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星追いの周遊記  作者: アコルト
アーレット編
5/6

~ 門番とカタコンベ ~

やって来ましたアーレットです。

建物からふらふらと出る。

廻りはどこも高いものだから全然この時間になっても日が差し込まない。

でも、それはなんだか赤く見えた。どこもあか、あか、あか…。

日に手をかざしたときにすべてが真っ赤に染まる感覚に近い。


だって、世の中って生きているんだから。

自分はその中にいて、無理やり生かされているだけ、仲間にされているだけ。

この輪から外れないように、みんな日々を過ごしている。

いや、外れたくないのかもしれない。

外れてしまえばもうあとは死ぬだけだから。


手首からの出血のせいか普段よりどくどくと脈打つ音が鮮明だ。

ああ、生きている。

また、今日も死ねなかった。

輪の外に出ることは、やっぱり怖かった。


そのまま世の中から隠れるように逃げるように裏路地へ入りこむ。

そこがゴミ袋溜まりでも気にせず倒れこんだ。

施設に戻りたくなんてなかった。

あそこが自分にとって『世の中』の最たる場所だった。


輪の内側にいるのも窮屈で苦痛で自分が周りに同化しそうで、されど外側に行くのも怖い。

じゃあ、ウチの居場所ってどこなんだろう?


***


 ゴトゴトゴト…と振動が椅子から自分の体に伝わる。車窓から見える風景がビュンビュンと過ぎ去っていくのがなんだか新鮮で面白い。飛行機を操縦するとはいっても、上空ウン百メートルと上がってしまえばスピードの体感もなにもない。

 ワクワクとした顔で車窓から顔を出して外を眺めるシエルを横目にユーヤは人形のように固まってはいたが、目だけはチラチラと警戒しながら周りを見ていた。ヒリューは恐らく今の研究に必要なのであろう論文を黙々と読み進めている。

 ケアーマンとセレラルのハーフと、アーレットとセレラルのハーフ、ユーヤに至っては顔のガードが硬すぎて逆に不自然なのではないかという見た目のせいもあってか、まれに通りかかる人の視線が若干気になる所だった。


「すごい………景色が全部飛ぶように過ぎていく」

「もしかして蒸気機関車に乗ったことなかった?」

「…学校の行事で無くは無かったけど、結局参加は諦めてしまったから……」


 窓から入る風が青緑の髪を揺らす。

 事件を起こしたセレラルでも、転校先のアーレットでも、どことなく人との距離感をうまく取れず、なかなか馴染めない日々を思い起こす。

 外は凹凸のない平地がひたすらに広がり、地平線が大きく横たわっている。

 セレラルはかなり山地帯で、基本的には山と山の間を風が吹き抜けるそれによって飛行機を操る。自然と一体になる技術とはまるで異なる人の力のみで大地を切り開くこの技術には感服せざるを得なかった。


「今まで一緒に乗る人も、機会もなかったから乗らなかったけど、直に地面を走って風を感じるのもいいものなんだなあ」

「ふふふ、アーレットもすごいだろ。俺には誇りある母国が2つもあるんだ。こんなことそうそうないよな」


 ヒリューは本当に嬉しそうにニコニコと笑う。この空気に水を刺すように低いテンションのままユーヤがぽつりと聞く。


「…あの、結局はぐらかされてしまってあなたが何者なのか聞けていないのですが」

「あー……、俺のことより、目下のアーレット現偉人であるギルバートさんの話をした方が今後のためにもなるし、そっちについて話すよ」

「………まあ、あなたがそういうなら、何も言いません。どうせ何も言わないんでしょう」

「そうして貰えると助かるよ」


 少し申し訳なさそうにヒリューは微笑むと読みかけの論文を膝の上に下ろして2人を見返した。

 真面目な話をするのだとシエルは少し乗り出していた体を元に戻して椅子に座り直す。


「ギルバート・カルタータ。カルタータ一族の14代目当主。もう80幾つかになるのかな、だいぶ老齢だ。彼が偉人と称えられるのは偏に彼の一族が名だたる発明家として長らくあらゆるアーレットの機械業の覇権を握ってきたからだ。例えばだけど、この蒸気機関車もそう」

「えっ、これも?」


 思わずシエルは辺りを見回す。


「蒸気機関の技術を発明したのはカルタータ家の初代だからね。発明した、と言ってもその当時はまだ机上の空論に過ぎなかった。そこから彼の子孫が受け継ぎ、これを大成させた。その後この技術の普及に努め今やアーレットの生命線だ。それからというもの、カルタータ家の御曹司は皆発明家として非常に多くの恩恵を国に与えてきた。ギルバート氏もその1人さ」

「それなら彼も何か発明をしたんでしょう?彼はなんの発明を?」

「代表的なところを言うと、電気技術のちょっとした発展と軍事用車両の発明だろうか」

「軍事用…もしかして、戦争に……?」

「本人は乗り気じゃなかったみたいだけどね。彼はセレラルを愛していて、別荘まで作っていたくらいだから」

「でも、それでもアーレットの発展には貢献したんですよね?同系統なのに代々偉人になるなんてすごいなあ…」


 シエルはキラキラと目を輝かせる。ヒリューはその様子を見て顔をしかめた。


「いや、そんなに素晴らしい人々ばかりでもないさ。カルタータ家の継嗣たちがあまりに愚鈍で約束された『偉人』としての地位に甘んじすぎた。ギルバート氏もそうだ。才ある人々が何代もかかってこれかい?馬鹿らしい。セレラルでは既に石油…ガソリンが普及して気球用のガソリンバーナーが発明されたというにアーレットでは蒸気機関止まりで他のエネルギーの可能性をまともに見ようともしない。資源は無限ではないというのにいつまでも蒸気機関にばかりこだわって…」


 話に火がついたのかヒリューの話は一向に収まらない。気球について話した時と一緒だ。

 それにしても、とシエルは驚く。気球だけでなくアーレットの技術である蒸気機関や最新の電気についても関心を持って調べているのだと感心してしまった。それは偏に彼の探究心の賜物なのだろう。


「だからグランドに入ってみろ、同じような四輪駆動ばかりだぞ?」

「あの…」

「あっ………う、すまん。いつもこうなんだ、治さないといけないのはわかっているんだが……。ええと、どこまで話したんだったか。……ギルバート氏の事だったな」


 ヒリューは軽く頬を叩いて気を持ち直す。


「カルタータ家は、さっきも言った通り代々発明家として名を挙げたが、ギルバート氏はセレラル出身の富豪の娘と結婚した。ただ、それも早くに亡くして以来一度も浮ついた話はない。子供もいない」

「それは、さぞ継嗣問題が大変でしょうね…」


 ユーヤがポツリと呟いたが、確かにこれは大問題であるとシエルも頷く。

 それだけ長く続く家であれば伝統を重んじるのは至極当然の話で、そうなるとどうしても養子によって家系を繋げる必要がある訳だ。


「確かに彼に子供はいなかったけれど、それはたいして問題はない。彼には二人の子供がいるからね。あぁいや、こういうと語弊があるな…。双子の姉妹を養子に入れたんだ」

「姉妹?男ではなく、女性を?」

「一応戸籍上は娘として登録されているけれど、年齢の差はもはや孫だな。詳細は公開していないし、ここまで何も言っていないのなら一生だんまりさ。理由は彼のみぞ知る、ってところだな…」


 ヒリューは指を組んで顔を上にあげて目を瞑る。その姿は遠い思い出のような何かを思い起こしているかのように見えた。

 なんと声をかければいいのか分からずユーヤとシエルはお互い顔を見合わせる。


「………結局、カルタータ家はその双子の妹だったかな?彼女の夫が家を継いだ。ギルバート氏の研究を引き継ぎ今も研究を進めている」

「ギルバート氏本人は今…?」


 ようやく目を開けて猫のような細い眼光で2人を見る。


「予想は着くと思うが、グランドの中でも貴族が集まる北の貴族区にある実家で療養中らしい。もう久しく会っていないから今どんな状態かよく知らない」

「それにしても、グランドではそんなに長くカルタータ家が偉人として活躍するなんて、他に著名になった人はいないんですか?」

「そんなことは無い。勿論他の人も選ばれたり、候補に選ばれたりしたさ。ただ、アーレットはかなり現実主義的だから、明日…今日にでも人の生活をよくする技術を評価されやすくてね。結果的にカルタータ家が多く選出されたというただそれだけ、それだけの話だよ」

「もっと色んな人を偉人に選べば、お互いが競い合ってさらに発展するかもしれないのに、なんだか残念だなあ…」


 ぼんやりと呟いたシエルの一言に驚いたようにヒリューは大きく目を見開いて、すぐに目を細くして笑った。


「俺もそう思うよ。全くその通りだよなあ……。うん、その通りなんだけど、それはあくまで俺もそう思うだけなんだ。世の中の難しいところは、どんなに話し合ったって「全くその通り!」って快く賛同してくれる人ばかりじゃあないってとこだ」

「それは……ヒリューさんの研究の話?」

「ははっ、それだけに留まらないさ!どんなことだってそうだぜ。たくさんの人がいるってことを、今回の旅で思い知らされるといいさ」


 途端にポーーーッ!!と汽笛の音が遮る。


「ああ、しばらくしたら次の停車場に泊まる合図だ。俺たちが向かおうとしているのは終点だから…」

「あと次も入れて5つの駅を超えないといけない、と…」


 あからさまにユーヤが大きなため息をつく。


「いやいや、これでもグランドにつながる線路の中で一番停車する駅が少ないんだ」


 眉尻を下げてヒリューは笑った。出来る限り人との接触を減らそうとする彼なりの配慮だろう。

 それにしても、なぜ駅の見当がつくのかと不思議そうにしていたシエルの雰囲気を感じ取ったのかユーヤはぶっきらぼうに何か折りたたまれた紙を差し出した。


「なにこれ?」


 ユーヤは何も言わない。その紙を受け取って表紙を見れば、アーレットの線路表と、出発した駅の時刻表が一緒に描かれているマップだった。機械的に折られたマップを開いてみれば、これから通過する予定の街を宣伝するコメントがかかれていた。ただ、そのほとんどがグランドについてだったのだが…。


「それ、観光マップか。元々あそこの駅はセレラルからの旅行者をグランドに届けるために作られた駅だからね。『残り物』かな」

「じゃあこれ何年前に作られたやつなんだ?もう古くて当てにならないだろ」

「そうとも限らないよ?もう新しい駅も街も必要ないからね、駅数と時刻表くらいは信じてもいいんじゃないかな」

「なんにせよ、これからの時間が暇になるということはよくわかりました…」


 今すぐにでも走り出したい衝動をこらえるようにシエルは腕を組んでぎゅっと目を瞑る。ヒリューはくすくすと笑ってひざ元においておいた中折れ帽子をシエルの顔にかぶせた。

 つばの下から恥ずかしそうにシエルは顔をのぞかせる。


「寝てて構わないよ、今朝は早かっただろう?着きそうになったら声を掛けるから」

「………………ありがとうございます」


 帽子を日よけ代わりにしてそのまま壁に体重を掛ける。

 小刻みに揺れる振動と、窓から入ってくるさわやかな風は案外心地がいいらしい。そこまで時間もかけずにシエルの安らかな寝息が聞こえてくるようになった。


「ユーヤ君も構わないよ?」

「…結構です。いつ、誰が狙いに来るかもわからないので」

「はは、流石にそうか。俺もそんなに腕っぷしに自信があるわけでもないから、ここで襲われたらひとたまりもないしなあ」


 あっけらかんと笑うヒリューを珍しく鉄仮面のような表情を崩してぎょっとしたようにユーヤが見つめる。


「あなた……襲われる心配とかしないんですか?兵役経験があるというから、てっきり文学だけでなく剣術にも精通しているのかと…」

「残念ながら、俺にあるのはせいぜい昔の人が残した知識くらいさ」

「…少し気を抜いて損しました」


 拗ねたように膝を抱えて縮こまって座る。


「でも、大丈夫だと思うよ。俺の予想では、彼らは列車になんか乗らない。列車ってのはかなり行動範囲が狭まるんだ。特定の駅からしか乗れない、降りられない。中途半端な乗降車は出来ないんだ。ただ、逆に言ってしまえばその狭まった地点に粘られてしまうと危険だ。アーレットの線路は全て中央都市グランドに通じているから、奴らが狙うとしたらそこになる」

「対抗策は?」

「もちろん、考えているよ」

「…成功率は?」

「うーん、グランドに控えている彼らの人数にもよる。今までの追手の人数を聞いても?」

「ほとんどが2,3人の少数だよ」

「……うん、まあ半々、というところかな」

「今から降ります」

「ええ!!??」


 すくっと立つユーヤをすがるように大慌てでヒリューは引き留める。


「ちょ、ちょっと待って、嘘!冗談!アーレットジョーク!!」


 大人しくなって嫌そうにヒリューを見つめるユーヤの目はいつになく冷たかった。


「とりあえず1度席について話そう。ね、ね?」


 1度大きなため息をついてから渋々というようにユーヤは元の位置へと戻った。

 で?とでも言うようにヒリューの言葉を待った。


「順序立てて話すとしようか。まず───」



「…………まあ、確かに…。それなら……」


 少しだけ、ユーヤの周りの雰囲気が緩くなったような気がした。

 賛同をようやく貰った、とヒリューの気もつい緩くなる。


「……一つ聞いてもいいかい?」

「…なんです?」

「君、時々会話でどもったり、口数が減ることがあるけど…それ、もしかして……」


 ユーヤは少し眉をひそめてヒリューを睨む。


「もしかして?」

「……いや、うん、ふふふ。やっぱり何でもないよ。まだ決めつけるのは時期尚早かな」


 軽く首を振ってはにかんだあと、脇に固めて置いた論文に手を伸ばした。


「はあ…………………?」


 まさか結論を言わずに尻切れトンボになるとは思っていなかったのだろう。急に放置されて思わず素で声が漏れる。

 くっくっく…とヒリューはまたいたずらっぽく笑った後にユーヤの頭をフードの上からガシガシと乱暴にかき撫でた。


「そういう冗談に無関心、というか、反応が薄そうな印象があったけどそうでもないんだね。結構意外かも」

「っ……や、やめて、ください………!」


 頭上の手を振り払ってユーヤはそっぽを向く。振り払われてしまい、少し残念そうにしていたヒリューだが、一転真面目な顔をして小さく頷いた。


「うん、やっぱり。これはあくまで俺の予想で、その形骸的な考えを土台とした意見だから聞き流してくれて構わない。君は、この旅でシエルくんをよく観察して、関わるべきだ。もっと知見を広げなさい、人脈を広げなさい。人はどういうものか、人が生み出すものの価値を見定めなさい」


 急にどうしたのだと不思議そうにユーヤはヒリューを横目で見つめる。


「大丈夫、君は君だ」

「……やっぱり、あなたとは、あまり話したくない…」

「はは、よく言われる。さて、ここから長いけど、雑談でもどうだい?」

「さっきの言葉…聞いてました…?」



「………きて、起きて。シエルくん!」


 自分の名前を呼ぶ声にハッとして目を覚ます。


「…う、今は…………?」

「寝る前に言ったろう?もうすぐ着くころになったら起こすって」


 寝惚け目で外を見るがそれらしい影はまだずいぶんと先にあるように見えた。


「…もうすぐ、って距離にはあまり見えないですけど…」

「ちょっと先に伝えておかなきゃいけないことができたから、少し早めに起こしてしまった。ごめんね」


 ヒリューが伝えなければいけないこと、というのだからかなり重要な話だろう。気を引き締めようとシエルは頬を軽く叩いた。


「っよし、何ですか?」

「俺の予想では、恐らくグランドの地下ステーションに例の彼らが待ち伏せをしていることだろう」

「えっ、そうなんですか?じゃ、じゃあこの列車、とても危険じゃないですか…」


 早く降りよう、とでもいうようにシエルが慌てふためく。


「まあ落ち着いて。それに対しての対策はすでに考えてある。ユーヤ君にはもうすでに伝えてあるけれど、もう一度シエルくんを入れて整理しよう」



「なるほど、分かりました。体力だけなら割と自信ありますよ」

「早速で申し訳ないけれど、任せたよ。さあ、そろそろ到着だ!」


 ヒリューは窓から進行方向を指さす。

 もう日は高く上り、少し傾きかけている。暑い日射が窓から差し込んでいる。

慌てて窓を全開にしてシエルは乗り出すように窓から体を出した。遠くのほうまで高いレンガ積みの塀が続いていた。シエルたちの乗る列車は、自身のサイズを優に超す高く大きな穴へと吸い込まれるように進んでいく。高い塀の先にはさらに高い塔のようなものや建物などが顔を出し、もくもくと蒸気が空へ立ち上っていく様子が見える。

 目を凝らすと、遠くのほうでたくさんの群衆がいることに気がついた。四輪駆動に紛れ、馬もいるように思えた。


「ヒリューさん、ヒリューさん!あれ、何やってるんですか?」

「あー、あれは蒸気機関車に乗らずにグランドに入る人たちの列さ。自家用車がほとんどだけど、馬にひいてもらってきている人もいるんだな、最近じゃ珍しいことだ。そろそろトンネルに入るから窓閉めて」


 シエルが窓を閉めている間に、様相を観察する間もなくトンネルをくぐっていく。徐々にスピードが落ちていく感覚を感じる。


「あ、そう思い出した。グランドに入る前にユーヤ君に渡したいものがあってね」


 足元で無駄に場所を取っていたトランクケースをヒリューはおもむろに開けて中に入っていたあるものだけを取り出し、ユーヤに差し出した。それは茶色の、セレラルでは一般的な飛行帽だった。


「なんです、これ…」


 ケースを閉じて元通りにしたヒリューはその帽子を流れるようにユーヤの頭にかぶせてつばや帽子の形、ポンチョの首元を整える。


「これはね、俺の大切なものなんだ。飛行帽は操縦者の防寒を考えて耳当てがついている。全体的に深めだし、君の着ているポンチョと併せても髪の毛の大部分を隠すことができるんじゃないかな」

「もっと早く渡すべきだったんじゃないんですか?」

「ごもっとも。ま、でもここまで何事もなかったんだし許してくれよ」


 ゆっくりと列車は動きを止める。それと同時に周りの人々が大きな荷物を抱えて下車を始めた。

 窓から外を見ると、乗車を待つ人、下車のために人をかき分けて進む人、家族連れ、一人旅、カップル、とにかく多くの人で溢れかえっていた。


「ここから先は“人”が重要だ。どうにか紛れるようにするために人の間に挟まって動くよ。あと、茶色に“紫”はかなり目立つ。一点だけじゃない、四方八方に注意を向けろ、油断はするなよ」


 廻りの人々の流れに沿うように、ヒリューはトランクケースを持って二人に外に出るように促した。


「さあ、行こうか」


 車両から降りるとシエルはまずぐるりと周りを確認する。

 視界は広い。

 トンネルをくぐっていたから、おそらくここは街の中でも地下に当たる場所だろう。ただ、高く、広い。ぐるりと周りを見渡してみれば、ここが円形の広場のようなものであることが分かった。

 中心の大きな時計台から、八つのプラットホームが伸びており、それぞれにまばらに蒸気機関車が停車している。

上を見上げてみれば、透明なガラスと思われるドームがあり、そこから光が照らしだされていた。それだけでなく、あちこちにランタンがつるされていてこの二つの光源によって暗さに困ることはない。

 人ごみに流されつつ、ヒリューはしっかりとユーヤの腕をつかみ、その後ろをシエルが追う。

 先ほどの説明がシエルの頭の中によぎる。


『難関は三つある。まず一つ目は、列車から降りてすぐだ。どの列車に乗っていたか彼らは目を光らせているだろう。少しでもみられてしまえば終わりだ。そこで、俺が大騒ぎをして彼らの目を引いているうちに先に所定の位置に行っていてもらいたいんだ。ああ、大丈夫、そんなに難しいところじゃない。いざとなったらユーヤ君を抱えてでも……頼んだよ』


 シエルには昔から一般人よりもはるかに強い力を持っていた。それこそ、ユーヤなど軽々持って走れるし、握力も強く感情的になれば人と握手することも出来ない。だからこそ、かつて転校をしたきっかけにもなったあの事件が起きたのだが…。

 実は、当時既に父はいなかったので、母や顔も弁もたつヒリューに間に立ってもらった。だからこそ、彼は自分のこの人並外れた力を知っている。


「…シエルくん、頼んだよ」


 ヒリューがシエルに耳打ちをすると、ユーヤの元を徐々に離れていった。

 正直、かなり不安である。ヒリューの代わりにユーヤの腕を握っている手に自然と力がこもる。瞬間、軽く手がはたかれた。もちろんそれはユーヤだ。

 きっと「痛い」という意味なのだろうが、同時にユーヤのいつもの悪態も感じ取れる気がして、なんだか逆に安心した。

 それにしても、どう気を引くかについては何も言わなかった。ただ一言「絶対に振り向くなよ」とだけである。


「ああっ!!!くそったれ!!!なんてことしてくれたんだ!!!」


 突然の大声と罵声に二人だけではなく周りの人々全員が体を跳ねさせて声の方向へ目を向け、足を止めた。思わずシエルもそちらへ顔を向けようとした瞬間、腕をグンッと引かれる。ジト目でこちらを見てくるユーヤにハッとする。


(い、今の声まさかヒリューさん………?)


 人々がどうしたのだというように足を止め、現場を垣間見ようと背を伸ばす。アーレット人は(むかつくことに)平均的に背が高い。また、語弊があるような気もするが一般人は喧嘩と罵声が好きでいまだにストリートファイトの文化が根強い民族なのだ、というのはヒリュー談である。

 本人は身長173センチでほかのアーレット人と比較してみると男性としては小柄であり、そのやっかみも混ざっているのではないか、という気もしてくる。

 とにかく人々が壁になっている間に行かなくては、と人の隙間を縫って歩き続けた。



『二つ目の難関は地上への階段出入り口だ。この列車が停車するのは南区中央地下。目指している北区中央入口までは歩いていくしか方法がないんだ。北区だけじゃない、南区、東区、西区いずれへの地上入口にもそれぞれ一カ所しかない。待ち伏せするとすればそこだろう。ただ、それは土地勘のないアウトサイダーに限った話、実は細かい入り口がたくさんあってね。その中でも最も知られていない安全な道———』


「場所って、ここでいい…んだよな…?」

「場所もあってる、名前もあっている。さっき紫髪の男がホームに向かってすれ違っていくのを見たし早く入るよ」

「え、ま、待ってくれ…」


 遠慮も何もなくユーヤはその場所へと歩いていく。

 その場所とは、地下のプラットホームから入り組んだ道の先にある、あまり光の行き届かない地下街かは脇道それた場所にあるとあるパブだった。

 正直人通りが少ないどころではない。事前に聞かなければ存在もわからなかっただろう。

 中から光が漏れているドアを壁にかけられた一つのランタンが弱々しく照らしている。


「ぱ、パブって言ったら、ガラの悪い人が集まって人殺す計画を練る場とか、酒をひたすら浴びて飲んでお代はツケでって言いながら一銭も払わない男のたまり場とか、そんなだって本で読んだぞ…!?」

「フィクションの読みすぎじゃないか」

「それ、グレイ・リューズの『口上ひと匙』と『堕落と栄光』?いいね、ウチも好き」

「ヒェッ!」


 突然の女性の声にシエルは情けない声を上げて飛び上がる。

 その様子にクスクスと可笑しそうに笑って2人の背中を押した。姿は暗がりでハッキリとは見えないが、シエルとほぼ同じ身長で女性にしてはかなり背が高いとおもわれる。


「随分可愛い反応をしてくれるじゃん。まぁどっちみちさっきの話はあくまでフィクションだ。さあ入った入った」


 グイグイと押されてなされるがまま店の中へ入っていく。

 店の中は思っていたものと違いかなり小綺麗だった。あたりにパイプが張り巡らされていて、奥では大きな歯車や小さな歯車がゴゥンゴゥンと音を立てて回転している。オレンジ色の光をシンプルなライトが煌々と照らしている。よくよく見てみるとあちこちに本棚のようなものが置かれているのが見えた。

 店内は人が居ない。まるで繁盛していないように思えた。


「案外大したことないだろ?」


 そうだ、と思い出して振り返る。

 髪の毛が肩のあたりで雑に切りそろえられたセピア色で、土気色の瞳、そばかすが印象的な女性が立っていた。大きなデニムのエプロンに白の半袖シャツ、黒のパンツに皮のブーツを履いている。


「なんだ、よくよくみたら子供じゃないか。先生は子供を客として寄こしてきたのかい?」

「先生……?」

「あぁ、ヒリューさんのことさ。立派な学者様だろ?だから“先生”ってね」

「………そ、それにしても、なぜ、ヒリューさんが………ぼ、僕たちを寄越してきたと……」


 非常にたどたどしく、シエルの後ろに隠れるようにしながらユーヤは尋ねる。


「あらまぁ、可愛げがある。その質問をするってことは、ウチの店のこと何も聞いてないんだね」

「と言うと…?」


 女性はカウンター席の脇に固めて置いてある本の一冊を手に取って2人へ差し出した。

 読み古されて少しボロボロだが、それは見慣れた表紙の小説だった。


「これ知ってる?」

「いや、これグレイ・リューズの書いた本じゃないですか…。そんなの、誰でも知ってますよ」

「そう、これはグレイの数多ある執筆作品のうちの一つ、しかも初版本!ここはありとあらゆる彼の本を取り揃えたいわば『グレイ・パブ』なんだ!」

「は、はぁ………」


 女性は火がついたように止まらずに語り続ける。


「そういえばさっき君が言ってた『堕落と栄光』。一人の男が堕落な生活と栄光ある生活両方をハシゴしながら、一体どんな違いがあるというのか、表裏一体な二面をひたすら問い続ける物語だね!これがなかなか人気で何度か重版がかかっているのだけれど一度だけ小さいショートストーリーが付属して出版されたんだ。その時の冊子も置いてある!あの作品に目をつけるなんて君、なかなかいいセンスしてるね」

「………あの………名前………」

「せっかくだし飲み物と一緒に読んでいきな!子供だし割引くらいならしてもいい。"グレイアン"が増えることが重要だからね!ここにある本だったら好きに読むといい。あぁ、汚すなよ。あと持ち帰るな、それだけはダメだ。とりあえずドリンクをカウンターで購入して、好きな席に着いて読みな。うちの店は如何せん場所の関係で新規がまるで来ない。結局ヒリューさんしか新規客を連れてこないんだよねぇ…。常連だったから顔も見知ってるし、見たことがない二人と、グレイ作品の話を店の前でしてるってことは、あの人が連れてきてくれた新規客だ。そういえば、その当の本人が見えないんだけど」


 マシンガントークからようやく本題に入った、と安堵してシエルは慌てて弁明をしようとする。


「た、多分まだ暫くは来ないと思います。ホームの方で一悶着あって…」

「店に戻る途中でやけに外が騒がしいと思ったらあの人が一発ぶちかましているって?アッハハハハ面白い!ウチも野次馬したいんだけど」


 やはりヒリューが言っていたアーレット人像は正解だったのかもしれない、と2人は思う。


「そう…じゃあしばらく時間がかかるか…。昼は食べたのかい?もし食べていないなら簡易的なものでもご馳走するよ。勿論先生のツケでね」


 ニヤニヤといたずらっぽく笑いながら女性が提案する。

 言われてくるとお腹がすいてくるもので、シエルとユーヤはお互いを見合わせて同時に大きく頷いた。


「さ、カウンターにでも着いてくれ」

「ありがとうございます…えっと……」

「そういえば名乗っていなかったね、ウチはセシリア。よろしく」


 セシリアと名乗った女性は頬を弛めて小さく笑った。



 料理、と言ってもセシリアの言葉通りそんな大層なものはなかった。

 コロコロとした小さなポテトや骨付きのチキン(一人一本)、拳程度のパンとバター、そして水のみ。それだけでも二人には十分ありがたかった。

 いただきます!と声を揃えて頬張っていく。


「………味はちょっと濃いめなんですね…」

「そりゃそうだろ、ウチは飲み屋だよ。酒のつまみくらいしか出すものなんかないさ。あとはウチが不器用でね、料理も買ったものにひと手間加えるくらいしか出来ないんだ。二人は料理とかしてる?」

「俺は時々家で料理を作ったりしているけど、結構母さんや姉からは評価が高いよ!」


 小さく舌打ちが聞こえる。


「ちっ、なんだ男のくせに料理できるのか…。君は?」


 もそもそと食べ物を口に運んで二人の会話を無言で聞いていたユーヤが自分にも話を振られるとは思っていなかったようで肩をびくつかせた。


「え、ぼ、僕………?や、やるわけないよ…」

「お前今まで何食って生きてきたんだよ…」

「…そ、そりゃ動物とか果物とか植物くらいその辺に……」

「ワードラ人かよ……。それにしても、ヒリューさん本当に遅いな……」


 その時、ギィィ…とドアがゆっくりと開いた。3人全員の視線がドアへ集中し、ユーヤは食べるものもそのままに一瞬で身を翻して部屋の支柱に身を隠した。


「よかった、無事着いていたんだね」


 安堵した表情で入ってきたのはヒリューだった。中に入るとすぐに後ろ手でドアを閉める。

 シエルも緊張を解いてほっと息をついた。


「び、びっくりした………」

「遅くなって悪かったね。あれからちょっと目をつけられてずっと尾行されていたから撒くのに時間がかかってしまった」

「……まぁ、予想はしていたことだね……」


 安全を確保したと、支柱の影からのそのそとユーヤが出てくる。


「予想通り、やつら全くグランドのことなんて調べてないね。お陰で助かった。セシリア、巻き込んでしまって悪い」


 申し訳なさそうに眉尻を下げてヒリューが謝罪すると、セシリアはとぼけたように笑う。


「別に構いやしないよ。一番のお得意様の言うことは聞いておかないと愛想を尽かされちまうからね」

「ヒリューさんはここに何度も来ているんですか?」

「何度もどころじゃ収まらないくらいだね。グランドに来たらまずはここに顔を出しているよ。あれ、え、2人ともなんで先に昼餉を食べてるんだい」

「ヒリューさんの紹介で来た新規客だろ?お代は付けさせてもらったよ、せーんせ」

「厳密にはそういうわけじゃないんだけど……まぁいいけどね……」


 からかいながら会話をするふたりの様子を見て、シエルは思わず思ったことが口からポロリと出る。


「随分仲良いんですね」


 言った後に思わずマズいと思い口を閉じる。なんだか姉に申し訳ない気持ちがムクムクと湧いてくる。


「仲がいい風に見えるかい?思えば確かに初対面の時に比べたら君も随分丸くなったよね」

「うるさいね、このことはもう話さないって言ったろ!気恥しいんだってば」

「失敬失敬。レナードほどでは無いけれど付き合いが長いからね、そうも見えるよ」


 シエルはますます思う。

 ヒリューとは長い間“隣人”として仲を深めていた。友人という関係ではないと思うが、身内に限りなく近い何かとさえ思っていた。ただ、ここ数日はもうずっとヒリューとの距離が遠くなってしまったように感じる。

 自分たちは、ヒリューの何を知っていたというのだろう。


「とりあえずいつものを用意してくれるかい?」

「ハイハイ」

「さて、待っている間に話しておこうと思う。シエルくん、ユーヤくん。ここからが本題だ」


 ちまちまと食べていたユーヤも顔をヒリューの方へ向けた。


「一旦昼餉を済ませたら地上へ向かう。そこに彼らは待ち受けていないと思うが、念の為俺が先導していくよ」

「その出口はどこに出るんです?」

「北区からは若干外れていてね、東区の裏路地だ。北区と繋がっている大通りの脇にある道だから、さほど時間はかからずに北区に向かえると思う」

「目的地までの移動手段をお尋ねしても?」

「それについても既に考えてある。個人カブを使おう」

「…なんですそれ?」

「料金さえ支払えば乗り込み主が行きたいところへ行ってくれる、まあ簡単に言えば個人的な定期便みたいなものさ」

「プライバシー的なものは?」

「ドアとそこに小さな窓が開いてるくらいだ。同じような四輪駆動があちこちを走っているから乗ってしまえば紛れてわからなくなるだろう」

「なるほど、それなら問題なさそうですね」

「ハイお待ち」


 無造作にヒリューの目の前に料理が置かれる。ただ、その料理が奇天烈な見た目と匂いの為にシエルだけでなくユーヤも思わず視線を向けてしまう。


「え…………なんですこれ?」

「蒸したイモとひき肉を一緒に調味料で和えて、それを納豆と一緒に混ぜた料理だ!俺の大好物なんだよな」


 子供のように笑いながらヒリューは料理を食べ始める。

 助けを求めるようにセシリアへ視線を寄越すとそれに気付いたようで目を合わせてきた。


「なに、納豆のこと?大豆を藁で包んで発酵させた食べ物でアーレット発祥ではあるんだけど、ココじゃもう貧民層の家庭の食べ物さ」

「これが俺にとっての懐かしい故郷の味なんだよ……」


 ヒリューはしみじみと呟きながら食を進める。その姿を見て、どうしてかセシリアが悲しそうな表情で一瞬目を逸らした。

 その仕草がシエルには何故か深く印象に残った。


「アーレットは地続きだから、農作と牧畜が盛んでね。ただ、降水量が少ないから芋がよく育つんだ」

「もちろんパンも主食として食べるけど、ポテトが1番の主食かもね。セレラルではどうなの?」

「待て、アンダーソン家の食生活は絶対に信用ならない」


 セシリアだけでなく、シエルも不思議に首を傾げる。自覚すらないのか、と呆れるような目でヒリューはシエルをじっと見つめた。


「ケアーマンだからこそなんだが…サラちゃんはお菓子、シエル君は料理にみんな薬草入れまくってて苦すぎる。チェリオさんはもう全部がダメ」


 心做しかフルフルとヒリューの肩が震えている。相当何かトラウマを植え付けられたらしい。


「レナードがいつだか「久しぶりにチェリオの飯が食べたい」と言い出した時は真っ先に中毒症状を疑って病院に連れて行ったものさ…」


 全く酷い言いようである。


「もしかしてさっき言っていた「結構母さんや姉からは評価が高い」って、身内だけの評価ってこと?なんだ、やっぱり料理下手なんじゃない」

「おいしいんだけどなあ…」

「ご馳走様!料金はこれでいいかな」


 銀貨と銅貨を数枚カウンターにおいてヒリューは立ち上がる。


「多すぎるくらいだよ…。いつもそうなんだから」

「気になるなら今度またタダ酒おごって欲しいな」


 セシリアが皿を下げて片付けている間にヒリューはカウンター裏へ廻っていく。何をするのかとみていると、ヒリューはカウンター後ろの棚で何かをしたと思うと、棚は本当にゆっくりとではあるが大きな音を立てて動き始めた。

 裏には整えられた階段に続くトンネルが姿を現す。


「す、すごーーーー!!!」

「ちょ、ちょっとここ使うの?」


 セシリアは少し慌てたように強くシエルとユーヤに告げる。


「ここを開ける権利はウチにある。地上側からは絶対に空けられないから間違っても地上からここに逃げ込もうとするんじゃないよ」

「そんなこといわないでくれ、これは君にしか頼めないんだ」


 ヒリューは困ったように笑って懇願する。その表情は思わず誰もが条件を飲んでしまうような人懐っこい表情だ。

 一体男女問わず何人この表情に心を動かされて来たのだろう。

 きっと自分の姉もこの顔に騙されたクチだ。


「うぐぐぐ……!ウチが貴方の『お願い』を断れないの知っててやってるだろ!?」

「ほんと悪い、今度新しく本持ってくるから……」

「そんなことじゃない!本当にいいのか、言って…………」

「構わない。そんなことより彼らの安全の方が重要だ」


 キッパリと言い切ったヒリューに対し、セシリアはいつまでも煮え切らないようだったが、ふうと息をついて無理矢理に納得したようだった。

 ヒリューが通りやすいように棚を更にずらしている間にセシリアが大きなため息をついてシエルとユーヤに告げる。


「あんたたちが来ても開けてやるよ。でも勘違いするんじゃないよ、あくまでヒリューさんに恩義があるからだ」


 ここから少し声のトーンを落として話す。


「時々あの人もこっそりここの抜け道を通って駅に行ったりすることがある。その時にはある合言葉を聞かないとウチは叫び声が聞こえようが何しようが絶対に開けない」

「して、その合言葉とは」

「……………グレイ・リューズは死ぬ間際に人生で唯一自伝を書いた。そのタイトルさ」


 シエルは思い当たらずに首を傾げる。


「え、姉が好きでよく読むからグレイ作品は色々知ってますけどそんな話聞いたこと……」

「そりゃそうだ、世に出されてないんだから。この自伝は人の目に触れることなく主人、いや『父親』と共に滅びるはずだった…。でも、生き延びた、こうしてね」


 セシリアが指を指した先に“それ”はあった。


「タイトルは───」



「長居して悪かったね。また飲みに来るからその時はよろしく頼むよ」

「今日は本当にありがとうございました!」


 礼儀正しくシエルはセシリアにお辞儀をする。ユーヤは2人の後ろに隠れながら小さく会釈をした。


「………ヒリューさんをよろしくね。この人、自分ばっかりで抱えたがるから」

「は、はい」


 セシリアはヒラヒラと手を振った。それを合図にするようにヒリューは踵を返してトンネルの先の階段へ歩みを進める。

 3人の姿が見えなくなったのを確認してから、セシリアは装置を起動して棚を元に戻した。

 すっかり元通りになり静かになった店内を見渡して、小さく溜息をつきながらカウンターに倒れこんだ。左手首に巻かれた包帯の下に残された消えない傷跡を思い、なでながら見つめた。


「どうかあの人が無事でありますように」


 そのまま目を閉じた。


***


「大丈夫?」


義務的な男性の声にうっすらと目を開けた。

腰だけを曲げて自分を覗き込むようにして見つめる男性がいた。

暗くてよく見えなかったが、猫のように細く鋭い金色の双眸がこちらを狙うかのようにじっと見つめていた。


「死に損ねたのかい?それとも、死にたくはない?」


その問いにどう答えればいいのかわからなかった。

確かに死ぬつもりで手首を切った。

ただ、“生きているため”にも手首を切ったのもまた事実だ。


だから、どちらも嫌だった。

ただ、一つ明白だったのは、世の中に“生かされている”のではなく世の中で“生きたい”と思った。


「…………ウチも、グレンに、なりたい」


男性は酷く驚いた顔をした。

グレンは一番好きな物語の主人公。

これはよくあるティーンエージャーの物語。

グレンも同じ輪の内側の人間で、何とか世の中から逃げようとしていた。

幾度の逃避行を経て、ついぞ外に出ることはできなかった。

出ること以上に内側でかけがえのないものに出会い、内側に居場所が生まれたから。


出れなくたっていいから、彼のように…。


「もちろんだとも。なれるさ、君も」


柔らかく笑い、先ほどとは打って変わった柔らかな声で躊躇なく胸元の高級そうなシルクのハンケチで手首を抑えて止血をする。

金色の目が先ほどよりもずいぶんと低くなっていた。

途端に体が浮く感覚が襲う。

気がつけば男性は自分を抱えて走り出していた。



アーレットに来る彼の革靴はほとんど新品同様に綺麗に体をしゃんとしている。

でも、時々履いてくるそのうちの一足にくっきり曲がった跡がひとつだけ残っている。

それが、ウチがまだ輪の内側にいる理由だ。 

今回も読んでくださり本当にありがとうございます。

次回ようやく話が進展しそうですね。


今回アーレット編作成に至り、軽くですが蒸気機関について調べました。まぁよく出来たシステムですね……。長く使われてきた理由も頷けます。

調べたことは何一つ本文で生かせてませんけどね。


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