ただ、それはいとしくて
人は、およそ60兆個の細胞でできているって、理科の先生が言っていた。それが数ヶ月のサイクルでどんどん更新されて、二、三年後には体の細胞はまったく入れ替わってしまう。そうなんだってと、お母さんに話したら、「だったら、どんどん若返ってもいいはずなのに」って、おせんべいのデコボコを凝視していた。謎だ。
インターネットで人間の細胞の数についてちょっと検索してみたら、37兆個って言っているひともいて、やっぱり、世の中には謎が多い。
*
南先生がなんでそんな話をしたかというと、今日があたしたち第六中学校の卒業式で、担任らしく最後の言葉を贈るからだって。先生、それなんか死ぬみたいじゃんって、青木くんが横槍を入れてた。
「餞の言葉だ、花婿じゃないぞ。大事な場面で恥ずかしい失敗をしないように、そういうむずかしい言葉も皆さんそろそろ覚えていきなさい」と、真面目くさった顔をしていた。
かと思えば、夢をいだけ、未来を見るんだ、細胞と無限の可能性がどうとかなんとか、熱いことを語っていた。もう忘れた。
なんであんなに熱血なのに理科の先生なんだろう。南先生には会社勤めのほうが向いてるって思ってたけど、やっぱり教師でよかったのかもしれない、というのは繭ちゃんのお姉さんの話。飯沼繭子ちゃんは、中学一年からのあたしの友だち。
会社勤めと先生がどう違うのか、あたしにはまだよくわからない。繭ちゃんのお姉さんはすでに社会人で、繭ちゃんとは十歳離れている。南先生は、十年前もここにいたんだ。繭ちゃんのお姉さんの担任ではなかったみたいだけど、ときどき「姉ちゃんは元気か」と繭ちゃんに訊いていた。繭ちゃんは、そのたびにうっとうしそうだった。
「ミナミ……あいつは、あいつだけは、キモいッ!“これで飯沼系統の顔は見納めなのか、残念だなあ”ってなに!? 鳥肌たつわよ。あいつはいったい、なんなのか。あれじゃあ、女が寄ってこないのも当たり前じゃないか」
繭ちゃんは、右手に卒業証書の筒をもって、制服のうえから両腕をさすっている。
あたしたちがいる渡り廊下からはグラウンドの半分が見渡せる。15分くらい前までは、卒業生が大勢集まっていたけど、今は人もまばらだ。
「ほんとにさみしそうに言ってたよね。子犬っぽかったし? 顔は悪くないと思うんだけどなあ~ちょっと変わってるよね」
あたしは、窓がない渡り廊下の手摺にあごをつけて、両腕を向こう側にだらんと垂らして、グラウンドから巻きあがる砂を見ていた。
魚岡枢、十五歳。
我ながら、ちょっとない字面だと思うわけよ。勇ましいというか。
“物々しい”とか、“字だけみたら、カンペキに男”とか。老若男女に言われてきた。おかーさんったら、「かなめ」だけでも可愛い漢字にしてほしかった。
「ね、枢ちゃん。卒業証書落ちちゃうよ」
サラサラーっと、ポニーテールの黒髪が肩をすべって、切れ長のきりりとした瞳があたしを映した。
「んー、風にのって飛んでってくれないかなーって思って」
「え、枢ちゃん、卒業証書いらないの?」
「だって、どうすりゃいいのかわかんないもん」
別に自分の名前が嫌いなわけじゃない。でも、こうも堂々と書かれているのを見ると、なんとなく気圧されるというか、なんか違うひとの名前を見ている気になるというか。
だからこう、風に吹かせて、字が薄くなってくれないかなとか。あわよくば、魔法みたいにサラサラと空気に溶けてくれないかなとか。とかとかとか。無駄な抵抗なのは、だれよりも知っている。ちなみに卒業証書の筒は、足元のリュックサックに突っ込んである。
「……卒業証書を額に飾ってもなあ……。おかーさんなら、やるだろうけど」
「枢ちゃんのお母さん、なんでもとっておくんだっけ?」
「そぉうだよーだから、タンスもクローゼットもぜぇーんぶ物が詰まってるんだよ。ものを飾るのも好きだから、観葉植物やら置物やらで、もうこのままだと、あと数年でうちはゴミ屋敷だわ」
「ふふっ」
「繭ちゃんはどうするの? 卒業証書って、飾るもの?」
「帰ってきたら、にいちゃんとねえちゃんに見せるよ。パパにはさっき見せたしね。ママにも見てもらいたいから、額に入れて仏間にかけておこうかな」
そっか、とあたしは口の中でつぶやいた。
今日の卒業式には繭ちゃんのお父さんが来ていた。繭ちゃんは、十歳のときにお母さんを亡くしている。
原因は、じつは何か聞いていない。というか南先生は知っているんじゃないかと思う。お母さんを亡くしたときは、繭ちゃんのお姉さんは大学生だったそうだけど、南先生はお葬式に来たというし。
だから南先生が繭ちゃんにお姉さんのことを訊いたり、繭ちゃんをからかったりするのは、繭ちゃんやお姉さんを、それとなく気にかけているからなのかも。
……のわりには、ちょっと方向が違うのではと怪しむのは、あたしだけではないはずだ。クラスの女子は、南先生は繭ちゃんのお姉さんが好きなのではないかと勘ぐっている。先生に彼女も奥さんもいないのは、本人が言いふらしているから学校中が知っている。繭ちゃんに直接確かめたわけじゃないけど、先生をいつも迷惑そうにあしらっているのは、そのあたりの事情がありそう。
先生は、繭ちゃんをとおしてお姉さんにアプローチしたいのだろうけど、ぜったいに空回りしてる。勉強はできるはずなのになあ。謎だ。
「繭ちゃんの口から、“にいちゃんとねえちゃん”って出るのが、いまだに変な感じ」
「にいちゃんねえちゃんにいちゃんねえちゃん」
「ぶふっ」
繭ちゃんがグラウンドに向かって真剣に言うものだから、吹き出してしまった。
“繭ちゃんって、きょうだいはいるの?”
“うん、にいちゃんとねえちゃんがいる”
って交わした会話は、数学の小テストで全問正解したときよりも衝撃だった。繭ちゃんを二度見した。
このきれいな女の子の口から小学生男子のような言葉が……って固まってしまった。
切れ長の目に、まっすぐな黒髪のポニーテル。スッと伸びた背に、白い肌。学年の男子の間では、“女版・趙雲”と呼ばれている。
二年生のとき、女子の体育の授業で剣道を習ったあとの休み時間、何人かの女子が防具をつけずに道着のまま竹刀でじゃれていたらしい。それを目撃した数人の男子が、「マジ、趙雲だった……」と言ったことが広まって、今じゃ陰でしっかり定着している。繭ちゃんは知らないだろうけど。
あたしはそれを、三年間同じクラスの大野から聞いた。「趙雲ってなに?」と訊くあたしに、いつもはボーっとしてて背ばかりひょろひょろ高いメガネな大野が、やけに熱っぽく拳を握って教えてくれた。
うちの学年ではそのとき、三国志のゲームが流行っていて、男子のほとんどはそれをやっていたから、繭ちゃんにそういうあだ名がついたらしい。三国志ってなに? と訊くあたしには、二年から同じクラスの青木くんが教えてくれた。
三国志の話を聞いたとき、青木くんがそれを知っていたのはなんか意外だった。でも、ゲームを学年の男子に広げたのは青木くんだと自慢げに聞かされたときは、とくに意外でもなんでもなかった。大学生のお兄さんが中古で買ってきたものを借りて、おもしろかったからクラブのみんなに広めたらしい。なぜ、一クラブからそんなに広まったのか。それは、青木くんのいる陸上部が学校内で一番男子の人数が多いから。第六中学の陸上部は、大会で全国優勝などしてしまう強豪なのだ。
そんなわけで、青木くんが広めた三国志のゲームは、思わぬところで繭ちゃんまで波及した。いや、本人は知らないけど。
で、じつはいらないオマケがついてくる。
三年になって、南先生があたしたちの担任になって、繭ちゃんのお姉さんのことを先生は好きなのではないかという女子の勘繰りが男子にまで届いてしまった。なので、繭ちゃんはいろんな意味で注目されることになり、ついでに繭ちゃんと仲がいい、名前が変わった字面のあたしも注目されるに至った。ぜんぜん嬉しくない。
「高校では、おとなしくいきたい。目立たず、騒がず、波風たてず」
手摺から身体を起こして、手摺の丸い部分に卒業証書をくるくる巻きつけてみた。
グラウンドの砂は、春何番目かわからない暖かい風にあおられて、グルグルグルグル回っている。窓がないから、こっちまで砂が届いて、若干、あたしたちの上履きもザラついてきている。
サッカーボールがグラウンドをコロコロ這っている。昼前の太陽の光が全面に射して、黄土色なのがあかるい黄色にみえる。
「枢ちゃんがかわいいから、目立ってたよね」
繭ちゃんが、グラウンドに向いていた身体ごとあたしに向き直った。左手に筒を持ち替えて、右手で手摺をつかんで、手摺を支えにかかしみたいに両腕を広げて身体を斜めにした。
ポニーテールが左腕にかかる。
なんだっけ、こういうの。あ、やじろべえだ。理科で習った。……また理科。
「繭ちゃんは、高校でもまたテニスやるの?」
繭ちゃんは、かわいいというよりも美人だ。そして、かわいいというなら、あたしの妹のほうがあたしよりもっとかわいい。来月この中学にあがるけど、あれはモテるだろうな。
……南先生に、魚岡“系統”の顔とかなんとか言われるんだろーか。
っていうか、系統ってなに。兄弟姉妹にその言い方、おかしくない? 南先生は、教師としてどうなんだというのは、みんなの間でよく会話にのぼる。あたしは、問題ってほどにも感じなくてどうでもいいけど。毎日の晩ご飯のメニューのほうが大事だ。
「やるにはやるつもりだけど、今度はマネージャーやりたいな」
「マネージャーって? 女子の?」
繭ちゃんは、やじろべえ状態を保って、顔をグラウンドとは反対側に向けた。
ポニーテールが背中に流れる。
しなやかで、躍動的。
女版趙雲なんてあだ名は、繭ちゃんにはモサい。校外学習で動物園に行ったとき、動物たちを観察していて、雌豹か、鷹みたいな鋭い系がいいかなとふと考えたけど、鶴をみたとき閃いた。
繭ちゃんは鶴だ。揺れるポニーテールは、優美な鶴の長い首。
この女の子の、一つひとつも60兆個の細胞でできているのかな。
首も髪も、しゅっとした脚も。
「ううん、えっと。言ってなかったんだけどさ、高校に受験の願書出しに行ったときに、男子テニス部の――――」
「……おい? 飯沼? おまえ、なにやってんの?」
「やあ、三国志好きの青木くん。きみの好きな司馬仲達は、おそらく一度に三つも質問をしないはずだよ」
繭ちゃんはやじろべえ状態のまま、あたしたちの会話に割り込んできた青木くんに、左手の筒ごと手をあげて応えた。
*
「オレ、仲達じゃねーし……。というか、マジで飯沼はなにをやってんだ? かなめんは、飯沼のこの状態にツッコミを入れないわけ?」
「繭ちゃんが身体を動かすのは、よくあることじゃん」
手摺に巻きつけていた証書を、あたしは、今度は逆方向に回しながら言った。
あたしは趙雲のことは詳しくないから(興味ないってことだけど)、女版趙雲なんてあだ名がほんとうにその通りなのかはよく知らない。でも繭ちゃんは身体がやわらかくて、体育の時間の前後には柔軟運動とか開脚とかよくやっている。だからあだ名は伊達ではないと思うし、繭ちゃんが学校のどんな場所で体操してたっていまさら驚くことなんかない。
「かなめんもかなめんで、なにしてんの……?」
青木くんは、やや遠い目であたしたちを見ていた。
「それよりも青木。このさいだから言っておきたいんだけど」
なぜか、いきなり強い調子で繭ちゃんは青木くんを見つめた。右手をテコにして、やじろべえ状態から勢いよく起き上がった。
青木くんは、後退こそしなかったけど怯んでいた。美人にいきなり睨まれたら、ビビるよね。
「なな、んだよ」
「青木くん、変なところで言葉を区切ってるよ」
「かなめんはちょっと黙ってて」
「なな、んだよ」
「ちょ、真似すんなよ」
「……青木。わたし、あんたに言いたいことがあんだけど」
「なんだよ!」
茶々を入れられたことがくやしかったのか、ヤケ気味の青木くんが顔を赤らめた。
繭ちゃんが、静かにキレている気配がする。でも鶴はキレても美しいんだ。
「あんたさ……、よくも三国志ゲームなんて広めてくれたよね。おかげでわたしは、女版趙雲とやら陰で呼ばれてるみたいじゃないか」
「……えっ」
というのは、あたしと青木くんの声。
繭ちゃん、もしかしてあだ名のこと知ってたの?
「飯沼、知ってたのかよ!? えっ。かなめん、飯沼に言ったの!? っていうか、本人にはバレないようにってみんなに言っといたのによお……」
「青木くん、あたしはなにも言ってないよ。あだ名のことは知ってたけど」
繭ちゃんのほうを向くと、あたしの視線に気づいて爽やかに笑ってくれた。鶴はなにをしても優美。
「語るに落ちてるよ、青木。しかもわたしの友だちを真っ先に疑うなんて、あんたは董卓以下だ」
びっしゃーーん。ガラガラガラーって効果音が入りそうなくらい青木くんが固まった。
と、董卓……と打ちひしがれている様子だ。
あとで聞けば、董卓は青木くんが大嫌いな武将とのことだった。帝を差し置いて朝廷を牛耳り、やりたい放題していたろくでなし。しかも女好き。これは、あとから聞いた繭ちゃんの言葉だ。繭ちゃんは、お姉さんの影響で三国志にちょっと詳しい。その話には、いつだったかメガネの奥をギラギラさせて大野がむちゃくちゃ食いついてたのを憶えてる。
「オ、オレが董卓以下……。ゲームで強くて、破壊力抜群でもオレはイヤだッ……!」
「回りまわって董卓以下。風が吹けば桶屋がもうかるってことくらい、計算できない? そこまでじゃなくても、少し考えたらわかるよね」
「い、飯沼。なに言ってんだ……? ってか、あんなデブの酒池肉林ヤロー、絶望しかない……」
「ねえ青木くん、仲達ってひとじゃないから落ち込んでるの?」
「かなめん、チガウ。それチガウ。そんで、この話にぜんぜん興味なさそうだよな……」
目が死んでいる青木くんと、その青木くんにまっすぐな視線を外さない繭ちゃん。繭ちゃんと青木くんの対角線上にあたし。三角形。まだ卒業証書を手摺にくるくる巻きつけてるあたし。相変わらず、風はビュービュー吹いて、ますますほこりっぽい。うーん、掃き溜めに鶴って図?
……あ、ごめん青木くん。
「わたしを見くびらないでくれる。それと、わたしはそんなことに怒ってるんじゃないから。青木……、高校入ってわたしのあだ名のこと言いふらしたら、あんたの首を落として晒す」
怖ぇ……とドン引きしてる青木くんに繭ちゃんはさらなる追い打ちをかける。
「大野と他の二人は、もともと噂なんか気にするやつじゃないから、頼めばきいてくれる。つまり、高校に入って女版趙雲のあだ名が出たら、犯人はあんたしかいないってことよ。わたしがあんたの首根っこおさえてんだ。わたしに関する余計なこと言ったら……、今ここでバラすから」
「…………はっ!? えっ!? なにを!? えっ、待て、なんで飯沼が知ってんだ!? え、知ってんの? バレてんの? っていうか、オレまだ言ってない、なんも言ってない! オレ、無実! 裁判長!」
ハイッと、選手宣誓もかくやという姿勢で、青木くんはもう、生命維持活動を止めそうだ。息を止めてるし。
「繭ちゃん、バラすってなんのこと? 青木くん、なんかヤバいの?」
そのうち、唇が紫色になるんじゃないかというくらい顔色のおかしい青木くんは放っておいて、あたしは繭ちゃんをみた。
繭ゃんも言っていたとおり、あたしたちは同じ高校に行くのだ。繭ちゃん、あたし、大野、青木くんと、ちがうクラスの他二名。みんな顔見知りだから、ちょっと心強い。入学する高校は5クラスしかないから、だれかとクラスがかぶれば、なお好い。
一緒になれないかな、繭ちゃんと……。
…………あと。
……。
「ヤバくなるかならないかは、青木次第だよ。わたしは忠告したまでよ」
「も、もはや脅迫の域であります、裁判長……」
這う這うの体の青木くん。大丈夫なのかな。
……あ、でも。繭ちゃんのあだ名を聞いたのは、大野からなんだよね。あれは、趙雲の名前に反応してたって思ってていいのかな。
なんか、あのときの大野は、目がキラキラしてて、趙雲を語ってるときはうれしそうで、こんな顔もするんだなって意外で――――――
「あ、噂をすれば。あれ、大野じゃない?」
「へっ、うわっ!? あっ!」
「あっ、枢ちゃん!?」
繭ちゃんの声に思わずびっくりして、手摺から手を放してしまった。そしたら、手摺にくるくると巻きつけていた卒業証書が、さっきからの強い風にくるくるの形のまま、いとも軽く舞い上がった。
あ、ああ。ああー…………。
いっそこのまま、飛んでけー……とばかり、ぼうっと卒業証書を見送っていたら、
「おーい! 大野ぉーっ! ねえ、それ取ってくんなーい!? 枢ちゃんの卒業証書なんだよーっ」
うわ、一瞬目が合った。
……まだ帰ってなかったんだ。転がってたサッカーボールって、もしかして大野が蹴っていたのか。
「わっ、かなめん、大変じゃん!! ってか、大野ーっ、おまえまだいたのかー?」
「あ、飯沼たちじゃん。青木も残ってたのか。シュート練してたー」
「大野、その舞ってる紙とってあげて! 卒業証書だから!」
二人ともあたしに世話を焼いてくれるけど、むしろ放っておいて。
「大野! それっ、とらなくていいっ!」
え、なんて? とのほほんと聞き返してきて、あたしの渾身の叫びは風に消されて大野に届かなかった。
もう拾われてるじゃん……。
大野の手には、丸まったあたしの卒業証書がおさまっていた。
なんか不覚をとった。
「……あのままどっかに飛んでいってもよかったのに……」
「枢ちゃん。せっかくの卒業証書なんだし、とっておきなよ」
繭ちゃんが清々しいまでの目であたしに言った。
「形なんか重要じゃないよ……。卒業式のことはちゃんと覚えてるから、いいもん」
「形が大事なときもあるよ。そういうのがあるなら、持っておいたほうがいいってわたしは思うんだ」
「うん……」
繭ちゃんが、このときどういう思いでそれを言ったのかは、わからなかった。でも、繭ちゃんはその大事ななにかを知っていて、それをあたしに伝えようとしてくれているんじゃないかって感じて、それ以上のことは声に出てこなかった。
*
「はい、枢ちゃん」
「……ありがと」
卒業証書の筒ごと、あたしの手のひらに、ぽんと渡された。大野が拾ってくれた卒業証書を筒に入れようとしたけどうまくいかなくてまごついていたら、繭ちゃんがくるくるっとしてシュトンって筒に入れてくれた。そしてもう一度リュックサックに突っ込んだ。
あたしたちは今、教室にいる。三年一組とも今日でお別れで、ほかのみんなはとっくに帰ってしまったようだ。
「おまえさー、卒業式終わってシュート練って気合いありすぎじゃねえ? そんなサッカー好きだっけ? あっ、なら、高校入ってもサッカー部にすんの?」
大野と青木くんが話すのを横で聞いていた繭ちゃんが、青木くんを鼻で笑った。また一度に質問を三つもしたからだろーか。
大野は、中学生最後のグランドを堪能してたとか、サッカー好きじゃなきゃサッカー部に入らないだろうとか、高校ではサッカーはしないとかいちいち答えていた。
大野は、高校では部活しないのかな?
こんなふうに、楽しければいいなと思う。繭ちゃんと、できれば大野と一緒のクラスになって(青木くんもいてもいい)、毎日、何気ない会話が続けばいいなと。
「あっ、かなめんがニヤニヤしてる、なに笑ってんの」
「高校行っても、こんなだったらいいなーと思ってさ」
「つまり青木は董卓以下のままってことよね。……さっきのこと、冗談じゃないからね。ちゃんと覚えときなよ」
きりりと眉をあげて、青木くんを正面から見据えた繭ちゃんは、ほんとうに綺麗。その話、蒸し返さないで……と、青木くんはまた顔色が悪くなった。
「さっきのことって、なんかあったの?」
大野が、リュクサックを肩にかけてのほほんとした口調で訊いてきた。
「あー……、繭ちゃんのあだ名のことでちょっと」
「わたしのこと女版趙雲って高校で呼んだら承知しないよって言ったんだよ」
「……もっと凶悪な言い方だった気がします裁判長……」
「女版趙雲……? えっ、まさか。飯沼、知ってたのか?」
「あれだけ騒いでたら、どんなバカでもわかるよ。しょせん中学生男子ごときに隠し事は無理だと思うよ」
中学生女子はナンボのもんですかって、ボソッと青木くんがつぶやていた。大野が、バツが悪そうに「オレもそれ、話してた。しかも魚岡に……」と頭をかいた。
「ごめん、悪気はなかったんだけど……でもマズかったって感じる」
「いーよ。面白がって話したんじゃないでしょ? ゲームと三国志の話ついでに、枢ちゃんに言っただけだろうし」
「オレとずいぶん扱いがチガウよね……?」
大野は神妙な顔をして繭ちゃんに謝った。まだ頭をかきながら、「魚岡も、ごめん。友だちのそんな話して」と言った。
あたしはなんだか、少し苦い気持ちになって、繭ちゃんを見た。
繭ちゃんは、黒いきれいな目で、すっきりと笑ってくれていた。
「……ね、繭ちゃん。考えもしなかったんだけどさ、あだ名のこと知ってたんだよね? あたし、繭ちゃんが知ってても知らなくても、教えてればよかったかなって……」
さっき、渡り廊下でその話をしてたときはなんとも思わなかったのに、大野の神妙な表情をみていたら、この一年と半くらいの間、ずっと隣にいた繭ちゃんに話さなかったのは、なにかの裏切りにように思えた。
「繭ちゃんはそんなあだ名あったって気にしないだろうって思ってたし、黙ってたわけじゃないよ。でも……」
いま、わかった。繭ちゃんは、さっきのあたしの言葉を拾ってくれたんだ。
“高校では、おとなしくいきたい。目立たず、騒がず、波風たてず”
繭ちゃんは、女版趙雲のことがあるまえから、綺麗で美人だから、学年のみんなが知っていた。三年になってからは、南先生と繭ちゃんのお姉さんに関するやり取りがあって(南先生が一方的にやってることだけど)、一、二年のときとは比較にならないくらい学校のみんなから注目されることになった。ついでにあたしも。
それを、もしかして繭ちゃんは気にしてくれていたのかも知れない、ということに、いまやっと。
ちら、と大野と青木くんをみると、ふたりは所在なげに立っている。
あ、なんか巻き込んじゃったかも。
「……枢ちゃんはさ、わたしのせいにしたくなかったんだよね?」
真っ直ぐにあたしを向いて、繭ちゃんは微笑んだ。
ポニーテールがサラッと空気をさらう。きれいなひとの細胞は、細胞までもきれいなんだろうか。
「枢ちゃんは、かわいいんだよ? 妹のほうがかわいいっていつも言うけど。枢ちゃんが目立ってたのは、わたしのあだ名のせいばっかりじゃなかったんだよ。な、青木?」
と、繭ちゃんは突然青木くんをじろりと見た。
うえええ……? と慌てながら青木くんは顔を真っ赤にした。
「繭ちゃん?」
「枢ちゃんが目立ってたのは、ちゃんと理由があったってことだよ。わたしのオマケなんかじゃなくて、枢ちゃんは枢ちゃんとして見られてたんだよ?」
「えっ……そんな、ことはないと、思う……」
名前の字面だって変だし。
「も、もしかして繭ちゃん、あたしが目立つことモヤモヤ考えてるの知ってて、ウザかったとか……?」
そうだったなら、ちょっとショック、かもしれない……。
「はっ!?」
との声は、青木くん。
うるさい青木。とは繭ちゃん。
「青木、あんたさ、勘が鈍いのか鋭いのかはっきりしなよね。それに、枢ちゃん。違うよ。ぜんぜん違う。わたしが枢ちゃんにそんなこと思うわけない。思ったとしても、わたしは口に出してちゃんと言うよ」
そうだった。繭ちゃんはそういうひとだった。
鶴みたいにきれいなひとは、心も伸びやかなんだ。その心はいつも空を羽ばたく。
繭ちゃんの飛んでる空はおおきくて広くて、すっきりと高い。
あたしは、高い場所を飛ぶひとを、手をかざして地上から見ている。
そんな自分がいる。
うう……と、近くからうめき声が聞こえてきた。大野がぎょっとした様子になった。
「が、がなめんんん……っ!」
あたしはそんな蛾みたいな名前じゃないけど。
オ、オレ、オレぇぇ……と涙ぐんでる。え、オレってカフェオレ?
などと茶化してしまうのは申し訳なくて、「あのさ……、どーかした?」
ちょっと首を傾げてみた。
なんとなく、青木くんが泣きそうになってる理由はわかってしまったんだけど。
「ねー青木。あんたたち男子の情報網ってどうなってんの? わたしは、よりによってあんたが枢ちゃんに関して何も気づいてなかったってことが驚きだよ。やっぱり鈍いんだな? バカなんだな? 風が吹いてもあんたの頭では、桶屋は儲からないんだよね? 董卓以下なんだよな?」
「うおおおぉ……」
すごい。繭ちゃんが容赦ない。青木くんは頭を抱えてしゃがんでしまった。
「桶屋と董卓って、なんの話……?」困った顔で大野が訊いてきた。
それを聞いて、繭ちゃんがすうっと息を吸ってなにかを話しだそうとしたとき、ものすごい勢いで青木くんが立ち上がって割り込んで、ものすごく謝ってくれた。謝り倒していた。
*
あたしは、とくに青木くんを恨んではいない。悪気があってもなくても。
不満に感じている要素は、繭ちゃんや、繭ちゃんの周りで発生するところにあるわけじゃないから。しつこいようだけれど、自分の名前の字面と、もう少し、人というものに興味を持てれば、あたしの世界はもっとよくなるんじゃないかということ。
繭ちゃんのことは好き。大野の、普段は背ばっかり高くてひょろひょろしててのほほんとしてても、自分の好きな話題になったら食いつくところとか、そういうときには目がキラキラするところとか、見ていて好ましいし、嬉しい。青木くんの、にぎやかなところも。
興味を持てるものが、あたしには少ない。大野と目が合うとドキッとするときがあるし、顔が熱くなっちゃうときがあるのも自覚してる。他人は、あたしには謎だらけにみえる。世の中も謎だらけ。でも、深く追究しようとは思えない。
たとえば青木くんが、さっきのあたしと繭ちゃんの短いやり取りだけで、不幸にも青木くんが発端になってしまった一連の出来事について、あたしがこの一年と半近く感じてきたモヤモヤをほとんど正確に察知して(繭ちゃんがいうところの風が吹けば桶屋が儲かる説)謝ったことなんか、純粋に考えてすごい。
青木くんは、バカっぽいところはあるけど、変な勘はなぜが働くらしい。でも、変な勘がどういう勘なのか、もし聞いても「ふーん」って感想で終わっちゃう。
青木くんが、あたしのことを“かなめん”って呼ぶのも、どうしてだかは訊いてない。ある日突然かなめん呼びになった。
繭ちゃんの家族のことや南先生とお姉さんとのことも、訊けばきっと繭ちゃんはおしえてくれる。あたしが訊いていないだけで。
おかーさんや妹のことにもあんまり興味がない。だから、あたしみたいな人間は、そのうち生きてるのが面白くなくなっちゃうんじゃないかって、そういう考えがたまに襲ってくる。でも、じつはそれ自体にもあんまり関心がない。
あたしの細胞と鶴みたいに優美な繭ちゃんの細胞は、なにがちがうんだろう。南先生が言った、60兆個の細胞は、なにをどう判断して、あたしの体で動いているのかな。
鶴は人間になったりするんだろーか?
「そうだ、繭ちゃん。高校に行ったら、マネージャーやるんだっけ?」
昇降口に降りたあたしたちは、あいかわらず巻きあがっている砂を避けつつ靴に履きかえた。グラウンドを挟んでさっきあたしたちがいた渡り廊下がある。あそこにいたあたしは、もういないんだ。60兆個の細胞のひとかけらくらい、落ちていたりするんだろうか?
「あ。上履き持って帰らなきゃならないのか」
「だりいわー、学校で回収してくれりゃあいいのになあー」
大野が言って、青木くんが答えた。
「うん、そうなんだ。受験の願書持って行ったときに、男子テニス部が部活やってるの見たんだ」
「それで、楽しそうだった?」
大野たちは大野たちで話し出した。
繭ちゃんは、あたしの目をまっすぐに見つめた――――けど、一瞬でそらした。……珍しい。ちょっとほっぺが赤くなっている。
「繭ちゃん?」
「……あ」
「あ?」
「……あるんだね、ひとめぼれって」
「――――――――」
ポカンとしてたら、青木くんが「は、はあっ!? 飯沼がひとめぼれ!?」
「んなっ! 青木、聞いてたの!?」
大野が、「えー? 飯沼が? 意外だね」
「大野! あんた、こういう話興味ないよね!?」
「ないけど、聞こえちゃったし」
ってもう、ぐちゃぐちゃになってきた。
「ね、ねえ繭ちゃん。願書出しに行ったときに、テニス部のひとにひとめぼれしたんだ……?」
「わ、わたしだって、まさかそんなことになるなんて思ってもなかったよ……」
ほっぺに花が咲いたみたいに、繭ちゃんはふんわり赤くなった。かわいい……。
「飯沼が照れてる……、す、すげえ……」
「青木くんこそ、変な顔だよ」
「あっ、かっかなめん、笑うなっ!」
*
ずっとあとになって知った話だけど、人間の細胞は60兆個じゃなくて、37兆個って言っているひともいる。それどころか、生まれてからまったく変わらない細胞もあるらしい。あたしが南先生から聞いた話はなんだったの。カレンダーの三月の数字を見ながら、中学の担任だった理科の先生が卒業式にそんなことを言っていたとお母さんに話した。南先生だよ、憶えてる? って。
お母さんは、南先生の名前にはほとんど反応せずに、おせんべいのデコボコを凝視しながら「若返らないかしら……」ってつぶやいていた。
……世の中は、やっぱり謎だらけだと思う。
あたしたちは無事に高校に入学して。
一年では、全員クラスは離れてしまった。そしてあたしは、大野のことをもっと好きになって、青木くんはあたしに付き合ってくれと拝み倒すいきおいで毎日のように迫ってくる。
青木くんは中学からの流れで入った陸上部で、三年のときにインターハイで優勝する。大野はなぜか料理同好会を立ち上げて、同好会からクラブに昇格できるように部員集めに奔走する。そしてこれまたなぜか、腕試しといいつつ毎度試合前の青木くんにお弁当を差し入れするようになる。青木くんは、大体が失敗しているそのお弁当から逃げつつも、結局律儀にそれを食べ、たまにお腹を壊す。
あたしはそれを、羨むやら憎むやらでいそがしい、そんな日常。
繭ちゃんは、念願の男子テニス部のマネージャーになって、弱い部員をときに特訓と称して試合をして打ち負かす。繭ちゃんの厳しい特訓にもかかわらず多くの男子部員から、女子テニス部から移籍嘆願と乞われるけど、男子部員たちは頑として受け入れない、そんな彼女の視線の先にいるのは、同じテニス部の先輩。それを見守るあたし。
繭ちゃんのお姉さんと南先生は、ひと悶着あったりなかったり。
あたしのことは眼中になさそうな大野に、ついに玉砕覚悟で告白しようとするあたしに、体当たりでそれを阻止しようとする青木くん。それがすったもんだの大騒動になり、校内中に面白おかしく喧伝されるドタバタの日々。
*
「ああ、騒いだらお腹すいた。ねー、肉まん食べようよ」
「はっ? よりによって肉まん? 女子はもっとオシャレなもん食うんじゃないの?」
「青木。女に幻想抱いてるとそのうち自爆するよ」
「飯沼って、青木には厳しいよねえ」
「大野、おまえはいいよな……。オレなんか、お腹痛くなってきたかも……」
「青木くん、トイレ行くなら校舎もどる?」
「かなめん、チガウから。トイレ行きたいんじゃないからっ!」
――――――――そんなふうに。
起こるかもしれない未来、起こらないかもしれない未来。
だれかの想いに気づく日、その想いを汲む日、だれにもなんにも届かない日。ふり返って、それはすべて、自分だけのための時間であったと。
あなたはまだ知らない。
教室で担任の先生の熱弁を聞いている、渡り廊下からグラウンドを見下ろしている、昇降口にいる、たいせつな友だちにひかえめな笑顔を向けながら歩く、あなたはまだ。
三国志のゲームは、数あるものの混合でイメージしました。少し読みにくい作品であったかもしれません。お読みくださいましてありがとうございました。