【log: <TITLE> 20170802-20170803 </TITLE>】
iNOIDは夢を見るか?
スリープモードの際に、記憶領域の整理・最適化・デフラグの最中、駆け巡る映像は、夢と表現しても差し支えないだろう。
いま見ているのは三年前、八月二日の記憶だ。
もちろん場所は、地球・日本。
まだミイは、中学生だった。
俺と彼女が雨のなかを歩いている。
俺の左手にはカサ。
学校まで送っているところだ。
いつしか、俺の意識・俺の主観は、過去の映像に同期する。
「あたしが学校に行ってるあいだ、さみしいっしょ」
ミイがとなりでからかう。
「そんなわけない」
対する俺は、どうしようもなくウソをつく。
そのあいだ、なにしてるの? という質問でなくてよかった。
もっとウソをつかなければならないところだ。
「ほんとにー? 強がってなあい?」
「ああ。だが心配だ。学生男子は飢えているものらしいからな。いたいけなミイが毒牙にかかるんじゃないかと」
「か、かからないよ!」
「放課後の呼び出しには応じるな、俺が行く。靴箱の手紙は、まず俺に見せろ」
「プライバシーを尊重してください!」
「バレンタインデーは学校を休め」
「か、過保護! チョコとか作れないから、だいじょうぶだって!」
「友だちになろうという男がいたら、まず緊急の連絡先と履歴書を提出させろ。いつでも面談してやる」
「も、もう、ユウ兄ったら! あ、ほら着いた! じゃ、また放課後ね!」
「おーう、転ぶなよ」
彼女を学校の正門で見送ったあと、俺は振っていた右手を止める。
彼女がいなくなると、俺は、自分が自分でなくなるような感覚を持った。
下ろしたばかりの右手を持ち上げ、その手首から指先までを、じっと見つめる。
五本の指、その一本一本を、何度も何度も、くまなく数える。
バカげた習慣だったが、そうせずにはいられなかった。
その行為は、意味もなく長時間、鏡を見るのと似ている。
俺は、きびすを返しつつもアパートには戻らず、目立たないよう注意しながら、学校の周囲を巡る。
最初の七周、コーヒーでも飲もうとコンビニに寄るまでは、なにごともなかった。
問題は、その後の八周目。
俺は気づいて、カサを閉じた。
雨は小降りになっている。
不自然ではない。
俺の徒歩間隔に追随する、不自然きわまりない足音。
曲がり角にさしかかる。
振り向きざまに、閉じたカサで相手の顔面を打った。
突然のリーチを越えた攻撃に、相手は対処しきれない。
強敵ではなさそうだ。
もう一振り、カサで相手の腕を打ち、手のなかの武器をはじき飛ばした。
重量感のある黒い拳銃が、塗れたアスファルトの上を滑っていく。
ビニールガサの本来の使いかたではない。
いま、カサは武器であり、凶器であり、兵器だ。
生み出された理由とも目的とも動機とも関わりなく。
「殺しは、しない」
そうだ。殺してはいけない。
ミイが悲しむ。
よって加減する。
数分後。
丁重に所属を訊き出し、相手を無力化・無効化した俺は、すぐに引っ越しについて考え始める。
転校について考え始める。
リスクを消去するために。
俺は男を見下ろす。
フィルム・ノワールから抜け出してきたような男だった。
これで何人目だろう。
そして、何度目だろう。
ミイは友だちができたと言っていた。
――ごめんな。
その夜、俺たちは街を出た。
必要なものと、ミイの大切なものだけ、小さなバッグに詰めこんで。
世界には俺たちの気分など関係なく、空は晴れ、星の降る夜だった。
夜の闇は冷たい。
ミイがくしゃみをする。
その手を握る。
電車やタクシーを乗り換えながら、次の街へと向かう。
途中で寄った街は、ネオンの光や排気ガスのにおいが、うるさかったのを、おぼえている。
路地裏の薄暗いジャズ・バーに身を隠し、日付をまたいだ朝方には、ファーストフード店に寄ってシェイクを飲んだ。
目的地に到着するころには、よく晴れた夕陽が影を落としていた。
新しい街では、ちょうど花火大会が開催されつつあって、ざわついた空気があった。
人がいて、人がいた。
たくさんの、数多くの、人で、あふれかえっていた。
ミイは、やはり落ちこんでいた。
「せっかく、あの街の空気感がなじんできたとこだったのに」
ミイは、新しい街でそわそわする感覚を、からだにしっくりこないと表現した。
「どうして、パパはあたしをあちこち引っ越しさせるんだろう」
彼女のことは、幼いころからよく知っている。
かつては、「あの」いまいましいガラス(いまとなっては、愛着も感じている。ヒビの数も箇所も、すべて、おぼえている)越しに、遠くから見つめることしかできなかった。
だが、いまはちがう。
俺は彼女を連れて、河原に向かった。
花火会場は、いまから行ったのではまともな席を確保できないにちがいない。
すこし離れた場所で、ゆったりするのもオツだ。
俺の考えは、時折、甘い。
土手も、たくさんの人であふれていた。
みんな考えることは、おなじらしい。
浴衣、浴衣、浴衣、法被、屋台、屋台、煙、焼き鳥、火、クレープ、たこ焼き、声、声、風鈴、下駄、巾着、太鼓、子ども、獅子舞、人、人、人、同種の群れ、息苦しい。
なんとかスペースを確保し腰を下ろした地面の草は、わずかに湿っていた。
悔しさ、というべきものが、あふれてきた。
なにも、してやれていない。
ほんとうの意味では、俺は。
なにひとつ、彼女を幸せにできていない。
俺は、彼女の人生を救えていない。
学校に通わせているのは、せめてもの抵抗だった。
だがそれもこうして、突然の断絶が生じてしまう。
「ごめんな」
俺はつぶやいた。
と同時に、最初の花火が上がる。
特大のヤツだ。
そいつがはじけたとき、横にいるミイが、なにかを言った。
「え? なんだって?」
花火の音でよく聞こえない。
俺とミイの横顔の奥、川のむこうでは、花火が次々と上がり始めていた。
空に舞う花びらではなく俺を見て、彼女は言った。
「いつもいつも、ありがとう!」
両手を口にあてて、すぐとなりにいる俺に、せいいっぱい、さけんでいた。
彼女の横顔が色に染まる。
花火が上がる。
はじける。
また上がる、そしてはじける。
いろいろな色が、彼女を照らし、消え、照らし、消える。
どこまでもヴィヴィッドでクリアな存在……。俺は、彼女の顔を見つめていた。
「きっと、いっぱい、助けてくれてるんだよね」
彼女は、なにも知らないはず。
なにも、おぼえていないはずだ。
それでも、直感するなにかがあるのだろうか。
「万事おっけぃ! あたし、この街でも、ふてくされずにやってみる!」
この子を護ろう。
俺は思う。
いまこの瞬間、俺自身への約束として。
誓いを更新する。
この記憶を、最重要項目に設定する。
夢が、終わっていく。
外界のデータ――気温の上昇と、光量の増加、鳥のさえずりを感知する。
朝が近い。
目的意識の再確認をもって、俺は記憶の整理を終了した。