第八章
指先が水分を欲していた。からからに乾ききった僕の右手の人差し指と中指は、触覚としての機能を十全に果たしていないように思われた。
しかし、その状態でもあえぐようにうめくように弦の震動を、空気の響きを感じようとしていた。
マメはつぶれ、指の長さも摩耗してすり減ったように思える。
練習のし過ぎだと思うのだが、それでも技術が追い付いていない今、寝ても覚めても自分でも驚くほどストイックなまでに練習を求めていた。どうせ才能はないのだから、間違えずに弾ける程度にはと、そう思っていた。
そうして挑んだスタジオでの通し練習だった。
僕らはまた懲りずに、幸の薄いモヒカン店員のいるスタジオに集まっていた。
予約していた部屋はこの日は空いていたらしく、すんなりと僕らは通された。
モヒカン店員は以前のこともあるのか、御堂に対してどこか怯えた態度をとっていた。御堂も御堂で、普段なら放っておくはずなのだが、どこか気に触ったらしく、舌打ちをいちいち聞えよがしに、モヒカン店員を睨みつけていた。
恐らくこの二人も本能的な相対関係にあるように思えた。モヒカン店員はその舌打ちにますます怯えの色を隠せなくなり、御堂はその態度にますます機嫌を損ねていった。思えばこのやり取りこそがこの日の火種であったのかもしれなかった。
そのようないきさつもあり、御堂は見るからにたいへん不機嫌だった。
平静から機嫌が良くないのは毎度のことだったが、僕にもシビアさが求められる合わせ練習のときは機嫌がよくあって欲しいとは思うものだったが、その願いは淡くも崩れ去ったものだった。
部屋に入るや否や、御堂は自らの鞄を、飛んでいく軌道も確認せずに無造作に放り投げ、ぞんざいな調子でマイク周りの機材をいじくり回していた。
遠慮なく車椅子に踏まれ、蛇のようにのたうちまわったコードは凶兆を僕に予感させた。僕は鼻先をかすめた鞄を、僕の荷物と一緒に隅にまとめておき、これから始まる困難を迎え撃つべく、嘆息しながらベースをケースから取り出した。
和也もそんな殺伐とした空気に気付いたのか、僕に何か言いたそうにしていたが、御堂のマイク調整の無機質さに圧倒されためらっていた。
御堂は音量などを調節しながら、マイクに息を吹きかけたり、舌打ちをしていた。そんな最中に、流石の和也も僕に話しかけるのはあきらめたのか、黙って演奏の準備に取りかかった。
その日はこのスタジオまでの道中に、さんざん自慢していたエレキギターを和也は携えていた。それは本人曰く、ミック・ジャガーも使っていたギターらしいが、どう見てもそうは見えない新品同然の使いこまれていないギターだった。
おそらく、和也はスタジオに着いてからもそのネタを引っ張りたくてそんなことを言ったのだろうが、乾いた空気の前には彼も自粛したようだった。
僕も簡単に調整を終えたところで、おもむろに御堂はマイクのスイッチを入れた。
「始めるぞ」ぴしゃりと言いきったその言葉は、正に開始の合図としてはうってつけだった。
しかし、簡潔すぎた彼の言には何も説明がなされていないことに、僕も和也もあわてて静止の声を出した。
「おいおい、やるのはユニコーンの曲でいいのかよ」
そう言った和也の前に用意されているのは、練習曲で渡されたユニコーンの『素晴らしき日々』の楽譜だった。ベースを買ってからというものの、僕が渡されたのは四曲の楽譜だったが、練習したのはこのユニコーンの曲だけだった。
それは和也も一緒なのだろう。つまり僕らは現状この一曲しか演奏できなかった。だから「そうだ」と答える御堂に僕らは安堵の色を隠せなかった。
「あと、御堂、君がボーカルをやるの」
それは、僕がこの部屋に入ってから気になっていたことだった。遅すぎる発見というか今まで気にしなかったのがおかしいのだが、僕はこの時になってようやく御堂のパートがボーカルだということを飲み込んだのだった。
「お前ら次第だな」と実に御堂らしい返答を受け、僕は果たしてこの男がボーカルだけに甘んじていていいのかと思った。
御堂の楽器の錬度の高さをすでに彼の家で確認済みだった僕は、彼も当然なんらかの楽器を担当するものだと思っていた。
和也が参入し、ギターを任された時も、もう一本ギターを入れたツインギターでやるものだと思っていたのだが、蓋を開けてみれば御堂はマイクを持参し、明らかにボーカルだという姿勢を僕らに見せていた。その采配に僕は正直なところ歯がゆいとさえ思っていた。
御堂のそれこそ次元が違う楽器の扱いには、感心させられながらも学ぶべき個所は無数にあり、また演奏中もその技量によって僕と和也を引っ張っていってくれる柱としての役割を期待していたものだったが、ボーカルとなると少しばかり具合が違っていた。
御堂が担当するのだから、それ相応の力量があるのだろうし、それこそ世間一般での歌が上手いといわれる以上のものはあるのだろう。
しかし、それを差し引いたとしても未熟な僕らを引っ張っていける目が覚めるような演奏は望むべくもなかった。
そんな残念な思いの末、その思惑とは異なり御堂のボーカルに興味を覚えた僕は、彼の「次第」を頼りに未熟ながらも、間違えずに演奏を終えてみようと自分に喝を入れた。
和也も御堂の発言には少し目を見張ったが、いざ演奏となると彼の自信過剰たる目が不敵に細められ、これから自らの演奏に酔いしれるであろう予兆を見せていた。
程無くして御堂がドラムのスティックを掲げ、十字を作った。
僕はその合図にこれまでの練習でささくれ立った自分の指を確認し、和也の指を垣間見た。一瞬のうちに映ったその指は、僕の指と同じように固い意志の結晶を確認できた。
和也も練習を重ねてきた。その現実はあの忌まわしい惨劇の前の演奏を僕から払拭させ、今から一緒に演奏する仲間として僕に信頼を与えてくれた。ドラムもボーカルもなかったが、これはこれでいい音楽になりそうだった。