【競演】冬蛍、飛んだ
7800字程の物語、どうぞお楽しみください。
競演参加作品、テーマは「家族」です。
~まもなく…方面……行列車が到着いたします。
~危険ですので黄色い線の内側に立ってお待ちください…
「あっ……ごめん、電車来ちゃうから後でかけ直すね、うん、うん……じゃあね!」
~急行……行まもなく出発します。
~閉まるドアにご注意ください……
「う……いしょっと……」
人でひしめきあう車内。
唯一自分の居場所ともいえるような小さなスペースを見つけ、身体を滑り込ませ一息ついた。様々なものが詰め込まれた重いリュックは、四苦八苦しつつも床に下ろす。首にまとわりつく熱気を振り払うように、夜は冷えるからと巻いていた秋物のショールを外したが、置く場所もなかったため、肩に掛けるだけにした。
そしてスマートフォンを手にし、何も通知がないことを確認すると、小さな口でそっと呟いた。
誰にも分からないように、小さな小さな、悪態を。
「全く、もうさ……嫌になっちゃう」
電車の中、誰かが特別大きな声で会話をしているわけではない。しかし、妙にこもる熱気のせいもあるのか、ひそひそ声がいつもより鬱陶しく感じた。何でこんな夜遅くに、満員電車になっているのかとスマートフォンのロックを解除し、画面を覗き込む。
するとスマートフォンのニュースによれば、この路線上で数時間前、人身事故があったとある。帰宅困難者となっていた人々が、運転再開直後のこの電車に乗っているのだと分かれば、当然、この混み具合も理解できた。
形容しがたいだるさを振り払おうと音楽プレーヤーを求め、薄手のコートの右ポケットを確認するが、すぐに研究室に忘れてきたことを思い出して、ため息ばかりが増える。
本当にどうしようもない。
何もすることがないので、目の前にある窓ガラスの、外にある闇夜に目をこらすのだが、窓は鏡のように自分の姿を映し返してくるだけだった。時々視界に飛び込んでくる街灯や、店の看板をよく見ようにも、自分の顔は否応なしに視界をよぎり続けた。スマートフォンも充電がわずかなため、念の為電源を切った。そんな画面を見ればやっぱり、自分の顔がその真っ暗な画面に映るだけである。
「酷い……顔」
こんな、化粧もしていない疲れ切った顔など、誰も見たくないというのに。このような時こそ、席に座ってそのまま目を閉じることができれば、と心の底から願った。しかしながら次の駅に着いても、むしろ増えていく人の群れ。発車間際、必死に乗客を車内に押し込む、肥満体形の駅員がなんだか滑稽に見えた。
隣の乗客との隙間が狭まれば狭まるほど、ますます気分は低迷していく。不意に何を考え始めたのか、理由も分からない不安と憂鬱が心の中で渦巻き始めた。
これから、どうなっていくのだろう。
将来のこと。そして未来のこと。
それらはこの電車のように明確な目的地はなく、この窓の外に広がる、闇夜のように自分を呑み込んでいく。追いかけるべき背中もなく、見習うべき一番身近にいる大人もいない自分は、これからただ道標もない闇を、自分というちっぽけな体ひとつで進んでいかなければならないのだ。
唯一安心していられることといえば、それは未だ自分の前に残っている、小さな道標のような光だ。
迫りくる卒業論文の締め切り。本格的に動き出さなければならない就職活動。真新しいリクルートスーツの袖に腕を通したのはいまだ数回だが、それらがうまくいけば、とりあえず、目先の道を照らす松明の火のようなものになるだろう。
……しかし。
もし、卒業論文を書き終えられなかったら?
もし……就職活動に失敗したら?
そんなことあるはずはない、大丈夫だと、希望に向けて歩きださんとする自分と、それを無理だと嘲笑するように敵対する自分。そんな対照的な自分が堂々居座る脳内で、余裕を持って考え事できる隙間など、あるはずもなかった。
「はぁ」
規則的なようで不規則な電車の揺れるリズムに、いつもとは違い、身を委ねることさえできない。暖房が効く車内なのに、ますます冷えていく心の温度。そんな心を温めんと、両腕を使って自らを抱きしめ、早く、早く来いと、目的地を待った。
ちょうど車両が、トンネルの中に差し掛かろうとする時だった。
「えっ……」
一瞬、窓の外を光がよぎったのだ。それに気づいたのは……おそらく、自分だけだろう。
なんだったのだろう……と先ほどまで考えていたことなど頭の片隅に追いやって、改めて窓を見返した。そう、目の前にある車窓の外、既にトンネルの中に入り、何もないはずの闇に、丸い光が並ぶように飛んでいるのだ。
ほたる?
ううん、こんな、水辺なんて近くにない場所に、ありえない。
まして、こんな速さで飛ぶホタルなんていないはずだ。
それに今は秋。
冬の近付く……寒さが一段と厳しくなった秋だ。
トンネルは間もなく終わりに差し掛かった。
「あっ」
結局光が見えたのは、車体がトンネル内にあったほんの数十秒間だけで、再び窓の外は、遠方に見えるビルや住宅から、洩れた光が目視できるだけとなった。
「ねぇお母さん、さっきホタルが見えたよ」
「やぁね~ホタルなんてこんな季節にいるわけないわよ」
「そうだもん、絶対ホタルだよ」
「違うわよ」
「そうだもぉぉぉぉん!!」
「もう、大きな声出さないで」
不意に耳に飛び込んできたのは、そんな親子の会話だった。
その子にも、同じものが見えていたというのだろうか。そう思いつつ視線を子供に移した時。
脳裏に、かつての記憶が蘇った。
子供の駄々をこねる姿と、母親の呆れたような、でも慰めるようなそんな口調に。
記憶は、色濃く、鮮やかな余韻をもって、まざまざとまぶたに浮かんだ。
『ねぇ、さっき「しじゅーから」がいたよ』
――
『あれはシジュウカラじゃなくて、スズメだよ』
『ネクタイしてたもん』
『あれはただの、雀の模様さ。茶色だっただろう?もっと身体が大きくて黒のネクタイをした、黒と白の鳥……ほら、あれだよ』
『あれ見たもん。見たもん、さっきちゃんと見たもん!!』
『いいや、あれはスーズーメ』
『うわぁぁぁぁぁん!おかあさぁぁぁん、……がぁ……スズメってぇぇぇぇ……』
不器用だったあの人の日課について行くたび、くだらない喧嘩をした。
それを仲裁する母は、しかたないわねぇと優しげな笑顔を浮かべ、小さな自分の身体を抱きしめてくれた。
結局喧嘩の最後は、なかなおりのハイタッチ。その後に向けてくれた彼の満面の笑顔は、大概逆光で。
顔全体に暗い影が落ち、彼の笑顔は記憶の中で曖昧になっていた。
――
「おかあさーん、今日の夕ご飯はなーに?」
「そうね、帰るのが遅くなっちゃったから……カレーの残りにしよっか」
「うん、僕カレー大好きだよ!」
ふいに意識を現在に戻せば、既に親子の話題は夕食の内容へと変わっていた。そう言えば近頃、まともな食事をしていないと感じるのは、おそらく、家族と食卓を囲む時間が極端に少ないからだろう。朝も遠方の大学に向かうため、早くに家を出るから、同居する祖母と語らう時間などないし、夜は基本的に疲れ切って、帰宅するとそのまま倒れるように眠りにつく。大学に行っても、小腹がすく10時ごろに何かを胃袋にいれた後は、研究室にこもりっきりになり、結局夕方遅く、帰る途中でパンや何かを買って口にすることになる。
そういえば数日前にできた額のてっぺんのニキビは、友人のアドバイスの通りつぶさないようにしているが、それだけではなく肌にも張りがなくなってきた気がして、コンビニで肌専用のサプリメントを購入するかどうか、悩む日々が続いている。
「カレー……食べたい、なぁ」
「お姉ちゃん、カレー食べたいの?」
「え?」
気づけば自分の呟きを偶然耳にしたその子供が、こちらを見て目を輝かせていた。
……しまった。独り言も心の中に留めておくべきだったに違いない。
「お姉ちゃんもカレー好き!?」
「あ、うん……」
「あのね。僕のお母さんのカレー美味しいんだよ!僕のお父さんも大好きなんだ!」
「あ、すみません……この子ったら」
「いえ、大丈夫ですよ」
自分の独り言を聞かれた羞恥心からつい、戸惑いの表情を見せたものの、基本的に子供は嫌いではない。会話はそこで途絶え、少し距離が離れているその親子に、こちらから声をかけるべきか悩んだ。
~……駅~
ちょうどそこで、電車は人の乗降の激しくなる駅に到着し、多くの人が降りて行った。空席がちらほら見え始めた車内、覚悟を決めて子供の近くに歩み寄ると、しゃがみこんで目線を同じ高さにしてみせた。笑うその少年の顔は……
輝いて見えた。
笑顔が大切だと、自分に教えてくれたのは……一体誰だっただろう。
『笑顔が一番だからな』
『うん!』
――
小さい頃、時々彼に連れてきてもらった銭湯で、飲んだコーヒー牛乳はいつも甘かった。
腰に手を当てて飲むのが普通だと、後にテレビなどで見聞きすることになるが、あの人は両手で飲んでいたのだ。きっと、真似をしたがる年頃の娘が、その小さな手で無理をしないようにという、配慮だったのだろう。だから自分も、その小さな両手でビンを包み込み、必死になって、彼よりも早く、それを飲み干そうとしたものだ。
『ぷはぁ!』
『それなぁに?』
『これはな、飲み終わった時の爽快感を表す言葉でな』
『もうっ……この子にそんな難しい言葉はまだ分かりませんよ』
『そーかい、かん?』
『あははは、そうだったな。まぁさわやかーってことだ』
『ふぅん……さわやかー?』
『そうだそうだ、"えがお"が一番だ』
『いちばんだー』
髪の毛を拭きながら女湯から上がってきた母。いつも小難しいことを自分に教えようとする彼が、彼女の指摘に大きな笑い声をあげて答えるのが日常だった。乱暴に髪の毛を撫でまわすあの人の手が、自分のものよりもずっと大きかったことだけは、覚えている。それでも、常に銭湯の明かりが彼の顔に影を作ってしまうため、長身の彼の笑顔を見るのは、やはり至難の技だった気がする。
――
会いたい。
側にいないあの人に会いたい。
想いが心の中で爆発し、いつの間にか肩を掴んでいたはずの手は、首にかけたショールの端を強くつかんでいた。もう、何も伝えられないのに。想いは吐きだされることなく、溜まり続けて膨らんでいくだけだと言うのに。
「お姉ちゃん」
「……」
「おねえちゃーん?」
「あ。うん、どうしたの?」
「お姉ちゃん大丈夫?」
「あ……うん、大丈夫だよ。今日、お姉ちゃんもカレー食べようかなぁって思って」
「わー!僕の家と一緒だね!」
険しい顔をして、黙り込んでいた自分を心配してくれる少年に、建て前では心配をかけまいと、本音では弱さを見せたくない見栄から、笑ってみせた。彼の母親がそんな少年の頭を撫でて「この子の相手をしていただいてありがとうございます」と頭を下げてきたので、慌ててこちらこそ、と頭を下げ返す。
無邪気な子供の笑顔に救われた、ふと、そんな気がした。
~まもなく……駅~
しばらくして、目的の駅に電車が進入していく。
降りる人はほとんどいないこの小さな駅が、自分の目的地だ。
「お姉ちゃんここで降りるんだよ」
「えーそうなのー?」
「うん、カレー楽しみだね」
「うん!」
「ばいばーい、お姉ちゃん!」
「ばいばい」
少年との別れ際、母親のジャケットにしがみつきながらも笑顔を見せた彼の頭を撫で、電車から降りた。
閉まるドアの、長方形の窓の中、小さな手がこちらに向けて振られていることに気が付き、振り返す。
「……ばい、ばい」
赤色の強烈なテールランプの明かりを記憶に残し、さらなる目的地に向けて去っていく電車。
そんないつもの光景を、見つめていても仕方がないと歩き出したのだが。
その足も、ひとりでに止まり。
自分以外に降りることのなかったローカルな駅で。
行き場を失ったココロが、一滴二滴と、煌めく雫となって零れおちた。
「……おかあ、さん」
優しかった母が死んでから十数年、既に溢れていてもおかしくなかったそれが、とうとう堰を切ったように溢れだした。ショールで目元を覆うが、元々水を弾く材質のそれは、まったく意味をなさない。
「おとう……さん」
手で顔を覆った時、思い浮かんだ情景は、一番、思い出したくなかったあの日のものだった。
『今日からはおばあちゃんの家でお世話になりなさい』
『なんでー?』
――
母の葬式が慎ましやかに執り行われたその翌々日、彼から唐突に別れを告げられた。その時のあの人――"父"の表情を、ショックで動揺していたためか、自分はよく覚えていない。しかし、幼いながらも必死に伸ばした手を振り払われたため、大きな声をあげて泣いた憶えがある。そんな自分を抱きしめたのは、一番抱きしめてほしかったはずの彼ではなく、母方の祖母だった。自分に向けられた父の背中は大きく、そして遠かった。
『今日からお前は私の家で暮らすんだ』
『なんで!?なんでお父さんは!?』
『海外に出張とでも言っておいてください。では、娘を頼みます』
『……達者でね』
『お義母さまこそ。どうぞ彼女の為にも末長くお元気で』
まだ彼の言った別れの言葉の意味をよく理解できていなかった自分は、その後も度々「父はどこか」と探し、その度に祖母を困らせていた。
――
母が死んでから祖母の家に引き取られた自分。その数年後、ようやく父がもういないことを理解した私に突き付けられた真実。それは、父が自分の親権を放棄したということだった。
同時に、彼らが駆け落ちをした結果生まれたのが自分だと言うことを、母方の祖母に聞いてからは、一度も口にすることのなかった言葉がある。実の娘を父に取られただけではなく、彼女の死後、唐突に孫娘だけ遺されてしまった、そんな祖母への罪悪感からだったからのように思う。
――お父さんに、会いに行ってもいいですか。
今更、その一言が、何度も何度も脳裏で繰り返された。
お父さんに、会いたい。ただ会って……話がしたい。
お父さんのその手を、もう一度だけ……
お父さんの笑顔を、あの大きな手を……
「……ばっか、みたい」
駆け落ちなど、娘の自分に何の関係があると言うのだ。
自分が駆け落ちを止められたはずもなければ、祖母に罪悪感を抱くことすらおかしかったのだ。
それは父と、母と、その家族たちの大人の事情にすぎない。
親に会いたい子供の心は、たとえ父を嫌っていた祖母と言えども、理解できたはずだったのに。
死別したわけでもなく、ただ離れて生活しているだけ。何度も会いに行けたのに。
祖母が電話で話しているのを何度か耳にしていたというのに。
「ど……して」
どうして心に蓋をして、見えないふりをして、日々に追われようとしていたのか。
なぜ、あの日から一歩も進まないで、立ち止まってしまったのか。
彼女の止まった足が、トン、と軽い音をたて、再び動き"始めた"。
「……お父さん!」
改札を滑り込むように通り抜ける。しかし、予想以上に自分は慌てていたのか、ICチップが内蔵された定期券を感知できなかった改札。のんびりお茶を飲んでいた駅員の指摘に、駆け戻ってかざし直し、それから足早にロータリーを抜けた。
家まで歩いて15分。
そんな時間すらもじれったくて。
夕方まで降っていた雨で、水たまりの残る道を、真新しい茶色のブーツで駆けだした。近頃運動不足だったのか、すぐに息が上がってしまう。吐いた息が、街灯の下に来た時、白い水蒸気になっていくのが見えた。
「はぁ……はぁ……」
少しだけペースを落とし、ジョギングのようなつもりで、いつも歩く道を進む。
そういえば、まもなく母の命日だ。道の横にぼんやり見えた墓場を見て思いだした。
15分もかけることなく到着した自宅の居間に、すぐさま向かう。普段なら、寝室に直行しコートを脱ぎ、居間にいる祖母には挨拶だけして布団に潜り込むのだが、今日はどうしても彼女に言いたいことがある。コートも脱がず居間に顔を出す自分を、彼女は目を丸くして見つめたが、すぐに、おかえりなさい、と微笑んでくれた。
「ただいま!」
「さてさて、コートを脱いでおいで。夕飯はどうするの?」
「うん。今日は、食べる」
「そうかいそうかい。あったかいスープを用意するかね」
「おばあちゃん」
「どうしたんだい?」
「お父さんに、会いにいってもいいですか」
――
そう、それが今日。ようやくたどり着く、この道のり。
電車の中、何を話そうかと考えを巡らせながら、車窓の外に見える景色を眺めていた。
広がっているのは静かで少し、寂しくなった田園風景。しばらくして駅に到着すると、今日は大きめのリュックを背負い直し、一歩、足を踏み出した。
「わー寒っ……人の住む所じゃないよ全く……」
自分の住む地域では、近頃ようやく、冬物のコートを準備しなければと焦り始めたというのに。既に雪がちらつくこともある、そんな地域に住む彼は、一体、どんな格好をしているのだろう。
「あ……雪……」
微かに雪が降り始めた、白っぽい灰色の世界。
見慣れない駅員が切符をきる改札を出て、街路樹が立ち並ぶ大通りに出た時。
待っていてくれたあの人を見つける。
何年も会っていなかったというのにすぐ分かってしまったのは、父娘の絆というやつのおかげだろう。
「お……」
こちらの姿に気づいていない彼に声をかけようとし、ふとやめる。そしてまじまじと、腕時計を何度も見て、落ち着かない様子の彼を観察した。
記憶の中では大きく見えていたその手が。
背中が。
そして顔に浮かべられた微笑は。
思ったよりも小さく見えた。
「私が、大きくなったって、こと、かな?」
降ってもすぐに地面へ溶け込んでいく雪を踏みしめ、彼めがけて一歩踏み出す。
大声で呼ぶその彼は……
「お父さん!」
初めまして、むあと申します。知っている方はこんばんは。
この度は物語を読んでいただき感謝です。
特別な想いをこめて、何度も何度も読み直し、編集した物語となっています。少々長めの物語ですが、ここまで読んでいただけたこと、嬉しく思います。
もし、読者の皆様の心に、何か残るものがあったとしたら、更に嬉しい限りです。
それではこのあたりで。
……当たり前のように家族が周りにいて、笑いあえる、その幸せをかみしめながら。
霧明(MUA)