第5話 道三
先ほどまでの雷雲は、いつの間にか去り、今は薄雲が二つ三つあるだけとなった。二十三夜の月の明かりが、前庭に向かって開け放たれた部屋へ差し込み、光秀の彫りの深い顔を一層濃く見せている。
「道三公こそ、武と和と富という力をもつために邁進されたお方だった。おれは、道三公にお仕えし、いつも近くでそれを感じていた。」
光秀は、往事を懐かしむように月を見上げながら言った。
「おれは、道三公がこの美濃の国主であった頃は、奉公衆として摂津国におりました。摂津に聞こえてくる道三公の風評は、悪いものばかりでしたが。」
利三の美濃斎藤家は将軍に近侍する奉公衆の役目をもっていた。利三は、元服から20歳の頃まで、その奉公衆として畿内にいた。出発の前夜、既に奉公衆を退いていた父・利賢は息子の門出を誇らしげに思って盛大に壮行の宴をしてくれた。利賢は将軍に御目見得できることで今後の出世も見込めると喜んでいた。
が、現実は違った。京で感じた将軍という存在の惨めさは想像を絶していた。京の行政権は、阿波(現:徳島県)から進出してきた三好家に牛耳られ、奉公衆などあってないようなものだった。わずかな武士が将軍の周りにいるぐらいであり、若年の利三が側近く仕えられるような状態ではなかった。利三は将軍の権威など地に墜ちてしまっていることを実感した。美濃に還ろうかとも思ったが、それでは役目を放棄したことになる。そんなとき、形だけでも将軍を擁している三好家は、「三好のために働くことは将軍のために働くことと同じだ。」と、利三を三好家の被官であり、摂津を差配する男に仕えさせた。この不可思議な理屈に疑問をもつには、10代の利三は若すぎた。いや、三好が老獪だったのか。
今となっては、悔いるべき過去だと思うが、戦の場数を踏み、戦のかけひきを学べたのは、よかったのかもしれない。三好家は京を中心に畿内を掌握せんと、敵対勢力とあちこちで戦をしていた。利三は、がむしゃらに戦場を駆けた。奉公衆としては、戦の思い出しかない。ただ、美濃の様子は、いつも気にかけていた。
美濃では利三が生まれるより前にすでに長井新左衛門尉、その子・規秀(のちの道三)による美濃乗っ取りが始まっていた。京から流れてきた松波庄五郎が、長井長弘に取り入り、西村、長井と美濃の名跡を次々と継がせてもらい、そして、長井新左衛門尉と名乗るようになったとき、その頃、美濃の実権を握るようになっていた主筋の長井長弘を殺した。天文11年(1542年)、その乗っ取り事業を継承した道三は、守護の土岐頼芸をも放逐して美濃を乗っ取った。利三がまだ元服する前に、美濃乗っ取りは成就していた。
利三の三好家を介しての将軍への奉公中、畿内に流れてくる道三の評判は非常に悪かった。畿内では、主家の細川家を内部から徐々に浸食し、細川家の実権を乗っ取った三好長慶の下剋上が人々の印象にあったようだが、この美濃の乗っ取りは、ほとんど美濃に縁のない外部からの流れ者によるものであり、そして、なりふりかまわず、主筋を殺し、守護を追い出す所業、その野心の憑依者のような酷薄な下剋上は、人々に鮮烈な印象を与えた。
「美濃という、鳥の卵を呑み込んだ蝮とか、人非人とか、人々は、美濃に鬼か蛇でも棲んでいるかのような言い様で罵っておりました。とても光秀殿の言われる『和』からは遠いのではないでしょうか。」
利三は、光秀がどう答えるのか気になり、光秀にとっては旧主である道三の悪評について遠慮することなく言った。
「それは、道三公の不運だ。長井家に取り入り、長弘殿が美濃の実権を握ったところを見計らって殺したのは、父の新左衛門尉殿だ。道三公の代で美濃の乗っ取りが済んだので、道三公お一人で乗っ取りをやり、主筋殺しもその過程で道三公が行ったように受け取られた。」
「では、守護の土岐殿を放逐したことは?これは、道三公ご本人がされたことです。」
「あれは、土岐殿をあのまま美濃に置いておいては、尾張の織田を何度でも引き入れる。そうなっては、美濃はますます戦で荒れるだけだ。道三公は、それまで朝倉や織田にたびたび攻め入れられ、疲弊する美濃の民のために、守護を追い出した者としての悪名を負っても、苛烈な手段をとらねばならなかった。」
「人の噂というものは、よい話より悪い話の方が伝聞は遥かに速く、永らく残る。遠く離れた摂津では、道三公のその想いまでは聞こえて参りませんでした。」
「道三公が国主になられるまで、守護の土岐殿は、内輪の家督争いが絶えなかった。一方が美濃の武士を集め、一方は朝倉に頼り、争う。こんな戦を何度も美濃は経験した。その度に美濃の民は田畑を荒らされ、糧米の供出に苦しんだ。故に道三公は、守護などという幕府の残滓を除いたのだ。道三公は、おれに『世の人々に何と言われようが、わしは、美濃を強くし、民が安穏に暮らせる美濃をつくる。』と言われた。」
「・・・。」
利三は、酒を勢いよくあおった。これまで道三に抱いていた認識を改めなければならない。道三は、美濃の「和」を生み出すため、旧弊にしがみつき、争いをやめぬ因循な守護を放逐したのだ。
その後も、光秀は、道三が美濃にもたらした「武」の側面を説いた。軍備として、三間槍(約5.4メートルの槍)を導入し、野戦を有利に展開できるようにした。加納口の戦いでは、その三間槍をもった槍隊の活躍と道三の敵の引き際を見極めて行った奇襲で稲葉山城下に攻め入った織田軍を完膚なきまでに破った。織田家当主・織田信秀は、命からがら尾張まで逃げ帰った。道三の戦術と戦の呼吸を見計らった戦いぶり、時代の流れの先を読む武器の導入など、光秀は、美濃と斎藤家の前途に光明を見た想いだったそうだ。
さらに、「富」の側面についても光秀は語る。井ノ口(現:岐阜市)での「座」の特権を廃し、営業税を格安にしたことで、商圏を開拓したい商人が櫛で糸を引くように集まってきた。これにより、井ノ口の街のにぎわいは、土岐家が守護であった頃とは見違えるほどになった。商人が井ノ口に商いのために長く滞在すれば、滞在中、銭を使ってくれるし、格安で営業ができるという風評が各地に広まれば、ますます商人が集まり、営業税の総収益は増える。国を富ますには、その者の立場に立って考えなければ方策も生まれてこない。道三の父・新左衛門尉は京の大山崎で油商人をしていたという。寺社などを後ろ盾にした商人が盤踞する商圏へ、新興商人が入り込むのがいかに難しいか、新左衛門尉は、道三にも常日頃話していたのではないか。そして、美濃掌握後にすべき商業政策を父子で練っていたのだろう。その成果が井ノ口において結実したといえる。
光秀は話し終わると、道三ありし日の統率のとれた斎藤軍の威容や井ノ口の活気などを思い出しているのか、しばらく眼をつむっていた。静寂が二人の間に、しばし流れた。