第1部 医者の親心
薄暗い室内をアルコールランプが照らし、すっぽりとベッドを覆ったカーテンに二つの人影が映っている。一方は細身の男。もう一方は影の長さから推測するに少年か、あるいは少女だろう。腰の高さまで上げられた風変わりなベッドには何者かが横たわっているようで、シルエットは緩やかな曲線を描いている。
「筋鉤」
「ん」
「鉗子、コッヘルのほう」
「……ん」
消毒魔術によって滅菌された空間で、坦々と続けられるやり取り。メイナードの指示に助手であるノエルが言葉少なに応える。規則正しい女性患者の寝息と金属を擦りあわせる音が時折響いた。
そうした静けさの中、切り開かれた腹部から親指大の軟体が取り出される。てらてらとした光沢を帯び、赤黒く膨れ上がったそれは、見る者によっては生理的な嫌悪感を抱くのかもしれない。
「よし、虫垂摘出完了。あとは閉じて終わりだ」
「ふぅ……」
「まだ気を抜くのは早いぞ」
「……わかってる。これの片づけもあるし」
年若い少女が並べられた手術器具を眺めて唇を尖らせる。だが彼女にだって手術に携わる人間としての責任感はあるようで、むくれながらもそれ以上無駄口を叩くことはなかった。
やがて滞りなく手術が終わり、患者が目を覚ます。
「ああ、目が覚めましたか。どこか痛いところはないですか?」
声をかけながら歩み寄るメイナードを映す瞳にはまだ力がない。女性は眠気を覚ますように頭を振り、ゆっくりと自分の状態を確かめていく。
「……ええまあ、多少違和感がありますけど、痛いということは」
上体を起こして傷口に触れようとするのをメイナードはやんわりと押し止めた。
「そうですか。たぶんまだ麻酔が残っているんでしょう。後で痛くなってくるでしょうから、その時は我慢しないでこちらの痛み止めを飲んでください。それから、動けるようでしたら今日はもう帰ってもらっても結構ですけれど、三日間は運動と食事は控えるように。辛いとは思いますが水で空腹を我慢してください」
「わかりました。ありがとうございます、先生…………」
頷いた後も躊躇いながら、けれども視線を外そうとしない彼女に首を傾げる。
「なにか?」
「あ、いえその、本当に本でお支払いしていいんでしょうか……?」
不安そうに見上げてくる彼女にメイナードはしっかりと頷いてみせる。
つい最近市場で本屋を始めたばかりだという彼女には今回の急性虫垂炎はまさしく晴天の霹靂だっただろう。腹痛を堪えながら医者を探し、しかし治療費を聞くたびに飛び上がる。開店資金のために方々へ金を借りている彼女が大金など払えるわけがなかった。
そうして熱にふらついた足を引きずっているうちに気の毒に思ったヤブ医者がメイナードを紹介したのだという。
「でも……」
よほど律儀な人なのだろう。なおも言い募ろうとする彼女をメイナードは手で制した。
「代わりにお店の商品をいくつか頂くわけですから気にしないでください。それに、本というのは売り値以上に価値があるものだと僕は思うんですよ。知識ほどお金に代えられないものはないと思いませんか?」
「は、はぁ……」
「あ、いや失礼……。お店にどんな本があるかと考えていたら少し舞い上がってしまって。……とにかくお金のことは気にしないでください」
「……わかりました。こちらとしては願ってもない話ですし、お言葉に甘えさせてもらいます」
恥ずかしさから頬を掻く医者を、患者は苦笑を浮かべながら見上げていた。
◆◆◆
数日後の朝。
「おーい、起きろ」
基本的に診療所はメイナードがノエルを起こすことから始まる。
木造平屋の一階。看板も無く、一見ただの借家にしか見えない部屋が彼の診療所だ。本来二人程度なら十分に暮らせる広さの大部屋は、診療所を兼任していることで少々手狭な空間になってしまっている。
ベッドとソファー、それに診察机がある辺りは多少小物で散らかっているが、概ね普通と言えるだろう。しかし住人を押しつぶすかのようにずらりと並んだ薬棚と、所狭しと積み上げられた書籍たちが奇妙な圧迫感を演出している。唯一満足に人の歩ける空間といえば、玄関から机への通路だけで、その分追いやられた書籍の搭が台所にまで及んでしまっていた。
今年三十二になるメイナードはそれらの搭を器用に避けてベッドに向かう。とうに日が昇っているというのに、いまだ毛布にくるまってぐーすか眠りこけているノエルを起こすためだ。
体に手をかけて優しく揺すってやると、髪を短く切りそろえた助手がむずがるような声を漏らした。メイナードを視界に映すと、もそもそと上体を起こして眠そうに瞼を擦る。
「おはよう。もうそろそろ七時だぞ」
「ん……」
これ見よがしに首から下げた懐中時計を見せてやると、喉を鳴らして毛布をはねのける。眠そうにしながらも建ち並んだ搭をきっちりと避けていくあたりはさすがに手慣れたものだ。木桶を手に玄関を出ていく彼女の背中にそっとため息をもらす。
「ったく」
もう十六になるのだからいい加減一人で起きてほしいと思う。けれど育ての親である彼はつい甘やかしてしまっていた。親にとって子供はいくつになっても子供というが、まったくその通りである。それはたとえ血の繋がりがなくても変わりはしない。
「さてと……」
小さく呼気を吐き出して薬棚と向き合う。彼女が戻ってくるまでの間に在庫をチェックしてメモを取っておかなければならない。
雑紙を重ねただけのメモ帳を片手に引き出しを順番に開けていき、乾燥した薬草や小瓶におさめられた粉薬、薬品の類を目分量で確認していく。不足分のリストを一通り作成したところで彼女が戻ってきた。
短く礼を言って、汲んできてくれた水を両手で掬う。まだ春先ということもあって指先が痺れるほど冷たかった。
顔を洗ったあとは鏡の前でヒゲを剃る。巷ではヒゲを立派にたくわえた方が男らしいということで伸ばしたままにする者が多いけれど、医者である以上は衛生面に気を使わないわけにもいかない。やや億劫ではあるがこれも日課の一つである。……メイナードの女日照りとは、おそらく関係がない。
アゴまわりを撫でながら、剃り残しをチェックしていると、いつの間にか背後から鏡を覗き込んだノエルが半眼になっていた。
「……な、なんだ?」
内心の動揺を悟られないように、けれど決して目を合わせないようにして問いかけると、彼女が小さく嘆息した。無言で窓に駆け寄り、勢いよく木戸を開く。
「うっ……」
室内を柔らかく照らしていく陽光にメイナードは思わずうめき声を漏らした。眼球の裏に生じる鈍痛に反射的に目を細める。大股で近づいてきたノエルが確信を持った様子で仁王立ちしていた。
「また寝てないんですか……」
詰問口調で頬を膨らます様はさながら無精な親に約束をすっぽかされた子供だ。最近になってようやく女性らしい体つきになってきた彼女だが、まだ幼さの残る面貌で怒られてもまったく怖くない。だが一緒に生活している手前、変に機嫌を損ねられても厄介である。普段から涼しい顔で毒を吐く彼女は一度怒り出すと長いのだ。
とりあえず薄く浮いた隈を隠すように目を伏せて、もごもごと弁明してみることにする。
「……いや、徹夜する気はなかったんだけど、気づいたら朝でさ」
「いつものことですね」
辛辣な言葉にぐうの音も出ない。元来、研究者気質であるメイナードは一つのことに集中するとしばしば没頭してしまう癖がある。しかしそれを改善する気は毛頭なかった。
医者であり魔術師でもある彼にとって、より効く薬や確かな医術・魔術を模索するのは当たり前のことだからだ。けれど半ば掛け持ちのようなことをしているため、彼には何よりも時間が足りなかった。
あまり喜ばしいことではないけれど、近場に彼のような良心的な医者がいないこともあって、診療所は連日盛況。結局、寝る時間を削って研究するしかないのが実情だ。そうして今朝も本を開いている内についつい読みふけってしまった。
「この前の手術代、ですか……」
机の上に積まれた本の山から目ざとくそれを見つけて彼女が呟く。
朝陽に照らされた背表紙にはこう題されている。
『魂の存在証明』
医術書でも魔術書でもない。言うなればオカルト本である。
「こんなのが一体何の役に立つんです?」とは彼女の言葉だ。やはりまだ盲腸の手術代を本に代えたことを納得していないようで、彼女の視線は非常に厳しいものだった。
「それで、何か成果はあったんですか?」
「いや、残念ながら……」
「はぁ、結局くたびれ損というわけですか。いえ金銭的にもマイナスですが」
「ぬぐ……」
ここ数日はこうしてチクチクと責められている。
「ま、まあそう言わないでくれ。そんな簡単に収穫があるわけないじゃないか」
「そうでしょうけど……」
歯切れ悪く呟いたノエルが諦めたように肩を落とした。どれだけ言葉を重ねたところで無駄だと知っているからだった。
「でもあまり夜更かしはしないでください。ただでさえ――」
「毒を飲んでるんだから?」
言葉を継いでみせると彼女は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。わかっているなら徹夜なんてするなと視線が物語っていた。
毒を飲む。それこそがノエルが口を尖らせる最大の理由であり、メイナードが魔術師である証左だ。
今より約三十年前、とある研究者によって魔石と呼ばれている結晶、ひいてはそれを構成する魔素が、人の思い浮かべたイメージに様々な反応を示すことが発見された。以来、国が助成金を出して全面的にバックアップしたこともあって急速に研究が進み、今日では魔術として社会に浸透している。
一般に想像されるようにまず真っ先に利用されたのは軍事面だったが、他にも上下水道・紡績・製紙・製鉄に至るまで、色々な分野で影ながら活用されている。魔術は今や生活基盤になくてはならないものと言っていいだろう。無論、メイナードの扱う医療も例外ではない。
ただし魔『術』というからには、扱うのに相応の技術が必要である。鉄鉱石を用意しただけでは鉄にならないのと同様、材料を加工するための準備と知識・経験が必要なのだ。中には研究の末に改良が進み、大気中に微量に含まれる魔素を用いて誰にでも使えるほど簡略化されたのもあるが、それらはまだほんの一部だけである。
そしてその魔術師の準備の一つに『服毒』が含まれるのだ。これは術者が自身の体に害を及ぼすことで意志を強くし、より大きな魔力を行使できるからである。先の鉄の例で言うならば、いかに大量の鉄鉱石を用意しても炉が小さければ一度に作れる量に限りがある、といったところだろうか。魔術の規模が大きいほど行使する魔力も大きくなり、必要な毒の量も増えていく。
そうした理由から魔術師はほぼ例外なく自ら毒を摂取している。もちろん体調を崩さない程度に調節はするが、それでも毒は毒。やはり健常とは言い難い。たとえ血を分けた肉親でなかろうと、親代わりの人間が毎日毒を飲んでいれば止めたくもなる。少しでも体を大切にしてほしいと思うはずだ。
けれど娘の心配を理解していてもメイナードは服毒をやめようとはしない。なにも新しい魔術を開発して手柄をたてたいと野心を抱いているわけではなく、一つでも多くの命を救いたいからである。そういう意味で彼は正しく医者だった。
「……そんな顔するな」
何も言わず、ただ眦を下げてうな垂れるノエルの頭にメイナードは手刀を落とす。
こういう時どんな言葉をかけてやればいいのか、不器用な彼には判断がつかなかった。幼い頃は菓子の一つでも与えていれば簡単に機嫌がとれたものだが、もうその手が通用しないぐらいに彼女は大きくなっている。
年頃になったのだから、いっそ嫁に出してしまえばこの気苦労もなくなるだろうかと最近では考えてしまう。愛想がない上に毒舌で、おまけに友人らしい友人もいない彼女に、果たして良い相手が見つかるかどうかは別として。
「ほら、あまりゆっくりしてる時間ないんだからさっさと片づけるぞ」
診療所の診察時間までまだ猶予はあるが、それでも暇ということはない。薬の調合と玄関先の掃除、申し訳程度だが室内の片づけなどなど、やることは山積みだ。
先ほど作ったリストを掲げながら脇を通り過ぎると、背後から背中を小突かれた。振り返ると箒を持ったノエルが玄関を出ていくところだった。
叩かれた分はやり返すということだろう。まったく気難しい猫のようで扱いづらい。やはり嫁に出すにはまだ早いようだと、メイナードは娘の後姿に静かに嘆息した。