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俺と響子は、俺の愛車マセラティに乗って裏野ハイツに向かった。
「いくら行き方教わっても、小さな子供が本当にそんなところに行けるのかな」
彼女はまだ半信半疑だ。
「大手ネイルサロンチェーンの社長の娘だ。タクシー代くらいわけないさ」
「そういう問題じゃなくて。また例によって聞き違いとか」
「いつ俺が聞き間違えた?」
「正確には聞き違いではなく、漢字間違い。名前がひらがなだから漢字が苦手なのはわかるけど、『の裏』を『の浦』と思って田子の浦まで出かけてるし。今回『裏野』じゃないですか。本当に大丈夫ですか」
南カリフォルニアで青春を謳歌していた俺は、特殊部隊としてベトナム戦争の最前線に送り出された。地獄耳とまで呼ばれた俺の聴覚が必要とされたからだ。俺はベトコンの会話を正確に聞き分け、何度も奇襲攻撃を避けることができた。それなのにサイゴンは陥落。帰還した俺を待っていたのは、世間の冷たい目だった。
酒とマリファナに溺れた俺を救ってくれたのは、一冊の童話アンソロジーだった。冬の童話祭2017。この本に巡り会わなかったら、今頃俺は路上でのたれ死んでいただろう。
「聞き違いを、強引に怪しい企画に持っていかないでください」
「どこが怪しいんだ」
「裏野ハイツと同じ類のサイトでしょ?」
「まさか同じ詐欺グループの仕業だと?」
俺は、警察の捜査が入って削除された闇サイト「夏のホラー2016」の冒頭の文章を思い出した。
今年は「裏野ハイツ」なる舞台と、そこに住む住人をご用意致しました。
これらの設定を使用し、暑い夏を涼しく過ごせるお話を書いて頂ければ幸いです
詐欺グループは、出版社などに応募作を大作家の幻の原稿と偽って売りつけ、原稿料を受け取っていた。今、そいつらは娑婆にはいないはずだ。同じグループということはありえない。
それに「夏のホラー2016」というごくありふれた企画しか思いつかない頭の持ち主が、「冬の童話祭2017」という前代未聞の斬新で独創的な発想が浮かぶわけがない。暑い夏に体が冷えそうなホラー話というのは、どんな阿呆でも思いつく。冬に童話という突拍子もない思いつきは、南京虫とtanx のマクローリン展開の組み合わせよりはるかに意外性がある。
おそらくそいつらなら、年が替わることも予想できないから、タイトルは「冬のホラー2016」で、設定も前回の使い回しで裏野ハイツにまた幽霊が出ることになる。
実は総務省の統計によると、冬の心霊体験は夏よりも多いそうである。冬のホラーはあまり話題にならないが夏よりもずっと怖い。
今回は実際に神隠しが起きた。
密閉した状況から橋本瑠璃はどのように消え失せたのだろう。
「密閉した状況って、何の話?」
ただでさえ背が高いのに、胴体が短い響子は軽自動車の助手席では長い足をもてあます。それで運転席のほうまで右足の先をのばし、ブレーキを踏みつける。
「危ないからやめないか」
俺がそう注意しても、知らぬ存ぜぬだ。
「話をそらさないで。瑠璃ちゃんが密閉した状況から消えたってどういうこと?」
「あのとき、裏口に君。表のほうには間瀬がいた。保育所にもとんかつマスダにもいないとなると、神隠しにでもあったと疑いたくなる」
俺はそう言ったが、瑠璃がどこに消えたかすでに答えを知っていた。ただ、今は言えない。話を盛り上げるため、出来るだけ長く引っ張るつもりだ。
「わかってないくせに自慢するのもいいけど、その前にこれは本格推理小説でいう人間消失トリック。現場の見取り図くらい用意しないとわかりにくいでしょ」
と響子は言った。
「俺は運転中だぞ」
「大丈夫。このスーパーカー。特別仕様ですよね」
イタリアのスーパーカーブランド「マセラティ」社のグランカブリオをキャッシュで購入した俺は、自動車税を安くするため軽自動車サイズに改良した。単に小さくしただけではなく、超高性能コンピュータを搭載した。ダッシュボードにインターネットのサイト画面が表示され、声だけで操作できる優れものだ。
見取り図のひとつくらい運転したままで作成できる。
「描いてみん、起動」
俺はグラフィックソフトを起動し、事細かに笠松ビル一階の間取りを語った。
「事細かに語ったって言っただけじゃ、コンピュータに伝わりません。具体的に言わないと」
響子の執拗な駄目だしに、
「わかったよ。周囲の形は正方形。下を建物の表、上を駐車場のある裏とします。表から裏に通じる中央の廊下。右側、上から管理人室、笠松保育園スタッフルーム、お遊戯室、WC、階段、パスタポモドーロ。廊下の左側、上からR&S探偵社、とんかつマスダ、蕎麦のますだ。
廊下に面して、管理人室、ポモドーロ、R&S探偵社、とんかつマスダ、蕎麦のますだはそれぞれひとつずつドアがあり、保育園はスタッフルームが通用口、お遊戯室に園児達が利用する自動ドアがある。各部屋の大きさは面倒なので省略」
「以上の条件でよろしいですか?」
「はい」
「しばらくお待ちください……(60秒経過)……できあがりました」
しかし、完成した見取り図は表示されず、¥68,000 という請求金額と、支払いができない場合の選択枝が出ただけだった。
1 姉妹サイト「みてみん」に投稿する(注:著作権は「みてみん」に譲渡されます)
2 削除する
「有料なんて聞いていない。ビタ一文払わないからな。せっかく作って削除するのもいやだ。仕方ない。1」
「みてみんを起動しています」
このサイトはあなたのコンピュータに損害を与える可能性があります。と表示されたが、起動してからそんなメッセージを出されても困る。それに、とっくの昔にウィルスに感染しているので、気にしないことにした。
そもそも「みてみん」というサイト名は見て見ぬ振りをするという言葉からとられたもので、このサイトは警察庁幹部のハレンチ写真を隠し持っていることをいいことにやりたい放題。警察は野放しにしているという噂だ。
「起動に失敗しました」
きっとこのサイトは俺が悪口を言ったことにすねて、わざと失敗してみせたのだ。機械のくせに、この程度のことでうろたえるとは情けない。
「そんなことはありません」
「もういいよ、好きで選んだわけじゃないから。二度とこんなサイト使うもんか」
「わかりました。起動します」
しかし、
「何これ? 意味不明だけど、とにかくへたくそ」
と、響子がケチをつけた。
「古来より伝わる宝の地図だ。ココという場所に財宝が埋まっている」
「拡大する」と彼女が言うと、図は拡大表示された。「もっと下。そう、そこでストップ。邪馬臺という文字があるけど、これひょっとして邪馬台国のことじゃない?するとこれは、とてもそうは見えないけど九州の地図で、邪馬台国が鹿児島にあるってこと?」
「そんなはずはない。俺が提唱した邪馬台国伊香保温泉説はいまでは学会で定説扱いされている。土産物屋で邪馬台国饅頭まで売られてるぞ」
「所長がみてみん怒らせるから、嫌がらせにこんな変な図が出たのよ」
「そうじゃない。これは、このサイトが薩摩藩のハッカーに乗っ取られたからだ」
そのとき、彼女はまたブレーキを踏み、車は急停車した。
「何度言ったら危険だってわかるんだ」
悪ふざけにもほどがある。俺がA級ライセンスを持っていなければ、交通事故を起こすところだった。
「着いたわよ。裏野ハイツ」
木造モルタル二階建て、築三十年のぱっとしない外観のアパートは住宅街の景色に埋もれ、彼女が気づかなければ、危うく乗り過ごすところだった。
裏野ハイツには駐車場がない。そこで隣の大家の家の庭に駐めた。
「大家さんに挨拶に行ってくるから、所長は待ってて」
彼女はそう言って車から降りた。俺は直接アパートの周囲を調べる。
建物の外に子供はいない。中にいるのだろうか。
俺は103号室のドアをノックした。返事はない。表札がないので、空き部屋なのだろう。
隣の102号室のほうに歩きだしたとき、103号室のドアが開いた。
髪の長い若い女が顔を出している。彫りの深い顔立ちで、やや色が黒い。
「やっぱり帰ってきたのね。待ってたわ」
俺は、女に誘われるように中に入った。
9帖のリビングには調度品は少なく、女の質素な暮らしがかいま見えた。
「相変わらず貧乏だけど、オイルショックの頃よりずっとましよ」
今世の中はバブル景気で沸いている。ここだけ十年前のまま、取り残されているようだ。
「就職したって聞いたけど、今日は仕事休みなの?」と彼女が聞いたので、
「証券会社は二年でやめたよ。性に合わないんだ」と俺は答えた。
彼女は俺を奥の洋室に案内した。
「どの業界も不景気だから仕方ないわよ。それでこれからどうするの?」
「不動産屋に入ったんだけど、系列のディスコの店長やってる」
「ディスコって、ゴーゴーのことね」
「またフォーク始めようかと思ってるんだ」
「ゴーゴー踊ってる人がフォークだなんて変よ」
彼女の名は安奈。俺とは学生運動で知り合い、ここで二年間同棲していた。就職を機に彼女と別れたが、彼女は俺を待っていてくれた。
俺はベランダの手すりに手をかけ、外に顔を出した。すぐ下には神田川が流れている。ちょうどそのとき、雪が降り出した。
安奈も隣に来て、雪の降るのを眺めた。
「たぶん私、東京で雪を見るのはこれが最後」
「故郷に帰るのか」
「親がうるさくて」
「お父さん、どんな仕事してた?」
「マハラジャ。日本で言うとお殿様みたいなもの」
「すると君はお姫様か」
「私、一人っ子だから、婿養子をとるの」
「すると女王様ってことだな」
「私、雪の女王様になりたくて、日本に来たの」
「それが新宿フォークゲリラに魅せられて、学生運動か」
「おかしいわね」
「ああ、おかしいよ」
俺達は笑い合った。笑いが収まると、彼女は俺を真正面から見つめ、
「もしあなたさえよかったら、婿養子に来ない?」
「名前はどうなる?」
「ラーチャー・クリシュ。本物のインド人みたいで、いい名前でしょ」
安奈の本名はアナンダ・クリシュだった。
「君の好意はうれしいけど、もう少し日本でがんばってみようと思う。これから不動産業界は発展するよ。いつの日か東京の土地代だけでアメリカ全土が買える日が来る」
俺はそう言ったが、焼け野原から立ち直ったものの、高度成長は長くは続かなかった。日本の狭い首都だけで、超大国アメリカ全土が買える日など永遠に来ることなどない。だが、安奈は少し本気にして、
「私、そんな日本は見たくない。少し貧乏で、欧米コンプレックス丸出しのほうがいい」
いつのまにか雪が積もっていた。そこは童話の国のような白一色の世界だった。
「安奈と雪の女王みたいだな」
俺は無意識のうちにそうつぶやいた。
「何それ? 私と雪の女王が別人みたいじゃない」
「いつか、そんなタイトルの映画が出来るような気がしてね」
「そんなヒットしそうもないタイトルじゃ映画会社が作るわけないわ。あなたって面白い人ね」
「至って普通だよ」
「あなたにまた会えて、もう思い残すことはないわ。さよなら」
「さよならって、どういうこと?」
彼女のほうを向くと、そこには誰もいなかった。