Act 1-1:異世界転移
目を覚ましてすぐ、彼女のすがたをさがすため、俺は立ち上がった。
「美衣!」
名をさけぶ。
そうしてから、ここはどこだろう、と考えた。
目をこらす。
見慣れない景色。
しばし眺めてから、日ごろ目にする光景との最たる差異を認識する。
草だ。
草の緑がすごいんだ。
群生が、圧倒的物量で迫ってくる。
俺は、だだっ広い草原にいた。
空には一面、パノラマの青が広がっている。
流れる雲の影が、群れて草原を横切っていく。
景色の奥には、深緑の森や、雄大な山々が見える。
前後の記憶があいまいだった。
いや、直前の記憶はある。
問題は、その記憶のなかでさっきまでいた場所と、現在いる場所が、まったくつながらないということだ。
自覚がないだけで、重大な欠落が、メモリーの欠損が生じたのではないかと不安になる。
俺は自分の右手を面前まで持ち上げ、握り開きをくりかえした。
五本の指を、なにも欠けていないことを、たしかめる。
いつものクセ。
「ミイ!」
もう一度、さけんだ。
おどろいた。
ここは地球ではない。
空を見上げ、その事実にいたる。
そこに浮かんでいる光源は知っている太陽とちがうし、見知らぬ巨大な天体まで見えている。
こんな空は、地球上のどの国から見える空でも、ありえない(地球そのものが太陽系外へと移動した、あるいは宇宙全体が変化した、と考えることも可能だが、いくつかの細部や確率論から除外した)。
まあ、そのあたりはひとまず、ささいな問題だ。
最重要案件は、ミイがどこにいるのか、ということだ。
彼女もこの見知らぬ土地にいるのか?
すぐ近くに?
あるいは遠く?
それとも俺は、彼女をひとり、地球に残してきてしまったのか?
「ミイ! いないのか!」
俺ひとりしかいないような広大な地で、おのれの全存在を懸け、声を張り上げた。
「ばあっ」
「うぁっ!」
ミイのボサボサ頭が突然、草のあいだから飛び出してきた。
草が宙に跳ねる。
「あはははっ、いまのユウ兄の顔ったら」
「……なあ」
「うぁっ! だって。ひー、おかしい。ん? ん? なになに?」
「スカートめくれてる」
「うぁっ! わっ! コラ見るな!」
あわててミイは、服の乱れを整えた。
むーっと威嚇するように、上目遣いで俺を見る。
「見えなかったね? なにも見えなかったですね?」
「ちょっとしか見えてない」
「見えてんじゃんっ!」
くわっと顔を上げたかと思うと、拳を固め両手を空にかざした。
「もーっ! いいんだ、見えたって! パンツがなんだ! 減るもんじゃなし!」
「うわ、開き直った」
「そら開くわ! そうでもしなきゃ、やってらんねー! てか、なにヒョウヒョウとしてんの!? え、ウソでしょ? 女の子のパンツ見ちゃったんだよ? それって変態さんだよ? もっとこう、それらしくオドオド動揺したりしないの!?」
「長いこと家族やってるしなあ、俺たち」
「これだから腐れ縁ってヤツはー!」
草原に響き渡る。
「割に合わねー! 見られ損! ドキドキイベントにもなりやしないー!」
さけぶ彼女の左耳に、両耳タイプ・イヤホンの片方が突っこまれていた。
ケーブルは、彼女の服の下へとつづいている。
「それ、スマホか?」
ミイは、ぶすっとしたまま、突き上げていた両腕を下ろし、俺を見た。
「……音楽アプリで『悪魔を憐れむ歌』聴いてた」
「ドアーズ?」
「ローリング・ストーンズだよ、まったく」
「そうだったかな」
習慣で、すぐさま検索をかけようとするが、ダメだ。
周囲一帯、完全オフラインになっている。
「電話やSNSは試したか? マップは?」
「それがさー、使えないんだよね」
「電波?」
「ん、圏外」
「WiFiだけじゃなく、GPSや携帯キャリア各社の基地局もダメか……やっぱりな。ほかには、なにを持ってる?」
「アメちゃんとか」
言いつつ、チョコバーの包みを差し出してきた。
「食べる?」
「いちおう食料だ。節約するように」
「ねえ」
ミイは、空をあおいだ。
「ここ、どこ?」
俺は、しばしの逡巡のすえ、簡潔に答えることにした。
「ここは、地球外だ」
「なんですと」
俺は、いま一度、空を見上げた。
視力には自信がある。
昼間、星はまったく見えないわけではない。
金星や超新星など、見ることのできる星はある。
目をこらし、成層圏の奥にかろうじて見える星の配置を、地球のそれと比較した。
「俺にも、わからないんだ」
「マジか」
「大マジだ」
ミイは、ケーブルを引っぱって、耳からイヤホンを抜いた。
そして、まじまじと俺の顔を見つめなおす。
「地球じゃないですと? どこそれ。異世界? モンスターとかエルフとかいる? 流行りの、ぼっちな俺が異世界に召喚されました、的なヤツ? あたしたち、トラックにでもひかれたっけ?」
「いや。すくなくとも、俺たちは、ぼっちじゃない」
「……だね」
「だいじょうぶだよ、なにも心配いらない」
俺は、わずかな動作で手を伸ばし、彼女の背中に置いた。
「だいじょうぶ、ミイは強い」
この段階になってようやく、俺は自分がリュックサックを背負っていることに思いいたった。
背から下ろし、なかをあさる。
非常用に入れてあった緑茶と軟水のペットボトルが一本ずつあった。
水のほうを取り出し、フタを開ける。
「飲みなよ」
「あ……どもども」
ミイは、俺の手からそれを受け取り、三口ほど飲んだ。
ゴクッゴクッと喉を鳴らすたび、彼女が落ち着きを取り戻していくのがわかった。
聞いたことのない鳴き声をあげ、知らない鳥が編隊を組み、空をまたいだ。
地面に視線を落とすと、俺のわずかな動きにおどろいて、虫がいっせいに逃げていく。
生きものたちの群れを、しばし見つめる。
「ん? あれは――」
俺たちの現在地からわずかに坂を下ったところに、見覚えのある青色が転がっていた。
「青空号だ」
拾った自転車を修理し、ペンキで冴えた青に塗りたくった、俺の愛車だ。
俺は青空号から目を離し、さらに視野を広げる。
GPSは死んでいたが、コンパスは健在だった。
東に見える山々のむこうに、空にむかって伸びる、高い塔らしきものが見える。
西には、広大な森と、その奥に、天まで届いているかのような巨大な樹がそびえ立っている。
東と西、その両側に、一本の柱のような人工物と自然物がある。
魅力的で、幻想的で、壮大で、不思議な光景だった。
「……よし、元気出てきた! 万事おっけぃ!」
ペットボトルから口を離し、ミイは両手の指で、唇の両端をつり上げた。
両腕を伸ばし、ひじを曲げて。
自然、にっと笑うかたちとなる。
それが、彼女の決めポーズだった。
こうすれば元気が出ると、おまじないのように彼女は言った。
彼女は両手を下ろすと、動揺のない落ち着いた声でつづけた。
「ねえ。あたしたち、学園にいたよね」
「俺の記憶が壊れてないなら、そうだな」
ミイの服装は学園指定の制服のままだし、まずまちがいない。
対する俺は私服で、リュックサックは、彼女を迎えにいくとき、いつも持ち歩いているものだ。
そうだ、俺は青空号に乗って、ミイを迎えに学園まで行ったところだった。
「とにかく、まずは――」
これからのことを口にしかけた、そのとき。
俺の耳が、なにかの物音を感知した。
いきおいよく立ち上がる。
「だれか、いるのか」
草が揺れている。
風で。
だが、俺が見つめるそこは、不自然な揺れかたをしている。
その揺れが、次第に俺たちのほうへと近づいてくる。
「警告する。すぐにすがたをあらわせ」
つづけて、英語や中国語を始め、いくつかの言語で、まったくおなじ文章を発する。
「ユウ兄?」
ミイが不安そうに俺の名を呼ぶ。
近くの草が、大きく揺れる。
身がまえ、ミイを自分の背中で隠す。
俺は足首の裾裏から、拳銃を取り出した。
予備弾倉はベルトにクリップで留めてある。
もちろん日本では非合法な代物だが、俺には必要なものだ。
ミイが背後で息を呑む。
「ユウ兄、それって、銃……?」
「静かに」
草の揺れが、目前まで迫ってきて――。
幼い少女が、這って出てきた。
衣服をいっさい身に着けていない。
真っ白な肌に傷こそ見あたらないが、まるで負傷しているようなしぐさで動く。
「ナナグ、ウ。オルガ、スイタ、ア、タ」
言葉を発した。
「ニイ、ニイナ。ルスク、エンドゥ、ナサナ。コン、エターク」
聞いたこともない言葉だった。
それを抜きにしても、少女の様子は異常だった。
少女が、ゆっくりと、立ち上がった。
しばらく、俺たちを観察するかのように、小首をかしげたまま動かない。
青白く、やつれきった少女。
やがて両手を伸ばし、ふらりと、一歩踏み出す。
俺は発砲した。
少女の足もと――地面がはじける。
「動くな」
言葉が通じないもどかしさ。
俺は頭のなかで、言語解析プログラムを起動させている。
だが、まだ情報が足りない。足りなすぎる。
彼女がしゃべればしゃべるほど、語彙のサンプルが増え、解析は進捗する。
危険だ。
俺の直感が、そう告げている。
目の前の少女は、危険だ。
「だ、ダメだよ、ユウ兄、人だ、人を傷つけないで」
ミイの言葉は、おどろくほど俺を動揺させたが、警戒を解くわけにはいかない。
「くそ」
俺は、ある事実に気がついて、舌打ちした。
「どうしたのさ、ねえ」
「この子……生命反応がない」
「――え?」
「心臓が動いてないんだよ!」
俺は、拳銃をかまえなおし、少女の青白い顔に向けた。
空には蒼穹、足もとには広がる草原。
少女が口を大きく開き、音を放った。
端正な顔が、みにくく、ゆがむ。
頬が圧力で揺れ、青白い全身の血管が、文様のごとく黒く浮き出る。
俺は思わずよろめいた。
それだけの圧がきた。
ふるふると、小刻みに痙攣する少女の肉体。
眼球が俺をとらえる――跳躍し、こちらめがけ、襲いかかってきた。
俺は、引き金にかける指に力をこめ――。
突如、横の草むらから新たな気配が生じ、俺はミイの肩を抱いて後方に跳んだ。
四本足の獣が飛び出してきて、俺に飛びかかろうとした少女のからだを吹き飛ばした。
少女と獣はもつれて地面を転がり、茂みのなか、どちらも獰猛な動きで互いに噛みつき、爪を立てた。
まるで、獲物を取り合おうとしているかのようだった。
すべては瞬間的なできごとで、獣の外見はほとんどわからなかった。
俺は、小刻みに震えるミイのからだを右腕で支えてやりながら、腰をかがめて草に隠れ、移動を開始した。
なんなんだ、ここは。
牧歌的な見た目の割に、やたらカオスだ。
甲高い叫び声が聞こえて、振り向く。
あの少女が勝利したようだった。
血に塗れた顔で、俺を見る。
俺を見た。
見つかっている。
少女は両手を地面につき、四本足でこちらに走ってきた。
速い。
「ミイ、逃げろ!」
俺はその肩を離し、拳銃をかまえた。
「俺が食い止めるから、そのうちに――」
「ヤダ!」
「あのなあ」
「ヤダヤダヤダ!」
「駄々っ子か! 言うこと聞けって」
俺はふりむかず、強い口調で言った。
「いいから、さきに逃げとけ」
「だって、どうして、あたしだけ! ユウ兄がiNOIDだから!?」
「俺が男だからだよ。カッコくらい、つけさせろ」
「ただのお世話型のくせに、ムチャすんな!」
「心配いらない」
俺は敵との距離を、その動きを、データをすばやく解析しようとする。
「――ちっ」
いま、この地でのネット接続は、完全にオフラインな状態だ。
いかなる情報支援も得ることができない。
演算処理を自分だけで完結させねばならず、命中精度に支障が出る。
当たらないと判断した俺は、拳銃を捨てた。
武器を利用するのはいい。
だが、頼るのはよくない。
依存してはダメだ。
それは、俺の能力にも当てはまる。
彼女の前では、やりたくない。
彼女に知られたくない。
彼女に、過去にまつわるヒントを与えたくない。
だが状況は、そんな甘っちょろい思考を許さない。
……やりすぎないようにしなければ。
【起動:戦闘形態】
左腕をかざすと、変化はすぐ始まった。
肌から、その毛穴ひとつひとつから、大量のそれが、群れながらあふれ、左腕を覆うように、まとわりついていく。
俺の左腕を中心にして、黒いいくつもの点が、まるでコイルのように、線となってうずを巻く。
肌に密着し、一体と化していく、群れ。
【類型:楯】
あっという間に、左腕は、黒く硬質でメタリックな楯の形へと変化を遂げていた。
ひじから先に、張りつくように楯が形成されている。
「ふう」
自分がヒトでなくなる、いや、そもそもヒトではないという不安感から、俺は言わずにはいられない。
「I got control」
ただの武器になど、歩く兵器になど、俺はなりたくない。
「腕! 腕!」
世界一、俺を動揺させる声。
「なななななん、なんだ、それ! 説明要求!」
テンパったミイの声が聞こえてくる。
「あとだ、あと」
「よよよよ妖術か!?」
「ちがう!」
俺はひじを曲げ、楯となった左腕を前にかまえて、さけんだ。
「さあ、来やがれ! この――」
少女は、まったくの予備動作なしに飛びかかってきた。
俺は楯となった左手をわずかに押し出し、少女の手が触れたところで、はじいた。
いきおいあまった少女が、草むらに倒れこむ。
とてつもない力だった。
ななめにそらしていなかったら、吹き飛ばされていただろう。
後ろ向きに倒れそうになるが、草を束でつかみ、土に足をめりこませ、なんとか持ちこたえた。
【類型:刃】
すばやく左手を、楯から、今度は剣のような刃へと変化させる。
黒い粒子が腕の周囲を移動して、剣の形となる。
俺は、倒れたままでいる少女の背中に飛びつく。
そして。
――ミイを守るためなら。
ためらうことなく少女を斬った。
悲鳴は、なかった。
ろくに血も出なかった。
彼女は停止しなかった。
「くそ――くそっ」
俺はわずかに逡巡する。
少女の肉体のディテールが、その感触、その人間らしさが、俺を、次なる行動を躊躇させた。
だが、試すよりほかない。
脅威を排除するために。
優先順位はあきらかなのだから。
少女の首筋に刃を当てる。
目を閉じる。
切り落とした。
血は出ず、悲鳴もなく、ただ動きが止まった。
やはり、彼女はすでに、終わっていたのだ。
肉体がその生命活動を停止して、しばらく経っている。
軽く調べてみても、少女のからだを動かしていた動力の正体はつかめなかった。
顔を上げると、不安げなミイと目が合った。
「殺した……?」
「ちがう。終わらせた。停止させたと言ってもいい」
息をととのえつつ、立ち上がった。
「最初から、死んでいたんだ。それなのに動作していた」
「それって……ゾンビ?」
「ダメだ、見るな」
俺はミイを制した。
すでに少女ではなかったモノから離れる。
「ユウ兄、その、左手は?」
「これ、は――」
さあ、きたぞ。
なんて説明する?
さきほど捨てた拳銃を右手で拾って足首に戻しつつ、考えをめぐらせる。
「ミイのお父さんが、ボディガードとしても役に立つようにって……」
ああ、くそ。
もっとマシな案がなかったのか。
よりによって、お父さんが、だと?
俺は、ちらっとミイを見た。
いまの話を疑った様子もない。
いや、疑っているにしても、その疑心を表に出していない。
「ははん、なるほどね……そういうことですかー。パパ、心配性だもんね」
「ああ……」
「どういう仕組みになってるわけ?」
ミイが近づいてきて、俺の左腕に触ろうとした。
「あっ、待った、危ないよ。指が切れるぞ」
あわてて俺は、筋肉の緊張をほどくように、刃の部分をくずした。
うなずいてみせると、ミイはおそるおそる、俺の腕に触れた。
そっと、両手で包みこんでくる。
「体内のナノマシンの一部を、腕に回したんだよ。余分なのを回したつもりだけど、突進食らったときにいくつかはツブれちまったし、ちょっとダルいな」
「それ、だいじょうぶなの?」
「大量に削られるとさすがにマズいけどな。体内の栄養分を利用して、自己増殖をくりかえしてるから、ちょっとやそっとじゃ致命的にはならないよ」
俺は、自分が人間ではない証を、変化した左腕を見て、ため息をついた。