第六章
スタジオに入るのは初めてだったのだが、僕はこの空間がすこぶる気に入ってしまった。
備え付けのギタースタンドには、僕のベースが背筋を正して収まっていて、僕の部屋に置いてあるよりも何倍も按配がよかった。四角く切り取られたような部屋に、楽器が主たる目的として配置されているというのは何とも心地がいいものだ。
僕らはあらかじめ予約していた、学校の近くの音楽スタジオへと辿り着いていた。
徒歩で行ける距離にあるそのスタジオまでは、道中、和也の謙遜することを厭わぬ自画自賛と御堂のきっちりとした返答により間が保たれていた。
僕はもう途中から会話の内容が行き過ぎたものとなり、吹き出しそうになるのをこらえるのが必至だった。和也は思いもかけぬ美辞麗句を積み重ねた言葉に舞い上がってしまい、もはや普段思っていない箇所まで自身を褒め称えることを怠らなかったのだから、思えば相当に奇妙な内容の会話となっていただろう。
しかし、気乗りしないのもまた事実だった。自らを天才とまで嘯く隣のお調子者はあまりも楽天的過ぎていて、また御堂は何を考えているかわからなかった。
僕はスタジオが近づくにつれ、楽しみにしていた練習に穏やかな未来を祈ったが、暗澹たる気持ちは抑え切れないまま、とうとうスタジオに入った。
僕らは受付を済ませ、しばしの間先客を待ち、それから予約した部屋へと入った。
その受付した時の店員が、ピンク色の見事なモヒカンヘヤーを携えていて、僕は少なからずびっくりしたものだったが、重ねて驚いたのはその丁寧な受け答えだった。僕らはモヒカン店員の懇切丁寧極まりない案内を受け、面喰ってしまった。
御堂はそのことに対しては興味を示さずそっぽを向いていたが、和也は僕と同様に驚いたらしく、二人で笑いを噛み殺しながら案内された部屋に入った。
そして僕は部屋に入り、その設備の素晴らしさと部屋の角ばった内装に舌を巻き、掻き立てられる昂揚感に己が身を任せていたのだが、突然にその陶酔が破られた。
理解できぬ破砕音が、余韻を長くして白い柔らかな壁に響き渡った。
空気が異様なほど細かく振動し、その揺らぎが僕のベースの練習ですっかり固くなった指先に伝わってきた。
音の鳴った方向を見ると、御堂がスティックを片手にクラッシュシンバルを叩いたようだった。それはただのシンバルの音の響きだったが、御堂が行う暴虐のスイッチでもあったようで、何とも言えない不吉な音だった。
「じゃあ、佐田。なんでもいいから早く弾いてみろ」
御堂の表情からは先程までの笑みが消えていて、うっすらと苛立ちさえ感じられた。眼光は絞られ、奥に潜む瞳は座っている。
圧倒的な命令口調でのその言葉は、右手でいじる軽やかなスティックの動きも相まってか、余裕と風格を表し、上下関係をまざまざと示していた。
御堂のあまりの豹変ぶりに開いた口のふさがらない和也は、何事か理解できない様子を体全体の脱力感で示し、御堂の方を向いて阿呆のように固まっていた。
もう一度、シンバルが叩かれた。
その音を契機に和也は正気を取り戻したものの、状況把握は全くできていないようで、戸惑いつつ、そして僕の方をちらちらと伺いながら、たどたどしくギターケースから自身のギターを取り出した。
頭がついていってないのか、目を何度も瞬いていたが、御堂がまたスティックを振り上げた動作を行うと、ギターを慌てて構えた。
これまでのお膳立てといい、和也の混乱ぶりといい、何から何まで嫌な予感しかしなかった。
もとより和也にいい演奏など望むべくもなかったのに、それをすかして、威圧し、脅しつけたところでそれがプラスになるなんていうのは、奇跡が起こったとしても無駄なことに思えた。例えば、ここに震度七くらいの直下型地震でも起これば、或いはみたいなことを想像するようなものだった。
そして演奏が始まり、あっけなく終わった。
いろいろな意味で終わった。いや、終わっていた。
弾いたのは流行りの邦楽だったのだが、和也は原曲がサビまでいかなければわからないほどに、ゆっくりとリズムを落として弾いていた。おそらくそうでもしなければ、指の動きが間に合わなかったのだろうが、そうまでしても遅れた箇所はいくつもあり、しかもコードを満足に抑え切れてなかった。
さらに和也はそれでも弾けていると思ったのか、御堂の数刻前の威圧的な態度などさらさら気にせず、自分の演奏に陶酔したように、見ている者が不快になる笑顔を見せ、実に楽しそうに演奏を終えた。
その後のやりきった感を表情に見せた和也は、「ありがとう!」とまで言いそうなくらい充実していた。
僕はとりあえず拍手をした。和也とも御堂とも目は合わせたくはなかったので、黙ってうつむきながら拍手を数回行った。
その僕の乾いた平手の音の後は、静寂が訪れた。
和也は感想を待ち、御堂は怒りに身を震わせていた中で、喋るべき役割を与えられていたであろう僕が黙っていたため、誰も何も言わなかった。僕は和也の演奏のあまりのひどさに口を噤む他なく、御堂の行動を警戒する気も制約する気も失せてしまった。
「もう一回だ」しばしの静寂の後、御堂はそう言った。
僕としてはこの発言は意外だった。御堂が問答無用で和也に車椅子に収まりきらない暴力を放つかと思われたが、もう一度だけチャンスを与えたのだった。
僕は和也はどこかで一発くらいぶん殴られてもいいかもしれないという考えから、何かが起きてからその後に一拍遅れて止めに入ろうと思っていたのが、肩すかしをくらってしまった。
しかし、僕としても先ほどの演奏は何かの間違いだと建前を装いつつ、本心は臭いものをもう一度嗅ぎたくなる心理というか、自分より下手なものが存在することの再確認というか、いずれにせよ再度和也の演奏を聴いてみたいものではあった。
和也は御堂の荒くなった語調を依然いぶかしみつつも、まんざらでもないと言った様子で得意げに演奏に取りかかったが、最初の一音でそれは途切れた。
あろうことか、最初の和音をミスったのだ。それはコードが抑え切れてなかったのか、ただ単純に思い間違いをしたのかはわからないが、素人に毛が生えたような僕でもわかるあからさまなミスだった。
和也は失敗を「ソーリー」という謝ったのか馬鹿にしたのかわからないような言葉でその場を濁し、もう一度演奏を始めようとしたが、その瞬間人間大の質量が、僕の横を水平移動しながら和也に突進していった。
僕は少し思い違いをしていた。御堂が人を殴るということはパフォーマンスやポーズなんかではなく、現実の出来事でしっかりとした威力があり、車椅子に乗っている以上、放出されたエネルギーのブレというものは存在するということだ。
まず、狭い空間で御堂が暴力を行うことは相手と、当の本人の危険性を伴う。次に辺りの物が固定されていなければ、さらに人的被害は拡大する。そしてその巻き込んだ物が高価なものであればあるほど、そののちの被害は人的被害にとどまらず、物的被害まで及び甚大なものとなるということだ。
これは段階的ではあるが、しかしどれをとっても留意すべき事実で、その実この空間というものは全ての要因が揃っており、「御堂が人を殴った」という事実だけでは済まなくなることは火を見るよりも明らかだった。
僕の考察に漏れなく、御堂は、車輪でコードを踏みつけ、ボディで機材を倒し、その他もろもろ巻き込みながら猛然と和也に飛びかかった。
御堂の車椅子を操る両腕から得られた突発的な推進力は、僕の反射神経などというものに一切の追随を許さなかった。
僕が御堂を見ていたと思ったら、それは軌跡であり残像で、視界を辿るとすでに御堂は急停止からの慣性の法則に則り、そのままの勢いで車椅子から飛び出し、振りかぶり気味の右拳を和也の右頬に吸いこませていった。
僕はその時の光景はストップモーションのように覚えている。コードの先に付いたシールドが自らの意思を持つかの如く跳ね上がり、ドラムやシンバルが倒れるさなか、それらに付帯した金属は部屋をくまなく反射し、車椅子はロデオの馬のように暴れ、御堂は怒りに頬を染め、和也は戦慄に顔を白くしていた。
何カットにも及ぶ連続再生の映像の中、僕の網膜はその切り取られた一枚を選択し、突如の迫りくる光源と共に僕の頭に残った。衝撃的な光景がその場では行われ、かつ動いていた。
やがて、盛大かつ混沌とした大音量が僕の耳を劈いた。ドラムもシンバルも椅子も車椅子もギターも和也もひっくり返っていた。落ちて、ひっくり返っていないのは御堂だけだった。
いつの間に受け身を取ったのか、和也の上に馬乗りになり、この上さらに襟首を引っ掴んで引き起こし、至近距離でため込んだ怒りを思うままにぶつけていた。
「お前面白いじゃねえか、ああ! 面白すぎて笑えないな、全然笑えねえぞ! ドラムセットが倒れちまってるじゃなえか! どうすんだコラァ!」
御堂の右手は言葉を重ねるごとに力が篭っていっているのか、和也の襟首は予断無く締まっていった。
喋れば喋るだけボルテージが上がっていっているようで、御堂は決して力を緩める気はないようだった。御堂の右手は血管が浮かび上がり、その表情には青筋が窺えた。
僕は今までこんなに怒っている人を見たことがなく、さらに車椅子に乗っている人がこんなにまで暴力的な様を演出できるのかと思うと、今現在起こっている事態の深刻さを押しのけてでも、エンターテイメント性がふつふつと湧いてきたものだった。
僕のその考えは実に陳腐なもので現実感を伴ってはいなかった。
そう僕が見物している間にも、首を絞める力は強まり、パニックに陥っている和也は呼吸困難によるさらなるパニックを引き起こしていた。それでも和也は解放されようと、薄れゆく意識の中、御堂の右手に手を添えたが、御堂はその手を左手で弾き飛ばし、追加攻撃としてその左手も使って和也の首を締め始めた。
この時僕は、車椅子というのは加減速や旋回時に握力を要するものだとうことを聞いたことがあるが、御堂の握力というのはいったいどのくらいのものなのだろうかということをのんきに想像していた。
そして和也の顔色が白から青に変わり始めた頃、先ほどのモヒカン店員が騒ぎを聞き付けたのか、僕らのいる部屋に解読不可能な奇声を上げながら部屋に入ろうとしていた。
しかし、御堂の車椅子がそのドアのいい具合でのつっかえとなり、モヒカン店員は扉を開いた瞬間、ぶつけた反動で挟まるという離れ業を見せ、驚倒していた。
もはやその場には秩序は存在していなかった。
聞こえてくる音といえば、うめき声だったり、崩壊した楽器が起こす空空漠々たる単音であったり、響き渡る激昂の声であった。見えるものは滑稽な茶番劇だった。
和也も御堂もモヒカン店員も楽器も全て演者のように思えて仕方がなかった。
僕はその中でモヒカン店員があまりにも滑稽な典型として感じられ、なんだかひどく惨めな気持ちになったため、車椅子をどかして助け起こしてやった。
モヒカン店員はすかさず目の前で起ころうとしている殺人事件を未然に防ごうと二人の間に鬼気迫る、何か狂乱めいた勢いで割って入ろうとしたが、どこまで哀れなのか、コードに躓き、頭をシンバルに叩きつけ、不協和音を残してその場に這いつくばった。
御堂はその光景を一瞥だにくれず、シンバルの音が耳に届かないかのように攻撃の手を休めようとはしなかった。
僕はその音を契機にのろのろと事態の収束に入ろうとしたが、どこから手を付けていいのかわからず、当面は足元に気をつけながら御堂に接近してみようと思った。
僕の耳内にはまだシンバルの震動の余韻が残っていた。耳の中にある蝸牛をかたつむりに例えて、僕はその想像の産物から抜け出すことはできないように思われた。
長い長い間延びしたその光景には、エンドロールの後の余韻に似た虚無感や永遠性があるかに思えた。