~ 遍く旅路に星の導きを ~
ようやく旅に出れました。
最近の習慣だったからか日が昇る前にシエルは体を起こした。ベッドの横でだらしなくぐうぐうと眠りこける姉の姿をちらりと見る。
昨日の帰り道、彼女のいないところでユーヤと翌朝に発つ話をしていた(ユーヤは渋々「まぁ何事も早い方がいい」と了承してくれた)から、今日旅立つことを知らない。はずだ…。
昔は確かに一緒に布団の中にもぐって、夢のある話や、明日のことを数えきれないくらいしたのを覚えている。それももうないのだけれど。寝ている姿を見るのは久々だったから、思わず笑ってしまった。今のサラはこんな風に寝るのか。
布団から抜け出してサラに布団をかけなおし、いつもの服に着替える。部屋の隅に用意してあった荷物の中身をもう一度軽く確認してから背負った。
次にこの部屋に戻ってくるのはいつになるかわからないけど、母とサラがいてくれるのなら安心だ。
「いってきます」
小さく声をかけてシエルは部屋を出ていった。
*
リビングに行くとチェリオがもう起きていて、小袋を側において茶を啜っていた。
昔からそうだった。何でも母は分かってくれて、分かられてしまうのだった。諦めるように肩をすくんで笑いかけた。
「おはよう、シエル。行くんだね」
「うん、おはよ母さん。行くよ」
「そう……。体には気を付けるんだよ、危ないと思ったらすぐに逃げるんだよ、ちゃんとご飯食べて寝るんだよ。それから…」
しばらく間を開けて、鼻をすする音と共に小さく声が漏れた。
「……………………いかないで」
「母さん…」
「…レニーも、あなたも、家を出ていく。戻ってくる保証もない。皆そうだった。もしかしたらソラやサヨのように……」
ハッと口が滑ったというように顔をしかめてチェリオはよそを向いて口をつぐむ。
名前を聞いたのは初めてだった。いつも「あの子たち」とか、「あの子」とか、誤魔化した表現ばかりでようやくチャンスを掴んだ!というようにシエルは食い下がる。
「もしかして、その二人が、今も母さんと父さんを苦しめているの?」
「それは違う!」
即答だった。吠えるようにチェリオは否定してああでも、と続ける。
「彼らが苦しみを私たちに与えているのではないの。彼らが心に居続けることで苦しいのではなく、私たちが自分で自分の首を絞めているだけなの」
「それは………………罪悪感、というもの?」
チェリオは悲しそうな、寂しそうな、そしていとおしいように顔をゆがませて微笑んだ。
「……きっとそうなんだろうね」
そのままほろほろと涙をこぼす母の姿を見てシエルはオロオロと行き場のない手を宙で何度も右往左往させる。
「か、母さん……?」
「いいよ、気にしなくて…。うん、元気でね、ちゃんと帰ってきてね」
シエルに頭を抱え込むようにしてチェリオは子を抱きしめる。
気が付けばこんなに子供は大きくなっていて、時の流れをかみしめる。ああなんて、素晴らしくも残酷なことか。
「どうかあなたのゆく道に祝福と星の導きを」
「…母さんにも」
シエルはそっと抱きしめ返す。もう身長はすでに母の背を超えていた。
チェリオはシエルの背を数度軽くたたいて未練などないようにすぐに離れる。次に子に見せる表情はあまりにも明るく、これ以上ないほどにまぶしい笑顔だった。
「いってらっしゃい!バケットに薬草とお肉挟んだのを作っておいたから持ってお行き」
「ありがとう、いってきます!」
それに誘われてシエルも笑顔を返す。チェリオに手を振ると軽やかに家を飛び出していった。
誰もいなくなった部屋でチェリオは蹲りながら嗚咽を漏らす。もう限界だった。
最後私は笑顔を向けていられたろうか?いられたなら、幸いだな。
*
外に出ると森の際は赤みを見せ、紺の空を染め始めていた。
ああ、美しいなと見惚れてしまう。
呆然と立ちつくしていたシエルに尖った声が遠くから刺さる。
「何油売ってんの?昨日帰りに明日すぐ発つとか言っていたのは君だろ。行くなら行くよ」
その声はもう聞き覚えた。
「ユーヤか、おはよう」
明るく手を上げて挨拶するが、ユーヤはイライラしたような雰囲気で大きく舌打ちをすると灰色のポンチョを翻して歩き出してしまった。慌ててリュックを背負い直して後を追う。
「さっき母さんから朝飯をもらったんだ。どうだ?」
ハムやチーズ、野菜だけでなく健康的な薬草も盛り込まれたバケットを手渡す。ユーヤはしばらくそれを眺めたのち、おずおずと手を伸ばして受け取った。
よかった、というように満面の笑みを浮かべて今度は自分のものにかぶりついた。
美味しそうに頬張るシエルの姿を見てから、ユーヤもまたそれを食べ始めた。
「………おいしい」
「だろ?母さんの料理はどれも美味しいんだ」
さらに機嫌が良くなったシエルにユーヤは小さく問いかける。
「なんで……まだこうしてさも親しげに話しかけてくるんだ」
「……逆に聞くけど、なんでユーヤはこうして俺に付き合ってくれているの?」
「だってそれは…僕はあんたのことを騙して、結局無駄骨を折らせたじゃないか……」
「それでも、お前はあの森で待ってたろ?今だって、一人で行けばいいのに俺を待っていた。それに、結果論でいえばこうしてちゃんと親父の情報も入ったんだ」
「…………本当にそれでいいのか?」
ユーヤの声が感情に震える。
「別にあの男の言う通りにせずそのままナトラックへ行ってもいいんだ!わざわざ全国を回らなくたってもう目的の場所は知れてるんだ、このまま………ナトラックへ行こうとは思わないのか」
「つまり、『お前はやすやすと人の言うことに乗っかりすぎだ』って言いたいのか?」
「………よく、分かってるじゃないか」
「うーん、それでもやっぱり俺はヒリューさんの言うことに従うよ。俺には人を疑うことなんて、やろうと思うけど出来ないんだ。きっとあの人のことだし、何か考えがあるんだよ」
その返しに、ユーヤは驚愕の表情を見せる。そんな顔はまだ短い付き合いではあるが、初めての顔だった。
「馬鹿じゃないのか、みたいな顔だな」
「その通りだよ馬鹿。悪いけど、僕はこのままナトラックに行かせてもらう。寄り道なんてしてる場合じゃない」
「い、いやいやいや待ってくれよ、せめて今日くらいはヒリューさんに会って話を……」
「うるさい!!うるさいうるさいうるさい、信じるとかそんな綺麗事ばっかり、うんざりだ!!あんたと話してるとイライラするんだ!悪いがここで別れさせてもらう。1人で聖遺物でもなんでも集めてくれ」
左側へ進路をきってユーヤは歩き始める。慌ててシエルは彼の手首を掴んだ。前は夜中で何も見えなかったが、今は朝、辺りは明るく動きはすぐに読めた。
「な、なんなんだ………えっ」
手首を使って体を引き寄せると小脇にユーヤを抱えてずんずんと初めの目指す方へ歩き出してしまう。
どんな力をしてるんだと一瞬呆けたが、すぐに我に返って暴れだした。
「お、下ろせっ!くそ、なんでこんな力が強いんだ」
「だってこうでもしないとすぐどこかへ行くだろ。それはこっちも困る、なら無理にでも俺はお前を担いで行くよ」
「はあ!?」
「最初の頃の戦闘で、頭はいいが力も体重もないってことは分かってるからな。ここまで来たら泥船に乗ったつもりで付き合ってくれよ」
「泥舟………せめて、大船に乗せてくれ………」
力尽きたようにユーヤはシエルの小脇で項垂れる。大人しくなった様子にホッとしてシエルは軽く笑い飛ばした。
「はは、どうせ荒波だ!泥でも船でも変わらないだろ!」
「……………まぁ、違いないね」
*
朝一番の便に乗って再びトゥールに到着する。街に入るとユーヤは布を巻いて下方から覗き込めばなんとか目元だけ見えるというくらいまでやるとようやく安心したようにシエルの後に続いた。
まずはとヒリュー宅へ足を運んだが、『CLOSE』の木札がかかっていた。
「出掛けてる」
「多分この時間は……あそこだ」
スっとシエルはトゥールの街の中でも最も高い塔のような建造物のてっぺんを指さす。それに対してユーヤはげえっとものすごく嫌そうな顔を見せた。
「なんであんなところに……」
「あそこにはセレラル中の、主にトゥール近辺に住む人達の墓があるんだ」
「だとしたって……。え、まさかあれを登るなんて……」
「そのまさかに決まってるだろ」
キョトンととぼけた顔でシエルはユーヤをじっと見る。根負けしたように大きくため息をついてユーヤは歩き出した。
「行けば……行けばいいんだろ……」
「ああ!助かるよ!」
高くそびえる塔の入口付近まで来ると、大きな気球がもうすぐ飛べるという状態で待機していた。
「徒歩だと思ってた」
「こんな塔普通に考えて歩いて登るわけないだろ。ここは空の国だぜ?」
ニヤニヤと笑うシエルに少しムッとしながらユーヤは腕を軽く小突く。
「ハハッ!ようやく1本取れた気分だ!さ、行こうぜ」
歯を見せながらシエルはユーヤに笑いかけると気球の側へ歩き始めた。
その後を少し間隔をあけてユーヤが続く。
気球の傍でオレンジがかった金髪のボーイッシュな女性が準備を進めていた。その女性にあの、とシエルが声をかける。
「おはようございます。最上階に行きたいんですが、気球使用して大丈夫ですか?」
「いいですよ。気球の操作方法はご存知?」
「はい、問題ありません。これ資格証です」
シエルは懐から小さなカードを出して女性に見せる。それを見て女性は頷き、2人を気球へと案内した。
「さ、どうぞ。バーナーのスイッチはここ、絶対にこのロープは外さないでくださいね」
「分かりました。では、行ってきます」
シエルがバーナーのスイッチを入れ、気球に取り付けられた重石を外すのを見てユーヤもそれに習い重石を外す。すると次第に気球は地面から離れ、ゆっくりと空へ上がり始める。
下で女性が大きく手を振っているのが見えて、シエルは手を振り返した。
「セレラル人って……飛行機だけじゃなく気球の操作もするのか」
「空に浮くものなら大体なんでも、学校の必修なんだ」
「ふーん……。ほんとこんな高いところに墓なんて作って、わからないな」
どうでもよさげにユーヤがぼそぼそと呟きながらため息をつく姿は少し面白くて、小さく笑いながらシエルはバーナーの調節をしながら説明を始める。
「まーセレラル人じゃないとわからないかもしれないな。セレラルは空を飛ぶことで生活をしているからか、星に近ければ近いほど貴い、という考え方をしてるんだ。それだけに高さに誇りを持っている」
「もしかして、それで墓も高いところに置いちゃおうみたいな考え方なの?」
「まあ簡単に言えば。土葬すると、空にはもう飛べなくなるからね。せめて死んだあとも高く高く空と共にあって欲しいっていう、故人を弔う願掛けみたいなものさ」
「ふーん……………」
もうかなり上がった頃、てっぺんも見えてきた頃に、シエルは振り返ってユーヤ見て質問を投げかけた。
「因みにユーヤが住んでいたところはどうやって故人を弔うんだ?」
「…………………」
ユーヤは黙ったまま目を逸らしてしまった。
「ご、ごめん、あまり触れない方が良かったか?」
「いや、別に」
二人の間に沈黙が流れ、やけに風の音ばかりが目立つようになる。
未だに彼との距離の詰め方が分からない。その静寂に耐えられずにシエルが慌てたように言葉を紡いだ。
「あ、あー……き、気球ってすごいよな、火を焚くだけでこうやって空に上がるんだもん。俺学校で説明聞いてもいまいちわかんなくてさぁ」
「……理屈も知らずに操縦してんの?」
まずいことを口走ったかな、とシエルはさらに慌てたように続ける。
「そ、そんな訳ないだろ。なんとなーくは分かってるよ。確か、バーナーで空気があっためられて浮いてるんだ」
「……暖かい空気でなんで浮くのさ?」
「……い、言われてみれば……?」
「……使えな」
「聴こえてんぞ!!」
どうこうしてるうちに塔のてっぺんまで上がる。さすがにここまで空高く登ると辺りは朝ということもあり霞が酷かった。
バーナーの火を弛めながらローブを手繰り寄せる。屋上で職員の鈍い金の髪の男が手でジェスチャーをしながら補助をし、ゆっくりと無事に屋上に到着した。
「お疲れ様です。ここ踏み台にして降りてくださいね」
大きな箱を職員は気球の側に置くと手を貸そうと二人に手を伸ばす。シエルは快くその手を取り気球から軽々と降りた。ユーヤはその伸ばされた手を見つめてじっとしたまま固まってしまった。
不安そうに職員の男がシエルの方をちらりと見たため、大きくため息をつくと箱の上に再び乗り、ユーヤに手を伸ばしながら朗らかに笑った。
「はは、何怖気付いてんのさ。さっさと行こうぜ」
「別に、怖気付いているわけじゃ……」
どうしようかと宙でオロオロしている彼の腕をシエルは思い切って掴み、ぐいっと引っ張って気球から連れ出す。
あまりにもあっという間のことで箱に足をつけたあともユーヤは呆気にとられてしまった。
「人の手を借りるのも悪くないだろ」
一足先に箱から降りたシエルがまたニッと歯を見せて屈託のない笑顔を向ける。
ユーヤは口には出さなかったが、目が眩んだように少し目をすぼめ、ぼんやり眩しいな、と思った。
ハッとしたように我に返り慌てて箱から降りる。
「ありがとうございました!帰りもよろしくお願いします」
職員の人に声をかけて奥に見える人の影の方へ歩き始めた。ユーヤもそれに合わせて続く。
「思っていたよりも広い」
「ウン、まあそりゃセレラルの中心都市だし、そこにある中央墓地もこんなもんでしょ」
石板が床に埋め込まれており、その傍に花や羽が添えられている。そこの手前に人は片膝をつき、両手を組んで祈りを捧げている様子が見られた。
かと思えば床に埋め込まれるだけでなく、石板上部に人の姿を象った石像が取り付けられているものもある。先程見えた人の影はほぼ実際の人ではなく墓に取り付けられたそれであったようだ。
「石像が付いているものと付いていないもののの違いは?」
「付いていないのは遺体が残っている墓のもの、付いているのは遺体が残っていないものの墓だよ。墓を高くに作ったところで体がないなら意味が無いから。失った体の代わりとして石像を置いてるんだ」
確かに、言われてみれば髪が短いものから長いもの、女性像や男性像、笑顔のもの、悲しそうな顔、眠ったように目を閉じたものまでまさに多種多様であった。
「それにしても、こんなに高いところまでこの広大な土地を伸ばす技術に感服だ……」
「まぁ、うちの近所やフィールが異常なだけだよ。基本的に都市はどこも塔型だから、こういうのはむしろセレラルの十八番さ。結構セレラルの色んな町回ってたんだろ?墓とか見なかったのか」
「逃亡中の身で観光しろと?いよいよ頭沸いてるね」
「冗談冗談。色々聞いて回ったけどどこに行っても街での目撃証言は取れなかったからそうだろうなとはなんとなく」
そしてすぐにシエルの口から、あっ、と声が漏れる。お目当ての人物がいたようだ。
真っ赤なニットベストはこの霞んだ視界からも良く見える。
「ヒリューさん!」
声をかけながらシエルはヒリューの元へ駆け寄った。ヒリューはシエルを認識すると絵に書いたような驚き慌て方をしてオロオロとする。
「えっ、な、なんでここに…!?ていうかユーヤくんもこんなとこ来ちゃ目立つだろ!早く戻るよ!」
「すいません家にいなかったものでつい」
「ついじゃないよ、何かあったらどうするんだ」
ユースは慌てふためくヒリューが先程まで祈っていた墓をチラリと見る。
墓には石像の頭部が破壊された状態で残されていた。
「顔が………」
「まったくもう……ん?あぁこれかい……?」
「いつになったらそれ直すんですか?」
ヒリューは石像の首のあたりを指の腹でなぞり、目を細めて小さく呟いた。
「これはこのままでいいんだ」
シエルとユーヤは顔を見合わせて首を傾げる。この手の込み入った話はシエルも詳しくは聞かされていない。
パッと顔を明るくしてヒリューは2人の肩を押した。
「さ、戻ろうか。はやくしないとね」
大きく伸びをしながら帰路につこうとするヒリューの後ろで、ユーヤは一瞬墓の名前を確認してシエルと共に後を追った。
「名前のところ、"ピーター"って………?」
「それな、何度聞いてもまた今度ってはぐらかされるんだよな」
「……………」
遠くで早く早くと言うようにヒリューが大きく手を振っている。霞も今朝ほど濃くはなくなってきたようで、そろそろ本当にまずいと歩調を早め始める。
*
「うん、今日はいい天気になりそうだ」
地平線が赤みを帯びる空を見ながらヒリューが呟く。
「ユーヤくん、気球の乗り心地はどうだい」
「まあ……悪くは」
「なら良かったよ。シエルくんも帰りの操縦ありがとう。俺は飛行機も気球もなぜか変な方向に飛ぶし、どうも慣れなくて下手くそなんだよな。この歳になって専門学校に通うのもどうかと思うし。すごく乗りやすいよ」
「気球の操縦はまだ飛行機より簡単だからな!」
「………もしかして何か誰かに言われた?」
そこで思い出したようにユーヤがヒリューに小さく声をかける。
「……あの、その、結局彼の学が足りていないせいで気球の謎が解けていなくて」
「気球の謎?」
どういうことだとヒリューがシエルの方をチラリも見る。彼はと言うと恥ずかしそうに口をキュッと結んで明後日の方を向いていてなんとなくヒリューは察して笑いが漏れた。
「暖かい空気は上に行き、寒い空気は下に行く。空気をこのバーナーで暖めて、浮かす。この効果を利用して気球は浮いているんだよ」
「なんで暖かい空気は上に行くんでしたっけ……?」
「俺はここの専門じゃないから先達の論文の受け売りになるが許してくれな、まず……」
シエルの簡単な一言から火がついたようにヒリューは語り始める。シエルにはやはり何度聴いても理解できない構造だが、ユーヤは興味深そうに耳を傾けて時折うんうんと頷いているようだった。
「………とまあこういうことらしいんだが、飛行機にしても、本当にちゃんとした原理はまだ説明が付かないらしい。その謎に満ちた技術を使って空を飛んでいるなんてなんかロマンがあるよな」
「…………ロマン………?」
「そうですね、興味深いお話ありがとうございます」
「お前初見の時あんだけトゲトゲだった癖に急に丸くなりやがってー…」
ユーヤは何も言わずにシエルとは反対の方にプイと顔を向けてしまう。
「そろそろだね」
もう地上についてしまうようだった。シエルはバーナーの火を調節しながらゆっくりと乗り場を地面につける。
「お疲れ様でした」
先程の女性が駆け寄ってくる。同じように踏み台の箱を置いて手を伸ばす。
ピーター、シエル、最後にユーヤが、今度はその手を取って気球から降りた。
空はもう太陽が完全に姿を見せていて、人々の往来もピークを見せていた。
「この流れに乗じてささっと家に戻ろうか」
被っていた帽子を少しふかめに被り直すと、ヒリューは2人の腕を掴んでグイグイと先導していく。
道中で遠慮がちにユーヤがヒリューへ問いをなげかける。
「あなたの……その髪の色はアーレットのものですね?」
「……それが?」
何事もないように微笑みながらユーヤの方をちらりと向いて見せた。
「いえ、アーレットとセレラルのハーフが何故セレラルの郊外で引き篭っているのかと……」
「引き篭ってるって……言い方はさすがに……」
「こんな朝早くから墓参り、さっきからチラチラと周りを気にしている。僕がいるのもそうだとは思いますが、それにしてもという話です」
「さすがに鋭いよな。まぁ色々あんのよ、大人にもさ」
「そんなに他人にビクビク生きていて、セレラルの偉人になるなんてちゃんちゃらおかしいですよ。あなた、本当に何をやっているんですか」
「大丈夫大丈夫、もう目途は立ってるさ」
「問題をすり替えないでください。僕が今聞いているのは『なぜそんなにも他人の目を気にしているのか』という話です。あなたの計画に口を出す権利はありません」
「だから、言ってるだろう?『色々ある』んだってば」
のらりくらりとユーヤの問答をくぐりぬけてヘラヘラと笑う。そろそろ人通りも少ない通りになりつつある頃に、ユーヤは耐えきれず、ヒリューの腕を掴み動きを静止させ、獣すらおびえるような剣幕で語り掛ける。
「自分のことについてあまりに多くのことを隠しすぎだ。あなたは一体何者なんですか?」
「さて。俺は一体何者か、ね。いろいろ複雑だろ、人の区分としてどこにタグが付けるか決めかねる属性をしていることは自分でも百も承知さ。君はどう思うんだい?」
意地が悪そうにニヤニヤと笑いながら逆にユーヤへ問いを投げた。
髪の色は大地の色を示す土色、瞳は空に輝く日輪の黄色、セレラルの民とは言い難い空を飛ぶ能力の低さ、されど口から語られる知識はどんなセレラルの民にも遅れを取らない。
地形でよく風が通るためか、彼の真っ赤なベストに紛れるほどの赤いマフラーが大きくたなびく。
「シエルくんは?君も同じ立場の者のはず。髪の色、瞳の色に左右されるのか、そうでなければ違うというのか、何が俺たちをそうだと、たらしめるのか」
「俺は…………少なくともセレラル人ですよ。だって、生まれた場所も育った場所もセレラルだから」
「うん、生まれ育ちの場所もまたひとつの答えだ。俺は生まれはアーレット、育ちはセレラルだけれど、どちらだと明確にするつもりは無い。それ故に『俺が何者か?』という問いに対して『わからない』と、そう答えることもまた答えなんだよ」
そしてどこか遠いところを見つめながらぽつりと呟く。
「生まれも育ちも髪の色も目の色も、全て違っていてもただ一つ、空を飛ぶ能力だけで「セレラル人なのだ」と語った大馬鹿者もかつていた。答えは一つなんかじゃないんだ」
ようやくヒリュー宅へたどり着く。
戸を開けて中へ案内しながら、今度はヒリューがユーヤへ尋ねる。
「君はどう?何が、君を君たらしめる?」
「僕は…………………」
入口でユーヤは不意に立ち止まる。
「僕が僕である要素……」
ハッと我に返ったように慌てて急ぎ足で中に入る。そして不快そうにヒリューを睨むと少し声を荒らげて吐き捨てるように言う。
「クソ、あなたと話していると調子が狂う。問い詰めていても、まるで逆にこちらが全て見透かされているような心地にされる。しかもあなた、途中から話をすり替えましたね?」
「ハハ、そりゃあな、答えられないことを話の筋を変えて逃げるのも大事なスキルさ。それに、俺は言葉で生活をしているから、それは最高の褒め言葉といってもいいね」
*
場所をリビングからヒリューの書斎へ移し、話を続ける。
足元に置かれたリュック型の大きな通信機を軽く手で叩く。
「さて、出立前に俺を尋ねてもらったのはほかでもない。昨日来た時も言ったが、安全策を講じてもらう。その安全確保のためにこのいやにでかい通信機で定期的に連絡を取ってもらおうと思ったんだ」
「思った、ということはやめたんですね」
「ああ、だって重いし、繊細な機械だし壊さないようにしろだなんて逆に邪魔だろ?だからとりあえずアーレットまでは俺がついていくことにした」
ポカンとシエルとユーヤがヒリューを見つめる。思ってもいない言葉に拍子抜けして気が抜けたが、持ち直してユーヤが顔をしかめながら訪ねる。
「え、ちょっと待ってください。ついてくるんですか?僕たちに?」
「ああ。アーレットまで、な」
「それでもアーレットで色々終わらせるにも時間がかかりますし、セレラルでやること沢山あるんじゃないんですか…!?」
予想通りの慌てふためき方にいたずらが成功した子供のようにケタケタと楽しそうに笑ってヒリューは組んでいた腕を解いて自らのテーブルに寄りかかるようにして手をついた。
「そんなに驚くことでもあるまいよ。単純にアーレットにやり残したことというか、ちょっと探したいものがあったんだ。そのついで、君たちを信用できるツテに引き渡して聖遺物を集めてもらう」
「ちなみにその信頼できるツテというのは誰なんですか?」
更に眉間にしわを寄せてユーヤが訝しむ。
「まあそれは追々ね。もう連絡はしてあるから、準備に少し待っていてもらえれば今からでもすぐ発てるよ。ホント何で翌日に来ちゃうかなあ……」
すいませんと申し訳なさそうにシエルは首を垂れる。
その様子にヒリューは机にたまった資料を、持っていく必要があるものとないものを見分しながら懐かしそうに笑い飛ばした。
「いいよいいよ。そういう無計画なところは父親そっくりだね」
「父さんに?」
「そうそう。そもそもセーヤの後を追うって決めたときもホント早急なもんでね?突然うちを訪ねてきて、こっちは研究も半ばだっていうのに準備させられてさあ。初めて会った時だってなんだって尊敬する人の………と、まあそんなところだ。向こうに行ってしばらく待っていてくれ」
ぐいぐいと背中を押し出して書斎から二人を追い出す。そして思い出したようにキッチンの上のほうの棚を指さしながらにかっと歯を見せて笑った。
「ああそう、あそこにクッキーが入っていて、あとはあそこに茶葉とティーカップがあるから好きにするといい」
そういうだけ言って書斎にまた引きこもってしまった。耳を立ててみると紙のこすれる音やヒリューの独り言が小さく聞こえてくる。どうするかと二人は思わず目を合わせたが、先ほどのヒリューの言葉に甘えて棚に手を伸ばした。そこにはセレラルではあまりお目にかかれない大きな缶にクッキーのイラストが貼られたものが置かれていた。
「げ、俺これあんまり好きじゃない」
缶を取り出しながらシエルはさりげなくひどいことを漏らす。
「…ちなみに、嫌いな要素は?」
「結構硬いし、パサパサしてて口の中の水分持っていかれるんだよ。救いなのが甘いことくらいだけど、すぐお腹に溜まるもんだからもう実質非常食だぜこれ。ヒリューさんちに遊びに行くと毎回貰ってたんだけどなんかなあー」
げーっと顔をしかめつつも缶を開けてポリポリと食べている。
おなかがすいているのか、それとも単純に暇をしていて適当に何かをつまみたいだけなのか。その様子を見ても一切顔色も変えず、とりあえず、とユーヤも手を伸ばして一枚つまむ。
口にほおばってみると確かに水気が足りていなくて、口の中が水がほしくてたまらなくなる。それもまたなんだか新鮮でまた一つ、もう一つとユーヤはクッキーに手を伸ばしていた。
「え、お前何でそんなに食えるの?一枚で十分じゃない?」
「まあ………食べれないわけじゃ」
「そういう理屈でお菓子って食べるもんか?」
「?」
いまいちわかっていないようでユーヤは首をかしげる。
つまりこいつは食べれれば何でもいいんだろうか。一度おいしくないと一家でも(レナードは不在だったので除外されるが)評判のサラの料理を食べさせてやりたいものだ。
とりあえずお湯を沸かしてお茶でも飲まないと口が乾燥してかなわない、とやかんに水を入れて火をつける。
「お茶と一緒でもないと食べてられないって」
「……?これ単体で食べるものじゃないだろ。だってこれ」
「「ティーと一緒に嗜むのが一般的だよ」」
声が重なる。ユーヤがハッとして後ろを振り返るとそこにはヒリューが先程とは異なり茶色のトレンチコートを羽織り、ツバの付いた中折帽子を手に持っている。そしていつもの赤い毛糸のベストから、アーレットでよく見かける薄い茶色のベストに着替えられていた。
胸元には代わりに赤色の綺麗な石が使われたタイが光っている。
「よく知ってるんだな。もしかしてアーレットに行ったことが?」
「ええ、まあ」
小さくシエルがえっ…っと声を漏らす。瞬時にユーヤから冷たい視線が向けられた。黙っていろ、ということなのだろう。
(おかしいな、確かユーヤはビトロアーレから来たって……。しかもあの目線、黙っていろってことは言われちゃ不味いことか?)
律儀にシエルは口をとざす。
それに気付かないのか、ヒリューは嬉しそうにクッキーの話を進める。
「これはグランドにしか売ってないブランド品で、同じ会社の紅茶と相性がいいんだ」
「そういえばそのロゴ、よくサラが買ってくる茶葉に書いてあるのを見るな。今まで気付かなかった」
「サラちゃんも気に入って飲んでくれているんだ!嬉しいなあ、ここは俺のお勧めだから」
無邪気に、純粋に嬉しそうにふわふわと笑い、沸騰しかけているやかんの側へと離れていくヒリューを見ながら、シエルもさすがに姉へ同情の念を送る。
いや、本人もその気持ちに気付いていないのかもしれないが…。
「好きな人のものを共有したくなる精神だと思うんだけどな………」
「え、そういう関係なの?」
シエルの呟きを拾って小さく横からユーヤが聞いてくる。重々しくシエルはその問に頷いた。
「多分な?あいつ無自覚だから言うとキレるんだ」
「この人の推しが強いから何かあるだろうとは思ってたけど、へえ…」
「お茶入れたけど、なんの話してた?」
「いえ、何も………」
こればかりは他者から言うものでは無いなとシエルは首を振る。しらばっくれようとした矢先にユーヤが口を開く。
「このままだと何もない、進展も後退も」
「いや、本当になんの話…?」
「……………」
シエルの表情が十面相の如くころころと変わる。これは相当悩んでいるようだった。
「とりあえずはい、どうぞ」
ヒリューがティーカップを渡してくる。差し出されたからにはと受け取った時に、ふと鼻をライムの涼やかな香りが掠めた。
「あ、これ………」
ついこの前ユーヤが家に初めて来た時にサラが出した紅茶の香りだ。
「いい香りだろ、このフレーバーが好きでね、よく飲むんだ」
この言葉を聞いたらもうシエルは黙っていられなかった。
「あ、あのッ………!」
「ん?」
「言いたいことがあって、姉…………サラのこと、もう俺もあいつも17歳で、その、なんていうか………」
「子供扱いするなってこと?」
「それは、そうなんですけど………」
「もう17歳か、来年には一人前のレディになるなんて早いね……。色々あったけど、サラちゃん可愛いし、真面目だし、きっといい人がみつかるよ」
「あなたはどうなんです?」
一向に話を進められないシエルを見兼ねたのかユーヤが小さく舌打ちをしてしたあとにぼそりと尋ねる。
ヒリューは笑い飛ばすように跳ね除けた。
「結婚?ないない!子供もシエルくんとサラちゃんが自分の子供みたいなもんだからね」
シエルの心に衝撃が走る。これでは戦う前に負けていたも同然だ。
シエルは失意のままぬるくなって飲みやすくなった紅茶を一気に飲み干す。そっとティーカップを差し出してごちそうさま、と告げた。
「美味しかったです……」
「うん、じゃあそろそろ行こうか!」
何も分かっていないヒリューだけが待ってましたとばかりにカップを受け取って声を上げる。
流し台にカップを置いて少し水を貯めると身だしなみを少し整えてカバンを拾った。
「このままでいいんですか?」
「すぐ帰ってくる予定だから大丈夫でしょ。1日2日なら大差ないさ」
機嫌が良さそうに軽い足取りで玄関に向かう。それを追ってシエルやユーヤも続いた。扉を少し開けて、外の様子を少し窺った後に問題ないと大きく開ける。
顎をクイッとさせて出された指示に従い、2人が先に家を出る。玄関横にかけてあった鍵をヒリューは手に取り、それを使って鍵をかけた。
もう一度ノブをひねってあかないことを確認して、2人へ向き直った。
「よし、お待たせ」
道すがらヒリューはルートの説明をしてくれた。どうやらセレラルからアーレットの中心都市グランドに向かう蒸気機関車の線路は1箇所しかないのだという。大体の位置はというと、アーレットとセレラルの国境を中央から西の端にかけて覆い隠すような大きな森がある。そこの大体中心あたりにグランドへ続く蒸気機関車の小さな駅があるということだ。
シエルとサラが普段学校へ向かう道はその列車を使わず、そのまま森を突き抜ける形で向かうためあまり使うどころか目につくこともない。
普段の利用者数はそもそも他国へ出国する人が少ないためにかなり空いているのだとか。
まずトゥールから出る定期便に乗り、1度リシユール高原に最も近い街まで向かい、その後は徒歩でその駅へ向かう。駅まで向かうのに、全ての時間を合わせて少なく見積っても1時間半はかかってしまう。恐らくこの利便性の悪さも利用者が伸び悩む原因の一因を背負っているのではないか、とはヒリューの言葉だ。
*
日がもう高くなっている頃にようやく駅に辿り着く。ヒリューが腕時計をちらりと見て時間を確認し、ほっとしたように息をついた。
「どうやら乗りたい時間には間に合うみたいだ。ようやく座れるぞ」
「シエルはともかく、なんであなたそんなに元気なんです……?」
「物書きの癖にって?今でもちゃあんと鍛えてるんだな、これが!」
えへん、と誇らしそうに胸を張る。
その二人をよそにシエルは駅の方へと足を進めていた。
赤レンガが積まれた建物で、森の中にあるせいか壁にはビッシリと草が張り付き、森と一体化しているように見えるものの、入口から中にかけては綺麗に掃除されている。
よくよく見てみれば、周りの木の枝が伐採されていたり、回り込んでみると柵が立てられて完全に取り込まれないような工夫がなされていることがみてとれた。
「すごい………」
圧倒されて立ちすくんでいると、その横をヒリューが通り過ぎ、中に入っていく。慌てて2人もそれに続いた。
中はかなり綺麗になっていて、落ち葉がほとんど見えない。左側に切符売り場が、右側に待合室のようなものだと思われる椅子が取り付けられていた。正面にはアーチ状の門があって、その先にはプラットホームが続いていた。すぐ横に、線路が敷かれ、終着点らしく終わって木の立て看板のようなものが設置されていた。その長いプラットホームと線路の分の為に森は切り開かれ、かなり見通しが良くなっている。
「あーっ!!久しぶりですね!!」
高い男性の声が上がる。そちらの方をぱっと見ると、暗く少し茶色がかった、しかし金髪の男性がいた。よく見ると瞳が濃い茶色の色をしているから、ヒリューと同じくセレラルとアーレットのハーフなのだろう。
「久しぶりです。お元気してました?」
ヒリューが手を出すと男性もその手を快く握り、固い握手を交わす。どうやら顔見知りのようだった。
「最近お見えにならないので、何かあったのかと」
そういいながらハンコをポンと押して切符を手渡した。
「ああ、今回はもう2枚追加でお願いします。彼らの分を」
後ろで当たりをキョロキョロと見回しているシエルとユーヤを指さしながら眉尻を下げて笑った。
「……ええ。随分珍しい髪と目の色だ」
「まぁ、気になるとは存じますが。ただちょっとこのことはご内密にしてもらえませんか?」
「……何かあるようですね、しかし分かりました。私とあなたの仲です。星に誓って約束しましょう」
「助かります。お礼と言ってはなんですが、帰りにまた今度新しい本を差し上げましょう」
「はは!それは嬉しい。こう言ってはなんですが、職務中は何かと暇でね。こちらも助かります、さあ、切符です。もうじきSLも着きます」
3人分の切符を受け取ると財布から代金を支払い、彼に手を上げて挨拶をすると離れた。
ユーヤとシエルに小走りで近づくと、2人を軽く引っ張って奥へ誘った。
「列車がもう来てる。あぁ、切符は俺が持ってる。さあ行った行った」
先程からゴトンゴトンと大きな音を響かせて、真っ黒な蒸気機関車がプラットホームにゆっくりとバックしながら入っているのが見て取れた。
3人は軽く走ってプラットホームの奥の方へと急ぐ。先頭車両の扉から中に入ると、椅子が向かい合っている場所を選んで座り込んだ。
「俺、実は蒸気機関車に乗ったの初めてなんです」
「へえ、意外だなあ。トゥールとかから比べれば近いからてっきり行ってるものだと」
「サラは行ってるみたいですけどね。学校以外じゃずっとセレラルから出たことがなかったから…」
「そうなんだ。……ならばこの旅はきっと、君にとって全てが新鮮なものになるだろう。この世界は君の知見を一新する全てが詰まっている。是非楽しみ給えよ」
噺家のような着飾った口ぶりでニヤリ、とヒリューが歯を見せて笑う。
それと同時に、ゴトン、と再び列車が動き始めた。車窓の風景が動き始める。3人以外誰もいないすっからかんな車両の中とは裏腹に、シエルの心は希望と期待、少しの不安でいっぱいになっていた。
「は、はい!」
***
覚えている範囲で日記を書こうと思う。
いつ死んでもおかしくない状況になってしまった。
私が死んでしまえば語る人がいなくなるだろうから、それでは浮かばれない。兄が、彼らが浮かばれないのだ。
だから、昔話をしよう。
愚かで、輝かしい日々をどうか聞いてくれまいか?
父も母も生まれも生粋のセレラル人。
小さな町の病院で私たち双子は生まれた。
母は私たちを下ろすつもりだったらしいが、父がどうしてもと頼み込み、出産した後は私たちを捨てて何処かに消えてしまった。
消息は今でも分からない。
調べてみようと思った時もあったが、初めに捨てた私のことを気に掛けてくれる気もしなくて、なんだか不毛な気がしてすぐに辞めた。
それから男手ひとつで育てられてきた。
あまりに心労が祟ったらしい。父は私たちが10の時に死んだ。
どこにも行くあてがないと立ち尽くしていた時に、優しい老夫婦がいて引き取ってくれた。
それから2年、私は兄と共に二人三脚で必死に毎日を過ごしていた。
ただ、必死で、辛くて、大変ではあったけれど足りない何かを求めて奔走する純粋無垢なあの日々は、私の人生で最も幸せな時期だったと思う。
これが壊れ始めたのは、きっと私たちのもとに手紙が送られてきたあの時からだ。
セレラル編おわりです。
次はアーレット、がんばります。