第5部 波乱の予感
帝国には魔術協会という組合がある。急速に魔術で発展し日々開発・改良を進めているのだから、そうした魔術組織ができるのは至極当然の成り行きだった。
仕組みは単純明快、有用な術を新たに生み出した者には協会から多額の報奨金が出るのだ。多くの魔術師はこの報奨金目当てで研究を進め、いつの日か己の術が協会に登録されて世に広まる夢を見る。
ただしごく一部ではあるが、世間から秘匿され使用までも禁じられる場合がある。理由はそれぞれだが、大別して三つ。
一つに、永久もしくは半永久的な持続性を持った術。
二つに、著しく倫理性を欠いた術。
三つに、この世の理を逸脱した術。
これらいずれかを満たした魔術は『禁術』と呼ばれ、その後日の目を見ることはない。
「……つまりあれは禁術なわけですか」
あれから三日も眠り続け、つい先ほど起きたばかりのメイナードにノエルは呆れる。仮死蘇生の魔術を自分にも隠していた理由を尋ねたら、禁術指定を受けた大魔術だった。……なるほど、『とっておき』なわけだ。使ったことが協会にバレたら魔術師でいられなくなるどころか、多額の罰金までついてくるだろう。そうなればこの診療所、ひいては自分たちは終わりだ。
「いくら状況が切迫してたとはいえ、もうちょっと考えてください……」
「仕方ないだろ、あの時はあれが一番確実だったんだから。それに嬉しい誤算もあったことだし……」
「なんですか、誤算って」
「いやまぁ気にしないでくれ、こっちのことだから。……とにかく助かった。よくやってくれたな」
「いえまあ一人じゃありませんでしたから……」
撫でようと伸ばされた彼の手をつれなく払う。あの時ならともかく、もう三日も経ってるのだ。今更改まって褒められてもむず痒いだけだ。
「……そうだったな。後でエリスにも礼を言っておかないと」
払われた腕を残念そうに引っ込めながら何の気なしにメイナードが呟く。それにノエルはピクリと反応した。
エリスとの取り決めで、あの手術はなかったことになっている。それについて惜しい気持ちはまったくないが、このままだと彼が話を蒸し返すことになるだろう。
(あまり気乗りしないですけど、仕方がないですね……)
数瞬葛藤しながら視線を泳がせて、渋々進み出る。
「……それなら私から伝えておきます」
「いやそういうわけにも。一応親としての礼儀ってもんがあってだな……」
「いいですからっ。まだ起きたばかりなんだから今日一日はゆっくりしていてください」
実際、彼の顔色はまだ良くない。貧血気味なのか視線も定まらない様子で、見るからに体調が悪そうだった。反論の間を与えないため矢継早に釘をさしていく。
「こう言ってはなんですけど彼女口が軽そうですし、仮死蘇生について口止めもしておいた方がいいでしょう。きつく言うなら私の方が適任です」
「いやそれもどうなんだ……?」
「とにかく任せてください。ちょうどこれから出掛ける予定ですし、ついでに寄って伝えてきおます」
微妙な表情になるメイナードには悪いがここは押し切らせてもらう。退屈しのぎに机の上の本を手渡すと、言葉を反芻していた彼が首を傾げる。
「……ん? これからなんか予定あったか?」
「忘れたんですか? イルミナに付き合う約束をしたじゃないですか」
「ああ三日後で、だから今日なのか」
時刻は昼時。このタイミングなら市場も人通りが少なく、ゆっくりと見て回れるだろう。そして昼食のために人が戻るということは、回診には絶好の時間帯だとも言える。
「私がいないからって、」
「わかったわかった、なにか緊急の事態でもないと玄関を開けないと誓うよ。……これでいいかい?」
「……まぁ、いいでしょう」
ややうんざりとした表情で宣誓するメイナードに嘆息しながら背中を向ける。
「では、いってきます」
「うん、いってらっしゃい。イルミナに失礼のないようにね」
背後から聞こえた名前に眉間を歪ませながら、ノエルは玄関を押し開けた。
◆◆◆
ノエルが出てからしばらくして、読書に勤しんでいたメイナードに玄関扉が来客を知らせた。
「おーい」
呼びかけてくる声は若い男のものだ。礼儀よりは親しみといった心情が口調から読み取れる。しかし声だけで誰かを判断するのは中々に難しいもので、どこか聞き覚えのある声ながらメイナードは首を傾げた。
「誰だ? 悪いが今日は休みだぞ」
「おう、やっぱ起きてたか。珍しく嬢ちゃんがエリスを訪ねて来たもんだからもしやと思ったが、俺の推測は正しかったわけだ。悪いが急ぎの用でな、開けちゃくれないか」
「……ヴィドか」
エリスと言われてピンときた。そして商会の若頭に急ぎと言われれば開けないわけにもいかない。胸中で娘に謝りながら白衣を羽織り、彼を招き入れる。
「なんだ、顔色は悪いが結構元気そうじゃねぇか」
「生憎まだ本調子じゃないんだ。手短に頼むよ」
「っと悪い悪い。んじゃさっそく本題だ」
やや鼻白むメイナードにヴィドはおもむろに懐から薬包紙を取り出す。
「なんだ? 少なくともウチで処方したものじゃないけど」
粗雑な無地の薬包紙を確かめながら口を開く。メイナードを含め、医者は包み紙に薬名を表記するのが暗黙の了解となっている。薬の取り違えを無くすための当然の措置なのだが、これには何も書かれていなかった。
「そりゃご丁寧に『麻薬』と書いてくれるわけないだろうよ」
「麻薬っ!? ちょっと待て、麻薬なのかこれ!」
「たぶんな。確証はまだないし、あくまで憶測だけど、だからこそ調べてほしいわけ」
コカインにヘロインなど、一般に麻薬と分類される薬物は所持しているだけで厳罰に処される。言わずもがな一般に出回るわけもなく、それをヴィドが持ち込んでくること自体がおかしい。
綺麗に折りたたまれた包みをそっと開くと中には朱色の粉末。砕いた魔石よりは色素が薄く、燐光のような輝きもない。ともかく、メイナードの想定していた色とは違った。
「白でも黒でもない……、わざわざ色を付けてる? それとも純度を下げるための混ぜものか?」
「さてね、目で見てわかる以上のことは俺にはなんとも……」
「……ちなみにこれはどうして?」
経緯を尋ねるとヴィドは一瞬視線を泳がせてから口を開く。
「実はちょっと前に傘下の娼婦が一人飛び降りたんだが」
「初耳だぞ……」
「知らせなかったんだよ。そいつ、かなりの高さを頭からイッてたもんでな……。ともかく周りに話を聞いてみたら、少し前からどうも様子がおかしかったと。んで、そいつの持ち物からそれが出てきた。……怪しいだろう?」
「たしかに怪しいけど、……何とも言えないな」
娼婦となった自分の身を呪う女は多い。これといった身寄りもなく、身銭を稼ぐために体を売る毎日。紳士的な客もいるにはいるがごく少数で、娼婦を欲望のはけ口としか考えていない野郎がほとんどである。中には被虐的な性癖の下衆もいると聞く。客を拒めば飢え、耐えても痛みを伴う。精神的に追い込まれるのが普通なのであって、イルミナのような快活な娼婦の方がむしろ稀なのだ。
そうした事情を知っている者からすれば、ヴィドの懸念はずいぶんと飛躍した考えで、単なる妄想だと断じてしまいたくなる。しかしまだ若いとはいえ彼は一帯を仕切る若頭で、たかが妄想に一々動くほど両肩にのった責任は軽くない。
「まぁな」と肩をすくめたヴィドは、案の定「だがな」と続ける。
「ここでもう一つ、最近になって囁かれてるウワサがある……。曰く、真に苦痛を耐えし者には神が血染めの天使を遣わし、その労に報いるんだとさ」
「……なんだそれ。お伽噺にしても酷すぎないか?」
神に、血染めの天使、そして報いるときたもんだ。敬虔な教徒にはいささか罰当たりだし、子供でも笑いだしそうなほどの陳腐さである。今どき子守歌でももう少しひねるだろう。
「センスの無さには俺も同感だ。けれど血染めの天使ってのには何か引っかからないか?」
「……朱い粉に飛び降り、か。天に召されるどころか地面に叩きつけられるとは、皮肉のきいた結末ではあるな。……けれどこれが本当に麻薬だとすると、少なくとも魔術協会が黙ってないぞ?」
「そうだ。そして真っ先に疑われるのは間違いなくウチだ。ただ単に娼婦の気が触れて地面にキスしたくなっただけってんなら、徒労に終わってもそれでいい。……でも立場上、最悪の場合には備えておかないといけなくてね」
「なるほど。急ぐ理由は納得したよ。ただ欲を言わせてもらえればもう少し貰いたいんだが」
「悪いけどまだそれ一つしか見つかってないんだ。まあ考えようによっちゃ、まだばら撒かれてないぶん協会に嗅ぎ付けられるまでの猶予はあるだろうよ」
「了解。……一応できる限り調べてみるけどあまり期待しないでくれ」
「おう任せたぜ。俺の方はもう一つの心当たりを探ってみるから、何かわかったらウチの親父殿に報告してくれ。んじゃな」
事の重大さのわりに気楽な調子のヴィドが後ろ手を振りながら去っていく。灰色の尻尾が玄関の向こうに消え、再び訪れた静けさにメイナードの呟きはやけに大きく響いた。
「……にわかにキナ臭くなってきたな」
単なる偶然の重なり、それを繋ぎ合わせただけの妄想であればいい。平和こそが尊く、争いは怪我人しか生まないのだから。事なかれ主義の彼は心底そう思っている。
けれど、ヴィドから渡された粉の正体が『波乱』であるような、首筋に張り付いた嫌な予感がどうにも拭えなかった。