直ぐにその意味を理解した。
「これも、それも……全部セレラルの街……」
「ええ、そうでございます。アーレットよりもセレラルの街を絵描きにはいつもお命じ むなっておりました」
「…絵はあまり好きじゃない」
ヒリューは本当に苦手なのだろう、壁を見ずに窓の方を見ながら、逆にシエルは感心しながら絵を一つ一つ見ながら進んでいく。途中で軽く袖を引っ張る感覚に気付き後ろをちらりと見ると、ユーヤが袖をつまんでいた。
ユーヤは少しかがめとジェスチャーし小さく耳打ちをした。
「絵、見てて気付いた?」
「……え?」
本当になんのことか分からない。
ユーヤは大きくため息をついて更に声を落として囁く。
「全部同じセレラル人の女性が描かれている」
ドキッとして足を止めて振り返る。
いや、いや………。
一つ一つの絵を鮮明に思い出していく。トゥールの絵には路地のそばに、次の絵には家のベランダに、次の絵には庭に、次の絵は買い物袋を抱えて街を歩いていて………。
思わず口元を覆ってしまった。
いや、それだけじゃない。なにか、他にも気付かなければいけない違和感が……。
「シエルくん?」
突然立ち止まったままで進まないシエルに気付いたヒリューが振り返って名前を呼んだ。
心配したように眉尻を下げて、金色の猫のような目がこちらに視線を浴びせていた。
この目、どこかで………。
「ッッ………!!!」
「……気付いた?」
傍でユーヤの冷めた一言が聞こえる。
気付いてしまった、気付いてしまったのだ。
ヒリューの目に見覚えがあるのではなかった。逆だ、絵の女性に見覚えがあったのだ。
全ての絵に登場するほどギルバート氏が執着した架空か実在したか不明の女性、そしてその女性に酷く似た瞳を持つ彼の存在……。ここまでの状況証拠が出てくれば、鈍いシエルも察してしまう。
その姿を見たヒリューが心配して駆け寄ってくる。
「シエルくん、大丈夫かい?ものすごく顔色が悪いけれど……」
「ヒ、ヒリューさん、絵を……」
言ってどうするのか?とネガティヴな考えが脳裏を掠って言い淀んだ。
「絵?いや、すまない昔のことを思い出してしまってあまり好きじゃなくて見れてないんだ。何かすごいものでもあったかい?」
「待っ…見なくて…いえ、そういう事じゃないです。貧血かな、俺は大丈夫なので…」
ヒリューは酷く怪訝そうな顔をする。
見てはいけない。ヒリューは洞察力がシエルの比ではないから、きっとすぐに気付いてしまうに違いない。
「…ケアーマンの君が貧血?」
「アッ……いや、その……」
「早く行かなくていいんですか?メイドの方、待ってますよ」
ユーヤの助け舟にハッとして正面を見ると、本当にアンが困り果てたようにこちらの様子を伺っていた。
「も、申し訳ない。すぐに向かいましょう」
慌ててヒリューは早めに歩き出す。その手にはシエルの腕が握られていて、一緒にシエルもヒリューと同じ速さで足を進めていた。その後ろでユーヤはマイペースに歩いている。
「俺が気付いちゃいけないことでもあったか?」
「……ヒリューさんはなんでも分かっちゃいますね……」
「そんなことはないさ、分からないことだらけだ」
なんとなく目を合わせられなくて下をむいていたシエルだったが、そこでようやく恐る恐るといったようにヒリューの方へ顔を向けた。
怒るでもなく、困った顔でもなく、おかしいというでもなく、ヒリューは優しく微笑んでいた。
その顔に、シエルはどうでも良くなってなんとなく疑問を口にする。
「ヒリューさんの、ご両親ってどんな人だったんですか?見た目とか、名前とか、性格とか」
「…………もう隠す必要も無いからって根掘り葉掘り聞くつもりだな?」
(あ、真意について一瞬勘ぐったな)
言葉の前の変な間にシエルは思ってしまう。
「ま、いいさ。君のことだ、悪用はしないだろ。父親はグレイ・リューズ、母はアリス、髪の色と直毛と手足の骨格は父親似、目の雰囲気と鼻と……身長と童顔は母似だな」
「……ふふ」
それから病室に着くまでヒリューの両親の話を聞いた。
ここへ来る前に話していた「両親、特に父親との交流はほぼなかった」という言葉通り、ヒリューにとっての父親像はどことなく人間味が欠けていた。代わりにどんな本を書いていたか、内容を教えてくれた。母親には何度も怒られたこと、その癖が今も抜けないことを聞く。
なんとなくだが、前を歩いていたアンの雰囲気もどことなく柔らかくなっているように感じた。
*
「お待たせ致しました」
病室の前へようやくたどり着いた。
裏の広い出口から出やすいよう、屋敷の一階部分の端に用意されている。
「とりあえず俺が軽くだけ看てみますね」
「では、まずはシエル様だけお通し致しますね」
アンがドアをノックしてから「失礼致します」とドアを開けてシエルを中へ誘う。大きく深呼吸をしてシエルは数歩踏み込み、中を見た。だが、瞳を大きく見開くだけで、その場から進めることは出来なかった。
「お入りください。大旦那様に失礼に当たります…お客様?」
「シエルくん?」
ヒリューがシエルの肩をそっと抱いた瞬間、スイッチが入ったようにシエルはくるりと後ろを向いてヒリューの腕の中に倒れ込んだ。
「うっえ……あ、れは、無理だ…もう……だめ………」
顔面蒼白で、額には脂汗がじんわりと浮き出て、気持ち悪そうに口元に手を当てている。ヒリューはケアーマンの特性を詳しくは知らないが、この様子は明らかにおかしかった。
「あんな…あんな姿、生きている方がおかしい…」
「ッ…袋!!!」
ユーヤが全てを察したように、シエルに飛びついてポケットからコンパクトにまとめていた紙袋を口元に押し当てた。それをひったくってシエルは紙袋を口元に覆う。
必死に堪えていた衝動が込み上げ、遂に放たれた。
「おぇッ……………」
*
一旦シエルは他のメイドに預けてユーヤとヒリュー、そしてアンが残される。
「あ、あれは、何なのでしょうか…?」
なにやら奇怪なものを見たというように瞳を曇らせてアンが声を震わせる。
だが、ヒリューにも分からない。なにせケアーマンはあらゆる詳細情報はセレラル国内で秘匿されているし、彼ら特異民族は既にセレラルを離れワードラの地で慎ましやかに暮らしている。起源も特性も生活も本当に不明な民族なのだ。
「それは、俺にも…」
「ケアーマンはどんな病気にもかからない。あらゆる病に対しての防御方法、治癒方法が遺伝子レベルで刻み込まれているから。ここまでは常識ですよね」
口を開いたのはユーヤだった。ヒリューは小さく頷く。
「あまり知られていない特性ですけど、ケアーマンは目の前の患者の状態を感じ取って危険か否かを判断するいわば『危険予知』を所持しているんです」
「…つまり、先程の姿は危険であると判断した状態である、と」
「ええ、多分、状態は最悪、いつ死んでもおかしくない、救えない、そういうことです」
「───痴れ者が、そんな戯言を信じるとでも!?」
アンの瞳に殺気が宿る。
アーレットはセレラルほどにケアーマンに馴染みがない。せいぜい病気にかからない、程度の知識しかないのだろう。
ユーヤがなぜここまで知っているのかは分からなかったが、ヒリューは大人しくはできなかった。
「落ち着きなさい。そこまで取り乱しては返って主の品を下げることになる」
アンがドキッと肩を揺らし、すぐにしょんぼりと落とした。
だが、ここで足踏みなどしている場合ではない。
「気を落とすことはありません。貴方の忠義は見事だ、誇りなさい」
アンの肩を軽く叩いて励ますと、流れるようにノックをして、ドアを開け放った。そこで初めて室内の様子を見る。
部屋の右端には暖炉、左端には大きな天蓋付きの重厚感のあるベットが鎮座している。数名のメイドが甲斐甲斐しく世話をしている姿が見られた。ベッドの上で男性の息苦しそうな息がスーッ、スーッと断続的に聞こえる。
「度々失礼致します」
ヒリューは無遠慮に室内へ入っていき、数名のメイドに見守られながらベッドの男性を覗き込んだ。
もはや人と言うには弱々しい姿だ。枯れ木のような腕が掛け布団の上に転がっていた。
なぜ、もっと早くに来なかったのだろうか。来るなと言われていても、いつだって来れたはずなのに……。
彼の名を呼ぼうと口を開いた瞬間、生気のない瞳にどこか光が宿るのを感じた。
「ギルバー「アリス!グレイも…!私を迎えに……」
その名前を聞いて思わず空いた口も閉口する。
そうだ、認知症を患っているのだった。ならば、面影も随分消えたピーターではなく昔馴染みのあの二人を思い出すのは至極当然のことだろう。
酷く寂しい気持ちになったが、それも仕方がないと割り切った瞬間、
「すまない…すまない、すまない、すまない、すまない、すまない、すまない、すまない……」
あの細い腕のどこに一体そんな力があったのか、ギルバートは体を暴れさせる。メイドが慌てて体を抑えている中でヒリューも手伝おうと手を伸ばした。
「私のせいだ、私が、国王にあんなことを話さなければ……」
「…は?」
意味が、分からない。
いつもは回る頭もどこか錆び付いたように回らない。
国王に、あんなこと……?
一体それはどういう意味だ。
なぜ、俺の両親に謝罪をしているんだ。
思いつくことは一つだけだ。世界的作家の訃報、廃墟と化した幼少期の思い出の場所、ゴミ溜りに積まれた父の本の残骸……。
信じたくなかった、信じたくなかった、信じたくなかった。
せっかく目を逸らし続けていたのに!!!
***
今日は何かが違った。
そう、茶髪の女たちが私を囲って何やら身の回りの世話をしているが、更にそこに、ようやく見覚えのある2人が来たのだ。
明るい茶髪の男と猫のような金の瞳の女。
良かった!私はようやく解放されるのだ!
愛した女性と親友だった男の名前を嬉嬉として呼ぶ。
「アリス!グレイも…!私を迎えに……」
ここで何かスイッチのようなものが切り替わった。
そうだ、そうだ。私はこの2人に謝らなければいけない。
ああなるなんて思わなかった。
そんなつもりはなかった。
ただ、私は……アリスに振り向いて欲しかっただけだ。
いや、それだけに留まらない。本当は彼女が欲しかった。
私の方が彼より先に知り合った、地位があった、性格も合っていた、君の全てを知ろうとした、私の方が愛していた!
だが、まさか、彼だけでなく彼女も死ぬとは思わなかったのだ!
「すまない…すまない、すまない、すまない、すまない、すまない、すまない、すまない……」
自分が抑えられなくなる。
周りの女たちが力づくで私の体を押さえ込んだ。
「私のせいだ、私が、国王にあんなことを話さなければ……」
「…は?」
知らない男の声だった。
ベットに押さえつけられたまま2人の方に目を向けた。
よくよく見てみれば、グレイも、アリスもいない。
そこには見覚えのない、ただグレイの髪色とアリスの瞳を持った青年が絶望を目に湛えて呆然と佇んでいた。
ああ、彼の名前は…なんと言ったかな……。
今回も読んでくださり本当にありがとうございました。
ここまで読んで私の小説に時間を取ってくださったその事実だけでも本当に充分嬉しいです。
でも評価や感想等頂けますと咽び泣いて五体投地して更に喜びます。
Twitterで絵も描いていたりします、見るだけでも良かったらどうぞ。
あと、彼のおろしたての服はユーヤくんの機転で無事です、良かったね!