第3部 助手と腐れ縁
夕刻を向かえ、回診を終えたノエルはスラムに程近い市場を歩いていた。
広場に軒を連ねる露店には食材の数々。日暮れが近いこともあってどこも値下げの札を掲げ、行き交う客を呼び止めては残りを売りきろうと躍起になっている。
今晩の献立を考える主婦でごったがえした中を、時折みすぼらしい恰好の子供がすり抜けていく。彼らは大抵露店の小姓だが、中には小盗を働く者もいるから油断ならない。病で親を亡くしたり何かの拍子に捨てられた子供たちは、たとえ見つかれば腕を折られるとわかっていてもそうして生きていくしかないのだ。誰だって目前の飢えには抗えない。
そうした世の中でノエルがメイナードに引き取られたのは本当に幸運だった。どういった経緯から彼が育てることになったのか聞いた事はないが、生まれたばかりの幼児を連れ、当時十六だったメイナードはさぞや大変だっただろう。物心つく頃には彼は二十を過ぎて、医者としてそれなりに腕を認められるようになっていたが、それまでに血のにじむような努力と多大な苦労があったに違いない。
だからだろうか、昔のことを尋ねるといつも彼の口が重くなった。幼心に自分にはどうして母親がいないのかと思ったことがあったが、尋ねるたびに口ごもる彼を見ていて、いつしか聞くことを止めてしまった。大きくなるにつれ彼が親というには若すぎることに気づき、血の繋がりがないことを察しても、いまさら実の親のことを知りたいとは思わなかった。彼らよりもずっと尊敬できる親代わりがすぐ傍にいるのだから。
(親代わり、か……)
ノエルは人混みを器用に避けながらぼんやりと考える。
最近どうにも彼のことを親と思えなくなっていた。どちらかというと歳の離れた兄といった感覚が近いと思う。家のことを任されるようになって、彼の不精が目につくようになったからだろうか。ヒゲを剃っているため実年齢より若く見えるせいもあるかもしれない。
ノエルにとってメイナードは親であり、兄であり、唯一の友人だ。自分の世界は狭いけれど、むしろそれでいいと彼女は思っている。医者の周囲には患者しか集まらないという、至極当たり前の事実が彼女を頑なにしていた。
患者というのは厄介なもので、どれだけ手を尽くしても亡くなる人は亡くなるし、軽症であっても生活苦から一年もしないうちに戻ってくることが多い。怪我や病を患う者はそもそもの生活がリスクにまみれているのだ。
人は脆く、命は儚い。医者の傍にいればなおのことその事を実感させられる。
だからいつしか彼女は割り切るようになった。初めから失われるものだと諦めていれば相応の接し方になる。メイナードとノエル、それと死を待つ患者たち。この三つにカテゴライズしてしまえば余計なシガラミも無く、精神的にずっと楽なのだ。
だが、どうやらメイナードはそれを快く思っていないようである。イルミナとの一件でノエルの交友関係を広げようと画策していることぐらい、聡い彼女にはお見通しだった。
(でも、あの場合は了承するしかないですよね)
昼間のやりとりを思い出して嘆息する。同時に、少しむっとした。
もちろん親しそうに話している二人に、じゃない。イルミナの話が嘘か真かはわからないが、こちらの逃げ道を塞ぐように会話を膨らませていく彼女の手口に、である。
「まったく……」
腹立ちまぎれに呟いてみても道行く人は誰も気に留めない。彼女の小言など、所詮流れゆく人波に埋もれる雑踏の一つでしかないのだろう。それゆえに彼女の愚痴は止まらない。一度流れ出した鬱憤は感情のおもむくままに口をついて出てくる。
「なんなんでしょうか、あの女狐は。あんなのに引っ掛かってデレデレと鼻を伸ばして。……いえ、誰を選ぼうが彼の自由ですし、単に私が気に入らないだけなんですが。……しかし」
仮に二人が結ばれた時のことを考えると胃がムカムカしてくる。あれと毎日顔を合わせる日常だけは御免願いたい。
「男は皆あんなのがいいんでしょうか。ちょっとしなを作ってすり寄るだけでほいほい騙されて。どうしてああも見る目がないのか……。あるいはあの女狐だから、なんでしょうか……」
「誰が女狐って?」
「あのイルミナとかいう娼婦ですよっ」
反射的に吐き捨ててから、熱を失った頭ではてと思う。いったい自分は誰と話しているのか。果たして会話の相手はノエルの隣で腹を抱えて笑っていた。
「あっははは、女狐とかっ。彼女も表情の少ないアンタにゃ言われたくないだろうさっ。いやケッサクだわっ」
「…………、そういうあなたは相変わらずうるさいですね。そんなに大口開けて顎が外れないんですか?」
「外れるわけないでしょっ!」
「そうですか……」
心底残念そうに肩を落として、子犬のようにキャンキャンうるさい少女に向き直る。エリスという名の人狼はスラムを取り仕切る商会の娘で、一つ年上のくせに落ち着きというものが欠片も感じられない。現にぼやいていたノエルに興味津々なのか、腰のあたりから生えた尻尾を千切れそうなぐらいパタパタと振っていた。
「しっかし、アンタが愚痴なんて珍しいこともあるじゃない? もし何か困ってるんなら試しにアタシに話してみなさいな。頼み方次第じゃなんとかしてあげなくもないわよ?」
「結構です。……それにしても親の七光りのくせに良く吠えますね。恥ずかしくないんですか?」
「七光りったって、アンタも似たようなもんじゃない」
「そうでしょうか。私はちゃんと仕事を手伝ってますし、特に落ち度があるように思えませんけど」
「ちょっとっ、それじゃアタシが何もしてないみたいじゃないっ。こうやって市場を回ったり、みかじめを集めたり、なにげに結構忙しいんだから」
「要するにおつかいじゃないですか」
「うっさい! それより今はアンタのことなのっ。……えーと何だっけ? そう、落ち度がどーたらって話よっ」
咳払いをした腐れ縁が気を取り直して続ける。
「じゃあ聞くけど、仮にアンタが店を持ったとしてどれだけの人が訪れると思う?」
「…………」
「ふふん、その様子じゃ一応自覚はあるようね。そうっ、愛想のないアンタを頼る人なんていないに決まってるわ。そういう意味でまだまだ半人前ってことっ。このアタシと同じくねっ」
「……そうですね」
たしかに半人前であることは否定できなかった。家業を手伝ってるといっても、それは調薬と手術の補佐程度のもので執刀はまったくの未経験。エリスがおつかいならば、自分は言われたことをこなしているだけに過ぎなかった。
だからというわけではないが、我が意を得たりと自分より育った胸を張る彼女にノエルは頭を下げた。
「すみません」
「ほっ? ……よ、ようやくわかったようじゃない?」
やけに殊勝な態度を見せられ、驚いているエリスの袖を引いてノエルは続ける。
「知人が道を塞いでしまって」
「ああいいよいいよ。別に急いでるわけじゃないから」
そう言ってエリスの背後で立ち往生していたおじさんは柔和に笑って去っていく。ヒゲもじゃな見た目に反して案外優しい人だったことに胸を撫で下ろしていると、呆気にとられていたエリスがわなわなと震えだした。
「……そういうこと。あくまでアタシをバカにするのね?」
「そんなつもりはないですけど、話が長くなるようでしたらまずは移動しませんか? いつまでもここにいると通行の邪魔ですし」
「そんなことはどうでもいいのよっ!」
「はあ……」
毎度のことながらエリスと話しているとどっと疲れてくる。終始テンションが高く、猪突猛進で気が回らない。自分と正反対の性格だからかもしれない。
「私も買い物が残ってるんでもう行きたいんですけど」
「アタシにケンカを売っておいて逃げようっての?」
(だからそんなつもりはないと言っているのに……)
犬歯をむき出しにする彼女にノエルは困り果てる。あまりにも話を聞かないので、誇り高く賢いという狼にも自尊心ばかりで知性の育たない個体もいるのではないかと勘繰ってしまう。こうしている間にも店頭の商品は無くなり、陽は傾いているというのに。
「で、どうしたら許してもらえるんです? あまり暇ではないので手早く済ませてもらえると嬉しいんですが」
「~~~っ、そういう澄ました態度が気に食わないのよっ。年下のくせに見下してっ!」
エリスの癇癪を右から左へ聞き流しながら、どうしたら解放されるかと頭を悩ませていると、突然市場の人だかりの中から悲鳴が上がった。
それは女性のくぐもった悲鳴だった。続いて周囲に木霊するいくつかの驚声。
誰もが足を止めて周囲を見渡し、本日最後の商売で活気に溢れていた市場が緩やかに停滞していく。生暖かい空気が足元から忍び寄るような、この場には不釣り合いな沈黙に多くの人が疑問符を浮かべた。
行き交う人々が口々に言う。
「どうした?」
「やだ、何か踏んじゃったわ……」
「……なに? 何かあったの?」
「おい、大丈夫かっ」
「誰か知らねぇけど、止めてる奴ぁつまみ出せ。こっちは時間ねぇんだぞっ」
「わたしは悪くないわっ。だって急には止まれないでしょっ?」
粗暴な野次とヒステリックな喚きに、どよめきがざわざわと伝播していく。渦中から男の声が響き渡る。
「医者だ医者っ! 誰か呼んで来いっ」
「っ……」
瞬間、胃の腑がきゅっと縮むのを感じた。
何度経験しても、何年助手をしても、この瞬間ばかりは一向に慣れる気配がない。状況からいってきっと重傷者だろう。助けたいという願望と、無駄かもしれないという諦観が心中で複雑に絡み合い、幾何学的な模様を描く。ノエル自身、どちらの割合が多いか判然としなかった。
ただ、決まった行動を起こすのに彼女の心情は微塵も関わらない。
「エリス」
「わかってるわよ」
不貞腐れた声音ながらも、間髪入れず返ってくる相槌。説明も、確認も、目配せでさえも必要なかった。
普段折り合いの悪い間柄でも、非常時となればそうも言ってられない。片や一帯を取り仕切る商会の娘として、片や貧乏ではあれど優秀な町医者の娘として。各々の立ち場が自然と二人を突き動かした。
渦中へ向けて踏み出すノエルの背後から捨て台詞が届く。
「アタシが連れてくるまで何とかもたせなさいよっ! あ、あとこれは貸しだから。いいわね!」
脳裏に人差し指を突きつけて嵩に懸かっている様がありありと浮かぶ。その偉そうな捨て台詞をノエルはあえて聞かなかったことにした。
◆◆◆
柔らかくも重い人垣を掻き分けて進むこと数分。ようやく視界が開けたそこには傍観しているだけの野次馬と、蹲ったままぴくりともしない女性が横たわっていた。女性のやや膨らんだお腹を一瞥して、今日はやけに妊婦と縁のある日だなと頭の片隅で思った。
一見して目立った外傷は打撲ぐらいだが、意識がないようだ。頭を強く打ったのかもしれない。
荒れた呼吸を無理やり飲み下し、野次馬たちの視線を集めるために手を上げる。
「はぁ、はぁ……。すみません、少し診させてもらえますか」
断わりながらノエルは女性に駆け寄り脈を測る。脈拍と呼吸、どちらも微弱ではあるがまだあった。
「君は?」
「医者見習い、のような者です」
口を動かしながらも手は止まらない。
極力動かさないように軽い触診。骨折の有無を確認してから気道の確保、心臓マッサージと休む間もなくこなしていくと、ノエルの素っ気ない答えに感嘆の息をもらした一人が手放しで喜ぶ。
「おおっ、そりゃ良かった。じゃああとは君にまかせてもいいかね?」
「……は?」
思わず手を止めそうになりながら三白眼で睨み上げると、たじろいだ中年がもごもごと口を動かす。
「いや、その、大変気の毒ではあるんだが、ワシにも大事な仕事があって、な。……妻や息子を路頭に迷わせるわけにはいかんのだよ」
「…………」
彼の言っていることはよくわかる。赤の他人よりも家族を大切にするのは当然だ。しかし、それではあまりにも無責任ではないか。人前で臆面もなく言えるあたり、厚顔無恥にもほどがある。
「……お気持ちはわかります。ですがどうかしばし手を貸してもらえませんか? 私一人では彼女を移動させることもできないので」
集まった野次馬でも、とりわけ男を選んで頭を下げる。
何のことはない。これではイルミナのことを悪く言えないではないかと、人知れず自己嫌悪した。けれど目的のためには手段を選んでいられないのも事実。時は一刻を争い、消えかけた命はノエルに委ねられている。
「わ、わかった」
渋々ながらも了承した中年に続くような形で他の男たちも首肯してくれる。
「ただワシが手伝えるのは移動させるところまでだぞ。いいな?」
念を押してくる中年にほとほと嫌気が差す。仕事があるというのは口実で、要するに彼は関わりたくないのだろう。他の野次馬もどれも似たような表情をしていた。
「……わかりました。それでもいいのでとりあえずは移動を」
「ふむ、抱えればいいかね?」
「いえ、まずは大きな布を。彼女をすっぽり包めるぐらいのがあると助かるんですが」
「そうだな、近くの店を探してこよう」
「急ぎでお願いします。私はここで彼女を診ているので」
「う、うむ、任せたまえ」
まったく頼りにならない中年の言葉にノエルはただただ頭を下げるしかない。彼らの善意に縋るしかないのが悔しかった。